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2005年08月28日
仕事/遊び/勉強
一日中部屋から一歩も出ず、布団の上で浅い眠りのまま自己嫌悪に苛まされつつごろごろしていても、早朝から起き、沢登りに行き、全力で滝を攀じ、焚き火に見とれていても、東京のビルの中を右往左往し、あるビルの一室から別のあるビルの一室へ荷物を運んでいても、何かの飲み会でたまたま隣に座った人の悩みを真剣に聞いていても、真夜中に夢中で本を読んでいても、別れ話がこじれある人が目の前で涙を流していても、あるいは最も深い眠りの中でさえ、24時間、絶え間なく、一秒も休むことなく、僕は書いている。言葉を探している。そしてほとんどいつも、探しあぐねて途方に暮れている。ただの一言さえも見つけられずに、その周辺を迷子になったようにあてずっぽうに歩き回っている。
そういう行為に僕は、いつからか、「仕事」という言葉を当てはめることを覚えた。そして試しに「遊び」という言葉と「勉強」という言葉を重ね合わせてみた。
言葉を探すという行為は、作家になりたい者にとっては「仕事」と言ってもそう違和感はないだろう。直接は作品にもならずお金にもならないけれど、「仕事」という言葉は「賃労働」という言葉とはイコールではないので、構わない。
言葉を探すことは、夢中に、ほとんど無意識に行っている。子供が積み木で遊びながら空想を膨らませることと似ている。だから「遊び」という言葉を当てはめても違和感を感じなかった。無償の行為だし、目的もない。ただ何か言うに言われぬようなものを突き止めたい一心で真剣に夢中になる「遊び」だ。
「勉強」もまた、言葉を探すという行為に与える言葉として、とてもしっくりくる。「勉強」という言葉を僕はただ暗記したり試験を通過する為だけの言葉として使わない。わくわくする好奇心とスリリングな知的探究心に満ちた言葉だ。
「仕事」と「遊び」と「勉強」とは、同じものの別名ではないだろうか。そういう疑問を、このごろ強く抱く。そして、たとえ無理をしてでも、強引に同じものの別名にしてやろうと思ったりする。
24時間、絶え間なく、一秒も休むことなく、「仕事/遊び/勉強」をしているという状態が理想としてあり、そういう環境を場合によっては無理をしてでも手に入れてやろうと思っている。
投稿者 tsuyoshi : 01:41 | コメント (4) | トラックバック
2005年08月22日
谷川連峰、西ゼン
「遊び」という言葉は「真剣」という言葉の反対の意味として使われることが多い。
あるいは、「仕事」という言葉の反対だったりもする。
例えば偉い人に「遊びでやってるんじゃないんだ、これは仕事なんだ。もっと真剣にやれ」なんて言われたりして。
確かにそういう用法で「遊び」という言葉を使う時もある。
でも、「遊び」という言葉をそういう用法でしか使えない人とは、僕は一緒に遊びたくない。
なぜなら僕は「遊び」こそもっとも真剣にやるべきであると思っているからである。
というわけで、僕は先日、ものすごく真剣に遊んできた。
牧野くんと二人で、谷川連峰の平標山に突き上げる西ゼンという名の沢を登ってきた。
雨がパラついていたけれど、しっかり焚き火をし、真剣に焚き火に見入る。
翌朝はいい天気。真剣にナメ滝ではしゃぎ、真剣にスラブ帯を攀じる。難しくはないけれどスリップは絶対に許されない。
源流部を詰め、猛烈なヤブ漕ぎをし、平標山の頂上で昼寝をし、長い尾根を下る。
下山途中で雷雨になり、土砂降りの中をずぶぬれになりながら歩く。
無事に下山し、温泉に入り、東京へ戻る。
結局この日は12時間ほど歩いた。
沢に行くといつもそうなのだが、徹底的にくたくたになり、そして妙に精神が昂る。
