2005年07月03日
到達点の名前
7月になりました。
そして、急にそわそわしてきました。
今まで、なるべく意識しないようにしていたのだけれど、やはり、日が経つにつれ、否が応でも意識させられます。7月16日はもうあと二週間後なのです。「開高健ノンフィクション賞」の選考会はあと二週間後なのです。きっと今ごろ選考委員の方々は僕の作品を読んでいることでしょう。
開高さんはいろいろな文学賞の選考委員をしていたのだが、彼の選評はかなり厳しい。たとえばこんな具合に。
作者名、題名、テーマ、ことごとく異なるけれど手ごたえがないということでは泥に似ている。そういう作品をつぎつぎと八作も読まされるのはつらいことである。いくらか慣れてきはしたものの、とらえようのない、空疎なメランコリーが体内によどんできて飲慾も食慾も後退しはじめる。(中略)
"Good ones are few."(よいものは稀である)とは文学のみならず、世事すべてについての鉄則であるだろうが、次回もまた泥状のメランコリーに浸されるのだろうか?……(第89回芥川賞選評)ほとんどの作品の読後感として、身辺雑記を出ないということがいえる。身辺雑記も名人が書けば見えるものがあったり、瞬間があったり、閃光がキラリとしたりするが、八作には残念ながらそういうふりかえりたくなるものが何もなかった。そして傑出して○のもないが、×もないのだから、すべて△だというのが何度も考えなおしたあげくの総評である。(第90回芥川賞選評)
ぼくの作品をもし開高さんが読んだら、どのような評価をするだろうか。どのような選評になるのだろうか。そういうことをあれこれ想像する遊びを時々しているのだが、これがなかなか精神に緊張を与える遊びなのだ。
かなりしばしば、うなだれる。×だと思う。寝てしまいたくなる。でも、それだけではない。川原の石が日の光とある角度を成したときにきらりと一瞬だけ反射するように、もしかしたら…と思う瞬間はある。実は、ままある。そして、すぐにまた否定する。
女心ほどではないだろうが、けっこう複雑なのだ。最も好きな作家なだけに、余計複雑なのだ。選考委員は開高さんではないけれど、でも、彼に評価されるような作品が選ばれる気がするし、そうであって欲しい。
開高さんが文学賞において作品を評価するときの態度は「一言半句」で一貫している。
私は変わらない。いつもおなじである。新人の作品には鮮烈の一言半句を求めるだけである。それさえ見つかれば、修辞、構成、何であれ、いくら幼稚で稚拙であってもかまわないと思っている。そういうものは受賞後の修業次第でどうにでもなるものである。しかし、いくら修業しても獲得しようのない一言半句はその人の何かしらの核なのだから、そこにだけライトを浴びせ、白昼に提灯をさげてさがし歩かねばならない。(第87回芥川賞選評)
(以上引用は『ALL WAYS Ⅱ』(角川文庫)より)
今まで読んだ小説の中で間違いなく最高と言える作品に、開高さんの『輝ける闇』と『夏の闇』がある。もう何度読み返したか分からない。そして、いつ、どのページを開いても、「一言半句」がある。必ずある。どのクジにも一等賞と書かれているくじ引きを引くようなものである。
しかし、くじ引きとは大いなる相違がある。一等賞は引いて喜ばしいけれど、ページをめくり、一言半句を引くと、不安になるのだ。あまりにも本当のことすぎて、言葉の放射能に感染させられ、人生が苦しくなるのだ。
「書くことは、野原を断崖のように歩くことだろうとおもう」と彼は書いているが、良い作品を読むこともまた野原を断崖にする。
しかしながら、僕は断崖を攀じる楽しみを知っている。フリークライミングも大好きだし、アルパインクライミングやボルダリングや沢登りも大好きだ。こういう遊びは、不安定と不安をコントロールし、きわどいところでバランスを保ち、危機管理をし、そして断崖を抜ける遊びだ。
このような遊びは、断崖を抜けても、また断崖があるだけである。断崖の先にお花畑があることは約束されていない。むしろ、断崖をぬけた報酬が、さらなる厳しい断崖であることがしばしばである。そしてまさにその厳しい断崖のただなかで、発光するような喜びがあるのである。それが断崖を攀じる楽しみである。遊園地のような用意されたお花畑の楽しみとは正反対である。
ぼくにとって良い作品とは、自分の人生を苦しくさせ、困難にさせ、そして不安にさせるものだ。そして、精神の贅肉を削ぎ落とされ、まとっている殻を溶かされ、裸の発光体にさせられるものだ。
自転車で峠を目指しているとき、あれが峠かなと思って辿り着くと、間違いなくその先に延々と道は続いているものである。
僕は、数年かけて、ようやく一つの作品を書き、提出できた。濃い霧の中、ここが峠だと思い、力を振り絞るようにして到達した。しかし、風が吹き、霧が晴れると、やはり道は続いている。遥か彼方まで続いている。そのことを認め、また自転車にまたがり、歩む覚悟もある。
峠ではなかったけれど、その場所はその時の到達点ではあった。その時の、最高到達点ではあった。だから、できるのならば、その場所に名前を与えられたい。
名前を与えられなくとも、そんなことで前進することを辞めはしないが、与えられると、目印になる。地図の上での自身の歩みを確認できる。
僕はいま、7月はもういちど舵取りをする時期だと強く感じている。
再度星の位置を測り、海図と照らし合わせ、目指す海域へ大きく舵取りをする時期だと思っている。
そして7月16日の選考会はよき合図になると思う。
…いずれにせよ、結果はここにすぐに報告します。
あと二週間後です。
投稿者 tsuyoshi : 2005年07月03日 00:14
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コメント
本郷さん、こんにちは、ひぐらしです。
リンク、早速張らさせていただきました。
ありがとうございます。
>ぼくにとって良い作品とは、自分の人生を苦しくさせ、困難にさせ、そして不安にさせるものだ。
私が最近、書物、とくに文学から遠ざかっているのは、
そういう不安を感じたくないからなのかなと思いました。でも、そこを通過しないと、「発光体」にも
出会えないのかもしれませんね。
あと二週間ですか。楽しみですね。
大きな地図の目印が与えられるよう、
私も祈っています。
投稿者 ひぐらし : 2005年07月03日 08:48
ひぐらしさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
僕は読みたい本があまりに多くて、その割に読むスピードはとても遅いので、大渋滞しています。本って読むタイミングがとても重要なので、そんなたくさんの読まれるのを待っている本から、常に、いま一番読みたい本はなんだろうって探してます。今日はミヒャエル・エンデ『モモ』を本屋で買いました。最近灰色の男に時間を盗まれている気がしてならないので…。再読です。
>ぼくにとって良い作品とは、自分の人生を苦しくさせ、困難にさせ、そして不安にさせるものだ。
読み返してみて、「良い作品」はそれだけじゃないなーと思いました。わくわくするのもあるし、可笑しいのもあるし、脳みそがかきまわされるように知的に興奮するのもある。真夜中に書かれた文章は、昼の光の下でもう一度推敲するべきですね。
投稿者 tsuyoshi : 2005年07月03日 23:40
