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2006年06月24日

北穂高岳へアルバイト

6月25日から7月2日まで、北アルプスの北穂高岳に行ってきます。個人的な登山ではなくて、荷物運びのアルバイトです。7月1日の朝7:00〜8:15の間のNHK「おはよう日本」という番組で北穂高岳から中継をやるそうで、その荷物運びやアシスタントのお仕事です。

番組内で中継3分、ビデオ映像3分ぐらいだそうです。計6分のために25日から山に入るのだから、すごいことです。残雪期の登山経験があり、いきなり一週間の時間がとれ、30キロの荷物が背負える人はきっとあまりいないのでしょう。突然電話が掛かってきてアルバイトをすることになりました。執筆の方もきりがいいところなので、一週間ぐらい離れるのはちょうどいいなと思って依頼を受けることにしました。体力さえあればできる仕事だけれど、ちょっと楽しそうだし。

久しぶりに重登山靴やアイゼン、ピッケルを使います。でも梅雨の時期なので、連日雨でしょう。
30キロを背負うのは本当に久しぶりです。体力が心配だったのでちょっと前からジョギングをはじめました。最初はすごく疲れたけれど、数日経つとわりと楽に走れるようになり、走るのがとても楽しくなっています。だから体力的にはどうにかなるだろうと思ってます

こうやって映像をとって、こうやって中継するんだというのをしっかり見てこようと思います。僕にとっては取材してる人たちを取材するようなものです。それから暇な時間もありそうなので、一眼レフカメラをがんばって持って行こうと思います。いい写真が撮れたら嬉しいです。よろしければ7月1日の朝に番組をご覧になってください。それからメール、コメント等の返信やブログの更新はできなくなると思います。冷蔵庫の中をはやく整理しなくては。

投稿者 tsuyoshi : 01:20 | コメント (6) | トラックバック

2006年06月23日

映画「プージェー」

先週の日曜日にポレポレ東中野という映画館へ行き、関野吉晴さんらがモンゴルで撮った「プージェー」というドキュメンタリー映画を観た。プージェーとは遊牧民の少女の名前。

映画が始まる前に、関野さんの舞台挨拶があった。
グレートジャーニーという旅のスタイルや、少女と出会ういきさつなどを話されていたのだが、話の最後に関野さんは「この映画は普通の終わり方をしません」と言ってから、「パンフレットに”少女は草原を駆け抜けた”とあるように、プージェーはもうこの世にはいません」と言った。映画が始まる前に、結末を先に言ってしまったのだ。たぶん会場にいただれもが、すこし驚いたと思う。

映画を見終わってから、関野さんが結末を最初に言ったことに共感できた。
結果が重要な映画であれば、それは「ネタバレ」以外のなにものでもなく、映画の楽しみを半減させてしまうものだろう。でもこの映画は、結末がわかっても何一つ損なわれたりしていなかった。それどころか、映画全編に渡る、プージェーの生に対する愛おしさがあった。確かに最後に驚きはないけれど、関野さんはそんな驚きなどを見せたいのではないのだろうなと思った。彼女の生の逞しさ、凛々しさや誇り高さなどが、やがて死んでしまうという前提でみると、より一層伝わってきた。しかし考えてみれば、「やがて死んでしまうという前提」は、何も彼女に限ったことではない。自分を含めた、生あるものすべての前提条件だ。

関野さんがあえて結末を先に言ったのは、きっとプージェーの生死をセンセーショナルで表層的な次元で捉えて欲しくなかったからだろう。映画を見ていると、どんどんプージェーの逞しさ、強さに引き込まれ、馬にまたがる姿などは美しいとすら感じた。関野さんがプージェーに強く魅了されたから、何度も訪れ撮り続けたのだということが強く伝わってきた。だから関野さんは、彼女の死という結果ではなく、映画の細部を、彼女の生の細部を、表情や仕草や言葉のニュアンスを見て欲しいとおもったから、あえて、舞台挨拶で結末を言ったのだろう。それは、ネタバレなどという次元の話ではなく、関野さんのプージェーに対する思い入れの強さの現れなのだろうと思った。