今回の西ゼンでは、前日の焚き火や、緊張感のあるスラブ登攀や、ツメの部分での野獣になったようなヤブ漕ぎや、下山途中の土砂降りで、なにか人の中に眠っている野性とでも呼ばれるような部分を刺激されたのかもしれない。こういう経験は、自然と切り離されている都市での生活では感じづらいことだ。そしてとても大切なことだと思う。「自然」と「人間」との間にある距離の認識。
大切な事はしばしば、ものすごく真剣に遊ぶことによって分かる。
「遊び」は「真剣」の反対などではない。
その人の個人的辞書における「遊び」という言葉が表す範囲、言い換えれば「遊び」という言葉をどういう意味合いで使っているかは、如実にその人の価値観を表す。これは「仕事」や「勉強」などという言葉についても同様だ。
投稿者 tsuyoshi : 01:27 | コメント (9) | トラックバック
2005年08月13日
沢に行きたい
昨日図書館へ行き、『我々はいかに「石」にかじりついてきたか』(菊池敏之著)というフリークライミングに関する本と『渓をわたる風』(高桑信一著)という沢登りに関する本を借りてきた。そして、すぐに二冊とも読み終えてしまった。
またこのところ日がな一日、『東京付近の沢』や『関東周辺の沢』や『沢登り 入門とガイド』などの沢登りルート図集をめくり、山の地図を広げてああでもないこうでもないと想いを巡らし、ため息ばかりである。
一体どうしちゃったんだろうと思う。
なにか、ものすごく沢に行きたくなっている。
クライミングをしたくなっている。
このようなとても強い感情は久しぶりだ。
先週はジムでクライミングをした。先々週は奥多摩で沢登りだった。楽しくてたまらなかった。
今日はこれから寝て、起きたらすぐにジムへ行きクライミング。先週登れなかった課題を絶対落としてやる。そして明日は丹沢に沢登りだ。
来週は牧野くんと谷川の方に一泊で沢登りに行く予定。
再来週はどこに行こうか考え中。でもきっと行く。行きたい所リストはすごく長くなっている。
ほとんど中毒患者のように、ぼくは今クライミングを欲しており、沢登りを必要としている。
苦しくて眠れない程だ。このような強い気持ちを抱くのは、本当に久しぶりだ。いったいぜんたい、ホントどうしちゃったんだろう。
とても嬉しい変化なのだけれど、戸惑っているのも確か。なぜならとても苦しいからだ。そして他のやらなければならない事がまったく手に付かないからだ。ぼーっとしてしまい、気がついたら何時間もぶっ続けで沢登りのルート図集を眺めていたりする。
恋は、ある特定の異性にのみ抱くものだけではない。
渓谷は山のなかでどこよりも女性的だと思われる。
そのような、自然の女性性に恋しているのだろうか。
…あまり分かったような理由を探らないほうがいいのかもしれない。
ぼくには沢登りをすることは「とても正しいこと」だという認識がある。
そこには自らを強引に納得させるような意味付けを必要としない。
無理なく諒解できる正しさだ。そしてこういうことってまれだと思う。
沢登りという形態で接する濃密な自然との関わり方が好きだ。
沢登りで得られる経験は、確かな言葉を生む母体になるという予感がする。
いまはどんな言葉も窮屈。
恋は、盲目であるから恋なのだ。
好きだ好きだと、そんな埒もない言葉しか見当たらない。
ともかく沢に行きたい。
投稿者 tsuyoshi : 01:52 | コメント (4) | トラックバック
2005年08月05日
沢登りの楽しさ
先週の日曜日に奥多摩の逆川へ沢登りに行ってきた。
今シーズンの一本目の沢。そして、あらためて沢登りはとてもいいと思った。今シーズンはこれから沢にたくさん行きたい。
