2004年12月04日

『偶然の音楽』

『ムーン・パレス』という小説は、今まで読んだ本の中でかなりお気に入りの一冊である。だから、同じ著者の別の作品も読んでみようと、『偶然の音楽』P・オースター(新潮文庫)を読んだ。

実はこの本は、ずいぶん前にいつか読むだろうとブックオフで買い、長い間本棚で読まれるのを待っていた。いわゆる「積ん読」というものだが、そういう本がかなりたくさん僕の本棚にはある。

いつか必ず読みたい。でももう少し後で。そうずっと思っていた本なのだ。
だから、そういう本は必ず「なぜ今この本なのか」と読む前も、読んでいる途中も、読んだ後も思っている。自分の人生と本を、時間を限定させる事によってより強固に結びつけたいと思っているのだろう。あるいはどこかで、「“今”読むべき本は、膨大な冊数の中でもたった一冊しかない」と思っているのかもしれない。だから僕は、本を読む時間と同じかそれ以上に、読む本を選ぶ行為に多くの時間を割いている。

僕は本を読む事は大好きなのだが、実は読むスピードは遅い。それにとてもたくさんの労力を使う。一冊読むとクタクタになる。時間的にも精神的にも多くを消費してしまう本は、やはりよくよく選ばなければならないと思っている。

ではなぜ、今この本を選ぶのか明確に説明できるかといえば、そうではない。
実用書などは必要だから読むと説明できるが、小説はちょっとよく分からないのだ。交通事故のようなものかもしれない。恋のようなものかもしれない。偶然、何気なく本棚から手に取り読み始め、いままでは入り込めなかったのにその時はなぜか一気にその世界に入り込め、そして読了してしまう。

『偶然の音楽』は、よりによってなぜこのタイミングにこの本を読んでいるのだろうと、以前にも増して強く思った本だった。『ムーン・パレス』と同じような体験をどこかで期待していたのだが、見事に裏切られた。
物語の構造はかなり似ているのに、読後感がまるで違う。どちらの主人公も最低限ぎりぎりのところまで止むに止まれぬ内面の事情で突っ走るように墜落していく。そしてもう本当にだめだという最底辺まで落ちた時に偶然の出会いがあり、物語が始まる。
しかし、『ムーン・パレス』の読後感が希望と開放感に満ちた物ならば、『偶然の音楽』は虚脱感と閉塞感に満ちている。

末尾にある小川洋子さんの文章にこう書いてあった。

オースターの小説を考える時、偶然という要素はどうしても外せないが、彼はそれを必然的な生死の対極にあるものとしてとらえている。理論や科学や法律でうまく取り繕われているようでありながら、実は人生の大半は理由のつかない偶発的な出来事によって形成されている。彼はその不思議の奥に、真の物語を掘り起こそうとしている。

偶然、この本を読んだ。いままでずっと本棚にあったにも関わらず、よりによってとても強い閉塞感に苛まされている今、この本を読んだ。以前に冒頭部だけ読んだときには引火しなかった導火線が、今回は一発で引火し、一気に読了した。なぜだろうと思いを馳せると、なんとなく分かったような理由も浮かんでくる。閉塞感を感じている時に、閉塞の物語が読みたくなったのかなと思ったが、それは後からくっつけた言いがかりに過ぎない。もう一カ所小川洋子さんの文章を引用する。

一人取り残され、途方に暮れた私がもう一度ページをめくり、読み返した場面がある。トレーラーハウスでのパーティの夜、デザートを運ぶナッシュが賛美歌を歌うところ。偶然口をついて出てきた音楽。題名の出所はここにあるに違いないと、私は信じている。

ああそうだった、そんな場面があったと思い出し、僕もその箇所を読み直した。偶然、口から音楽が漏れる。意味を越えている。音楽の一番幸せな形かもしれない。すこし長いがその場面を引用する。

出し抜けに、自分でもそんなつもりはなかったのだが、気がついたら、子供のころ覚えた賛美歌を歌っていた。「エルサレム」、詞を書いたのはウィリアム・ブレイク。もう二十年いじょう歌っていなかったのに、歌詞は残らず蘇ってきて、まるでここ二か月ずっとこの瞬間に備えて練習を重ねてきたかのように、言葉が次々と舌から転げ落ちていった。(中略)二人は最後まで黙って耳を傾け、それから、ナッシュが腰を下ろしてぎこちない笑みを彼らの方に向けると、二人ともぱちぱちと手を叩いてくれて、ナッシュがようやく立ち上がってお辞儀をするまで拍手を辞めなかった。

投稿者 tsuyoshi : 2004年12月04日 12:38

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