投稿者 tsuyoshi : 01:57 | コメント (2) | トラックバック

2006年06月15日

矛盾につきあい続ける強さ

最近は、午前中は執筆、午後はクライミング、ジョギング、水泳、読書、映画、写真展、美術館鑑賞、人と会う、エッセイを書くなどにあてている。
しばしばリズムは崩れるのだけれど、おおむねこの通りになっている。

だけど、今日は散々だった。
ずうっと頭が痛く、吐いて、何が原因かもよく分からなかった。
だから、一日中何もできなかった。ずっと横になっていた。読んだり書いたりなど論外だった。今はようやく落ち着いている。

横になってひどい頭痛に苦しみながら、くり返し思い出されたのは、昨晩DVDで観たドキュメンタリー映画「Littlt Birds -イラク 戦火の家族たち-」のいくつかの場面だった。
クラスター爆弾の破片が少女の目に入り、それを取り除く手術をしたあと、ベッドで目がさめた少女が頭が痛いといっていた。父親は娘の手を握り、頭痛薬をもらってこよう、それで大丈夫だと少女をなぐさめていた。
普段は寡黙そうな老人が、病院のベッドで、爆撃で亡くなった子供を目にし、突如発狂するような声をあげて自分の頭を何度も叩き、祈るようにうずくまっていた。
小学生ぐらいの子供が、腹に流れ弾が当たり、病院で摘出手術を受けていた。「痛くしないで」と泣き叫んでいた。
そういう、無数にあった痛い場面がくり返し思い出されていた。

実はこの映画は、一年ほど前に映画館で観た。新宿のK'sシネマという映画館で見たのだが、映画館を出た後世界が一変して見えた。友人と一緒に見たのだが、観終わったあと一切なにも話せなくなってしまった。あらゆる感情が沸騰し、混乱し、文字通り言葉を失っていた。
今回もう一度見ようと思ったのは、先週の土曜日と日曜日に別のドキュメンタリー映画と写真を見たからだ。

土曜日に「ガーダ/パレスチナの詩」をみた。ガーダというパレスチナ人の女性を12年間に渡って撮り続けたドキュメンタリー映画だった。監督は古居みずえさんという女性の方なのだが、女性でしか撮れないような映像も多く、取材対象に本当に深く関わらないと撮れない映像ばかりだった。
映画を観た後、監督とフォトジャーナリストの広河隆一さんとのトークショーがあった。古居さんも広河さんも、いわゆる”ジャーナリスト”の独善的な押し付けがましさがまったくなく、むしろ話し方は静かでおだやかだった。リラックスし淡々と話すのだが、そのおだやかさは、矛盾する現場にずっと付き合い続けてきたことと無関係ではないのだろうなと思った。

日曜日には新宿のコニカミノルタプラザに行き、「地球の上に生きる2006 DAYS JAPANフォトジャーナリズム写真展」を見に行った。広河隆一さんが編集長をする雑誌『DAYS JAPAN』主催による写真展で、世界中のフォトジャーナリストからの報告を一同に会したものだった。
言うまでもなく、直視するのがつらいものばかりだった。まともに見てしまうと心がもたないものばかりだった。日本で安全に暮らしているものにとって、一番知りたくない現実、もっとも知らないふりをしたい写真ばかりだった。なぜなら、世界中からのどの報告も、直接、間接的に自分たちの生活と関わりがあるということを本当は僕たちは知っているからだ。ただ遠くの国の過酷な情況を伝えている写真ではないということ、遠因の一部を自分たちの生活が図らずも担ってしまっているということ。そういうことを知りたいわけがない。でも、「知らなかった」で済むわけもない。

ただ、いまでも不思議なのは、重たいテーマを扱ったものばかりなのだが、そこに美しさが感じられたことだ。悲惨な情況の写真に美しさを感じてしまうのはどこか後ろめたいのだが、やはり深い美しさを感じていた。
ジェイムズ・ナクトウェイ氏の、ベッドに横になるエイズ患者の上で、窓から風が入りカーテンがふくらんでいる写真。テル・クワヤマ氏の、パキスタン大地震の被災者の女性たちが不安そうに遠くを見ている写真など、ただ悲惨な瞬間を写しただけではない、優しさのような視点があり、それが美しく感じられたのかもしれない。重く、残酷な情況の中での優しさのようなもの。どこかラファエロやミケランジェロの宗教画のような美しさがあった。

