2004年12月07日
「普通」について
半月ほどまえ、実は面接を受けた。ある雑誌が人材募集をしていたので応募したのだ。その雑誌は自分が買ってまで読む数少ない雑誌のひとつだった。
結果から言うと散々だった。
スーツを着て地下鉄に乗ったら、急にお腹が痛くなった。永田町で降りてあわててトイレにかけ込んだ。ここしかないと言い聞かせ履歴書と志望理由を何週間もかけて書き、ラブレターを投函するような気持ちで出して、面接までこぎ着けたのに、体は正直だったようだ。
面接の日に鏡のまえでスーツを着た自分の姿を見ると、滑稽なほど似合っていなかった。ネクタイの色が悪いのか?シャツの色が合ってないのか?と色々と迷ったけれど、そういう問題ではなかった。そもそもスーツ姿が悪い訳でもない。スーツは好きとは言えないが、スーツを着て結婚式などのフォーマルな場に行く事はさほど嫌いではない。
本当を言うと人並みにちゃんと働き、劣等感を解消したいと思っていただけなのだ。人並みに「恋人がいる自分」になりたくて、恋していないのに自己暗示で恋していると言い聞かせていたようなものだ。素敵な人だし、趣味も合うしと、条件がばっちりだったのでお見合いした。そして“いざ”という段になって、体が恋していないことに気付いたのだった。頭はいともたやすく騙されるということを知った。
こんな心構えだから落ちて当然なのだろう。
数人だけの小さな編集部なので編集長と一対一の面接だったのだが、面接を受けながら、はっきりと、これは落ちた、これは違うと双方が分かっていた。だから後日連絡を受けてもほとんどショックはなかった。もし受かったら編集長の目を疑ってしまうところだった。
僕は、人並みになりたいとよく思う。
朝起きて、電車に乗って通勤する。休日は趣味に費やす。美術館や映画館に行ったり、山や海に行く。友達とお気に入りのレストランを開拓したり、一人で居心地のいいカフェを発見したりする。そういう「普通」の生活に、実はとても憧れる。「まっとうな、人としてあるべき生活」のような気がするのだ。しかし、そういう風に思い描く「普通」は虚構でしかないのだとも思う。「普通の生活」というように一般化された瞬間にことごとく虚構になる。
本当は誰一人として「普通」ではない。あるいは、どんな人もことごとく「普通」である。
例えば『博士の愛した数式』に出てくる博士は、交通事故にあって記憶が80分しか持たなくなっていて、数学雑誌の懸賞に応募するだけの生活を送っている。博士の家政婦は18歳で妊娠してシングルマザーで√(ルート)というあだ名の子供を育てている。博士はルートが大好き。タイガースと江夏豊も大好き。そういう具体的な生活があるだけである。
例えば『偶然の音楽』の主人公ナッシュは、消防士を辞め、遺産を使って車で目的のない旅をし、億万長者の屋敷の庭に幽閉され、何ヶ月もかけ石を積み上げて壁を作っていた。そういう具体的な生活があるだけだ。
例えば僕は大学を卒業し、作家になりたいな、写真家にもなりたいなと思いながら、次に何をテーマにしていいか全く分からず途方に暮れ、やっぱり就職しなきゃ、雑誌を作るのだから後々のいい勉強にもなるだろうと言い聞かせて地下鉄に乗り、下痢になっている。そういう、具体的な、個々のケースがあるだけだ。どれが「普通」でどれがそうでないなど言えるものではない。あえて言うならば全員「普通」。
「普通」というのは共同幻想なのだろう。
ある集合した無意識が作り上げる幻想なのだから、常に自分も含まれつつ、同一化はできない。
だから虚構でしかない「普通」に憧れても、逃げ水のように追いつかない。
かといって、逃げたと思ってもすでに追いつかれている。
「普通になりたい」と思っても完全になりきれる訳がなく、
「普通でありたくない」と思っても、違えば違うほどいよいよ同じということになる。
鵺(ぬえ)のように実体のない「普通」と比べて一喜一憂するのは本当にエネルギーの無駄だと思う。無駄なことにエネルギーを割かないでいられたらいい。比べたいという欲望から根切りをして、もっと自由でもっと明朗でありたいと思う。魂は、本来は太陽のようにものすごく明朗に、活発に燃え上がっているのだから。
今はテーマが見つからないので困っているけれど、
もっと自由に、もっと明朗になりさえすれば、テーマも見つかるだろう。
次にちゃんと取り組むべき何かが見えてくるだろう。
実を言うとそういう本然的なテーマを見つけてしまうことが怖くて、ぎゅっと目をつぶっている。
投稿者 tsuyoshi : 2004年12月07日 03:12
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