2004年12月11日
詩集『はだか』谷川俊太郎より、「はだか」
はだかひとりでるすばんをしていたひるま
きゅうにはだかになりたくなった
あたまからふくをぬいで
したぎもぬいでぱんてぃもぬいで
くつしたもぬいだ
よるおふろにはいるときとぜんぜんちがう
すごくむねがどきどきして
さむくないのにうでとももに
さむいぼがたっている
ぬいだふくがあしもとでいきものみたい
わたしのからだのにおいが
もわっとのぼってくる
おなかをみるとすべすべと
どこまでもつづいている
おひさまがあたっていてもえるようだ
じぶんのからだにさわるのがこわい
わたしはじめんにかじりつきたい
わたしはそらにとけていってしまいたい(詩集『はだか』谷川俊太郎より)
同じ詩集からもう一つ。
こんどは女の子のようだ。
詩は、受け取る人により、万華鏡のように変わっていくもの。
だからこれから書くこの詩の感想は、僕が受け取ったある種の“感動”を
そのまま素直に記したもの。
堅く書くけれど、文章の堅さは感動の度合いとは本来無関係だろう。
この詩を谷川さんはどのようにして書いたのだろうかと思う。
書くに任せたらこのような詩ができたのだろうか。
詩人って恐ろしい人達だなと思う。
ものすごく深い地層から、無造作に言葉を投げ出すのだから。
人間の根源的な不安は、
「自分は大地の一部なのか、それとも個としてあるのか」
という不安だろう。
誰だって、どこかから来た。そして死ぬとどこかへ行く。
たぶん、大地から来て、大地へ帰る。
だって、僕たちの体を構成する全ての物質は、手も足も歯も脳みそだって、
全部大地から来ているのだから。
そして死ぬと跡形もなく大地の一部となるのだから。
でも、人間は「個」として存在している。そういう質感が確かにある。
「私」という概念は疑えない。「私」は確かに個として存在している。
一体自分は「全体の一部なのか、個なのか」、どうしたって疑問に思う。
そこに説明が与えられないと、余りにも不安定で、不安になる。
これは「言葉」を持ち、「死」を発見した現生人類が宿命的に持つ不安だ。
(現在の脳科学の分野では、「物質である脳にいかに意識が宿るのか」という、いわゆる”難しい問題”として、一番ホットな学問領域だそうだ。)
この不安に説明を与えようとして、神話は語り継がれてきた。
世界中に残っている神話、民話、伝説の類いは、「全体の一部なのか個なのか」を雄弁に物語っている。
女の子がはだかになったときに感じる言うに言われぬ想いは、
「はだか」であることが「自然」であることと離れているから。
でも「自然」であった頃を思い出させるから。
動物園の動物は、みんなすっぽんぽんだ。
そういう人間が純粋に動物だったころの記憶がまだ残っているから、
でも残っているのにもうずいぶんと自然の一部だった頃から遠く離れているから、
言うに言われぬのだ。
だから「きゅうにはだかになりたくなった」という衝動は、きわめて根源的な、神話的思考の発露だろう。
女の子は自分の足下を見て「ぬいだふくがあしもとでいきものみたい」と言っている。
脱皮した蛇や、さなぎからかえった蝶は、かつて体の一部だったものを再びはまとわない。
でも人間はまた服を着て、また体の一部にする。
人間は服を着るが、動物は着ない。神話の世界では、クマは「毛皮を着た人間」という扱いを受ける。魂のレベルでは、クマも人間も変わりはなく、ただ毛皮をまとっているかいないかだけが違う。
じぶんのからだにさわるのがこわい
わたしはじめんにかじりつきたい
わたしはそらにとけていってしまいたい
文字通り一番身近な自分の体なのに、急になにがなんだか分からなくなる。
自分は大地からにょきっと生えたキノコとどう違うのか。
かじりついて全体を自分の一部とし、
とけていって自分を全体の一部にしてしまいたいという衝動が
恐ろしい的確さで人間の根源的な不安を言い表している。
谷川さんは一体どうやってこの詩を書いたのだろうか。
やっぱり書くに任せて書いたらこうなったのだろうか。
わけが分からない。詩人の言葉は本当にわけが分からない。
どれだけ「言葉」に対して真摯になればこのような詩が生まれるのだろう。
本当に尊敬してしまう。
投稿者 tsuyoshi : 2004年12月11日 05:19
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