写真展は三部構成になっているのだが、第三部は残酷な情況ではなく、すみずみまで安心して見れるものだった。アンドリュー・テスタ氏の「海の民モケン族」の写真が美しく、誇りを持って生きている姿にすくわれる気がした。

会場を出て、新宿の町を歩いていると、小さな会場で女性アイドルグループが鼻にかかった声で歌い、手を振っていて、それに合わせて男たちも手を振っていて、さっきまで見ていた情況とのコントラストに目眩がした。その後、ニコンプラザ、ペンタックスフォーラム、エプサイトといつもの写真展めぐりをし、いくつかとても素敵なものもあったのだが、なんとなく「アート」なものや「旅日記」のようなものをみると、「だからなんなんだ」と思ってしまい、素直に見れなかった。そのように一時的にだけ”ジャーナリスティック”になっていることは恥ずべきことだと思ったが、怒りや悲しさや無力感で頭が真っ白になっていた。

二日続けて重たい作品ばかりで、相当参っていたが、せっかく集中的にドキュメンタリーに接しているのだからどうせならとことんと思い、やはり「Little Birds」をもう一度見ようと思い、写真展を観た帰りにDVDをレンタルした。でもすぐには見れずに、昨晩見た。

もう今は頭痛も吐き気もまったくない。ただの風邪だったのかもしれない。
でも、久しぶりに「痛さ」というものを味わったのは事実だった。
痛くないときは痛さがどういうものか、ほんとうに忘れてしまう。
ましてや他人の痛みなど、すぐに忘れてしまう。

どこかで鈍感にならないと心が保たない現実に生きているのは事実で、でも鈍感になってしまうと間違いなく、下品で、偉そうで、嫌な奴になるのだろう。鈍感になることなく矛盾につきあい続けられるような強さが欲しいと思った。

投稿者 tsuyoshi : 17:58 | コメント (8) | トラックバック

2006年06月10日

情熱大陸、山野井泰史

今週末、情熱大陸に山野井さんが登場する。
普段はまったくといっていいほどテレビを見ないけれど、これは見なくては。

彼は、きっと最も正直な生き方をしている人。雑音を排し、自分の心に耳を澄ませられる人。
アウトドアブランドのパタゴニアの理念に「Committed to the core(本質への忠誠)」という言葉があるが、この言葉を思うとき、同時に彼の生き方が思い出される。
彼の、クライミングに対するモチベーションの高さ、理想の高さを、映像や言葉の節々から感じられたらと思う。

投稿者 tsuyoshi : 02:29 | コメント (8)

2006年06月08日

映画「サイダーハウス・ルール」

いつか観たいとおもっていた映画、「サイダーハウス・ルール」をようやく観た。
原作はジョン・アーヴィングの同名の小説、監督はラッセ・ハルストレム。

秋の朝の空気のようなすがすがしさがあった。重たい情況が背景にあるのに、あるいはだからこそ、不思議に暖かいユーモアがあった。
静かで、力強く、なにか深いところから世界を肯定し、生きていくことを肯定するような力があった。
ふつふつと、観てよかったと思える映画だった。

こういういい作品を観ると、同じ監督の別の作品も、同じ原作者の他の小説もと広がっていき、いきなり観たい映画、読みたい本が増え、ちょっとパニックになります。もちろん、もっとも幸福な種類のパニックです。ひとつひとつ、大切に観たり読んだりしていきたいです。

投稿者 tsuyoshi : 14:20 | トラックバック

2006年06月07日

心の中にある森

前の日記に、いくつか映画や展覧会や本の感想を書いた。
書いてから、心に浮かんできたイメージがある。それは、森の中の明るい場所から、小さな芽が出るというイメージだ。
いくつかの感想をメモ程度に書き、それからあれこれ反芻し、どうしてこのようなメモを残そうとするのかを考えているうちに、発芽した場所をマーキングしておきたかったのかもしれないな、と思った。

