2004年12月16日
「テーマ」について
いつもの様に恋愛を比喩として用いるが、例えば恋に恋し、愛がなければ生きられないと感じているのと、○○さんに恋している、○○さんを愛しているというのでは、当然違う。なにが違うかといえば、具体的だということだ。パッションに行き場が見い出せているので、どういう結果になるにせよ、行動できる。愛をささやける。
それが「テーマ」ということではないかと思っている。
理由のない、沸騰するような熱情があっても、具体的な「テーマ」がないと、空回りするだけで、ひたすらに温度が高まるだけで、どこにも行けない。
ここ数ヶ月、ここ数週間、特にここ数日、「テーマ」について煮詰まっている。
「テーマ」とはなんだろうと、堂々巡りをしている。
例えば、僕の好きな写真家セバスチャン・サルガドは、「WORKERS」をテーマに世界中の肉体労働者を撮影し、次に「EXODUS」をテーマに難民、亡命、移民を撮影し、現在は「GENESIS(創世記)」をテーマに世界中で撮影をしているらしい。
先日図書館で彼の写真集を借りた。数百ページもある分厚い写真集で世界中の労働者を撮っていた。気の遠くなるような壮大なプロジェクトの成果だった。テーマを何年もかけて追い続けて、一つの成果にし、それが終わると次のテーマに取りかかっている。彼の熱情が、確かな行き場を得て存分に発揮されていた。
例えば旅に出たいと思う青年が成田空港にいたとする。
彼は、別に行く先はどこでもいいと思っている。しかし、成田空港から離陸する飛行機にはすべて具体的な行き先がある。だから、例え行く先がどこでも良くても、出発したいのなら彼は行く先を決定しないければならない。具体的な地名へ向けてしか飛行機は飛ばない。具体的な地名ではなく抽象的な「どこか」に行きたいと思っていたら、彼はいつまで経っても、どの飛行機にも乗れない。
人びとは芸術を論じるときにモチーフについて熱中するけれど、これは日本語では“動機”と訳されて、定着している。しかし、それを生みだした潜在的なものについては用語すらつくられていない。それはしいていえば”静機(キエチーフ)”と呼ばれるものである。モチーフをイルカにたとえるなら、このキエチーフは海である。
『王様と私』開高健
本をめくっていたら、こんな言葉に行き当たった。イルカが飛行機で、旅心が海ということになるのだろうか。
こんなことを書いているのはつまり、テーマが何か定まらないから。
自分は一体何を書きたいのかと問うて、「何かを書きたい」と答えても、質問に答えたことにならないのだ。書きたいといくら思っても「何か」は書けないからである。あるのは常に具体的な文章だけ。抽象的な「何か」は誰にも書けない。写真も同じ。具体的な光景の前でシャッターを押さない限り写真は撮れない。
しかし、では、何を撮りたいのか、何を書きたいのか、テーマを決めることはやはり容易ではない。
思えば大学の勉強でもそうだった。「テーマ」が決められなかった。
知的好奇心はあった。学ぶことは嫌いではなかった。しかし、個人研究する「テーマ」が決められなかった。卒論や研究会などの自主的に取り組む「テーマ」が決められなかった。
例えば人文科学について興味があったとしても「人文科学」をテーマにはできない。テーマにするには抽象的すぎるのだ。「星野道夫とワタリガラス神話について」「比較捕鯨文化論」などと具体的にしないと論文は書けない。(幸か不幸か卒業論文は書かなくても卒業できたので書かなかった。)
「テーマ」とは何だろうかと考えていると、それは「生き方」そのもののような気がしてきて、安易に決められなくなる。一番興味がある事、自分を賭けてでも取り組みたい事。それはつまり美意識の発露であり、哲学の具体化であり、価値観の構築である。真剣にならざるを得ない。
恋愛の比喩へ戻る。
恋に恋するというのはつまり、「女の子が大好き」ということで、出会う人みなそれぞれに魅力的で、悩ましいということ。でも○○さんが本当に好きならば、迷う余地がない。○○さんが人生そのものになる。
そういう恋愛の比喩で考えると、「テーマ」というものも、探しつつ待つ、待ちつつ探す、というものなのかもしれない。
しかしながら、「テーマ」を見つけるということと、愛する人に出会うということには相違点もある。それはとりあえず好きだと言ってみて、それから本当に好きかどうか決めるという方法をとっても、糾弾されないということ。それどころか奨励さえされている。
また、「テーマ」とは常に途中経過でもある。旅の途上からの絵はがきみたいなもの。
海は広いし、イルカでなければクジラもいる。クジラでなければペンギンもいる。海は一つだけれど、よくみるとたくさん泳いでいる。具体的に追いかけるという行為自体が、追うべき生き物と同じかそれ以上に大切なのではないか。
、、、となると「テーマを追う」ということが「テーマ」になるのか?これは鏡に鏡を映すように、終わりなき入れ子状態になるではないか。
、、、と、このように堂々巡りしていると、段々アホらしくなってきて、何回転かした後布団をひっかぶって僕は寝てしまう。
投稿者 tsuyoshi : 2004年12月16日 02:16
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