僕は登山の分野に関して、オールラウンドに好きだ。何かに特別偏るということがない。フリークライミングも好きだし、アルパインクライミングも好きだ。ハイキングも好きだし、トレッキングや高峰登山も好きだ。冬山も好きだし、夏山縦走も好きだ。そして沢登りも好きだ。単独で登るのも好きだし、誰かと行くのも好きだ。
まだアイスクライミングとスキー登山とビッグウォールと6千M以上の高峰登山はやったことがない。いつかやってみたい。
ひとことに「フリークライミング」と言っても、じつはいろいろある。ボルダリング/リードクライミング/トップロープ/フリーソロ/マルチピッチなど。あるいは人工壁/自然壁という違いもある。だから、フリークライミングをやる人でも「人工壁のボルダリングしかやらない」とか「自然壁のリードしかやらない」という人もいる。けっこういる。
同様にして、アルパインクライミングにもいろいろあり、沢登りにもいろいろある。高峰登山にもいろいろあり、冬山にだっていろいろある。それぞれがある部分で重なっている。
僕は、とりあえずなんでもやる。機会さえあればいろいろやってみたいと思っている。ジャンル分けされた中で楽しむというのが嫌いなのだろう。だから僕はいつまでたってもスペシャリストにはなれない。こういう人をジェネラリストと言うのを最近知った。
でも、いつも全てをまんべんなく楽しんでいるわけではない。むしろ逆である。ある時期は人工壁しかやらなかったり、ある時期は冬山にしか興味がなかったりする。流行というものがある。そして今年の夏は、沢登りとアルパインクライミングだと思っているのである。
大学時代の山の友人牧野くんが今春から東京に引っ越してきた。しかも大学院生になったので時間に余裕がある。彼と会い、いろいろ話し、今年は前穂北尾根に行こうとか北岳バットレスに行こうとか、湯檜曽川本谷や魚野川に行こうとか、盛り上がった。いつかは利根川本谷や宮浦川や黒部川上の廊下に行きたいとか、盛り上がった。いい友人である。
今回の逆川は牧野くんとねぎさんと三人で行ってきた。ねぎさんは初めての沢登りだったが、どうやら沢登りが大好きになったようだ。誘った甲斐があったというものだ。
沢登りの楽しさとは何だろう。
登っている時は楽しくて仕方がないので、なぜ楽しいのかなんて考えられない。
でも改めて考えてみると不思議ではある。
僕の場合、沢登りは何か根源的に楽しいものだ。言うに言われぬ楽しさなのだ。しかしその楽しさを感じるには内部のどこかでどこかと回路がつながっていないといけないように思う。沢登りを楽しめるというのは立派な才能だ。
水が楽しいのは確かだ。滝壺に落ちる水の音を聞くと恐怖でいっぱいになるけれど、取り付いてみると案外登れたりするのが楽しい。ただ水のなかをじゃぶじゃぶと歩くだけで楽しい。
岩を触るのが楽しいのも確かだ。沢登りはさらに泥壁やヤブや瓦礫や木などをつかむ。そういう触覚が楽しい。
今回は日帰りだったのでできなかったけれど、一泊する沢では焚き火をするのが約束である。そして、火が楽しいのは、もう“火を見るより”明らかだ。
水と火というのは、なにか毒がある。クライマーにとっては岩にも毒がある。水と火と岩はアブナいのである。魔性のようなものである。女の子と同じぐらいアブナいのである。男が女性の胸のふくらみに本能的に惹かれるように、ある種の人にとって火や水や岩は本能的に惹かれるものである。説明のしようがないほど根源的に惹かれる。何か、内部のとても深いところから、宇宙に直結しているような部分から惹かれるのだ。沢登りは水と火と岩が三者とも見事に楽しめるので、もう全身全霊でクタクタになるほど楽しめる。
ああ、こうやって書いているうちに、沢に行きたい想いが募り、どうしたらいいのか分からなくなってきた。このため息とこの興奮とこの焦燥とこの苦しみは、立派な恋である。困った。滝にかじりつきたい。もう寝る。