心の中に森があり、そこから次々と発芽していくイメージ。
発芽したことに気がつかないことが多いから、一度言葉にすることでマーキングし、そしてそこから成長していく様子をじっと見守りたいと思うのだ。時間をかけて大木に成長するかもしれないし、すぐに枯れてしまうかもしれない。でも、きっと成長するだろうなという予感があるから、マーキングしてしっかり見守るのだ。

見守るということは、考え続けるということでもある。
本当にすばらしい作品は、観終わった、読み終わったときから成長していくものだと思う。
「すごくよかった」という確かな余韻はあるのだが、うまく言葉にならないし、強引に言葉にしてしまってもこぼれ落ちるものが多すぎるなと感じるような作品。そういう作品は、心にとどめ、くりかえし反芻する。重層的なメッセージに耳をすまし続ける。そうすることで、発芽したものを育てていく。いいものだったと思うから、もっと成長させたいと思うから、いつも心のどこかにとどめておく。そうして時間をかけて、そのような芽が成長してくれたら、森も豊かになるのではないかと思うのだ。

「これは発芽したな」と気づくことも大切だし、発芽したものをいつもこころにとどめ、くり返し考えることで成長させることも大切なのだろう。そしてそれ以前に、発芽できる土壌にすることが大切だろう。
また、植林よりも、やはり芽から育てた方が自然で豊かな森になるだろうなとも思う。自分の中の森が、誰かに植えられた木々だけだったら悲しいし、つまらないと思う。

やはり、多様な植生が混在するような森がいい。発芽したものが互いに影響を与え合うような森がいい。できたら、木登りが楽しめるようなでっかい樹があるといい。樹々はしっかり根を張っていたい。でも、常に新しい芽が出るように、地表まで日が射すような余裕が欲しい。そのためには、ちょっとした手入れは必要かと思う。

そういう、心の中に豊かな森をもつというイメージ。
あるいは、自分の中にどのような森があるのか観察するということ。
これは明らかにフィクションなのだけど、僕にとってはある種の現実的な力を持っている。
物語や芸術の持つ力とは、このような、形はないけれど確かに存在する力のことかもしれない。

投稿者 tsuyoshi : 14:25 | トラックバック

『わたしを離さないで』

カズオ・イシグロ著 『わたしを離さないで』(早川書房) 

それなりに分厚くて、外国の小説で、そして「世界文学」と呼べるような本格的なものを読みたいなと思って手に取った一冊。カズオ・イシグロさんは、日本生まれだけど五歳からイギリスに住んでいて、英語で小説を書く作家。名前だけは知っていたけれど、読むのは初めてだった。

分量があり、淡々とした語り口なので、物語に入っていくまでは大変だったけど、一度入ってしまえば没頭できた。
抑えがきいた文章から、にじみ出るような凄みがあった。あぶりだされるように明らかになっていく事実に驚いた。とても変わった小説だけど、逆説的な普遍性があった。題が予感させるとおり、余韻はやはり哀しいものだった。小説を読むという喜びを感じられ、しっかり腹にたまる物語だった。

ストーリーについては、これから読む方がいると思うので何も書けない。この本に関しては、事前に内容について一切知らない状態で読んだ方がいいと思う。

投稿者 tsuyoshi : 13:08 | トラックバック

2006年06月02日

五月のすごくよかったメモ

五月にみた展覧会や映画などの感想。
すごく良かったものだけ、メモ代わりに。

・展覧会「フンベルトヴァッサー展」  京都国立近代美術館にて。
雨や曇りの日の方が、色自体がよくみえるから好きだと、ビデオの中で言っていたのが印象に残る。確かに晴れの日はコントラストが強く鮮やかな色彩になるけれど、色自体の微妙に変化する階調は見えにくい。これから梅雨になるけれど、雨や曇りの日は色の豊かな階調が楽しめるのだと思うと、もう一つ楽しみが増えた気がした。彼の建築の模型も、版画も、すごく良かった。


・映画『かもめ食堂
こんな言葉が「村上朝日堂」という村上春樹さんのホームページにあった。

40歳を過ぎてなおかつ素敵な女性は、ほんとうに素敵な女性だと僕は思っています。それより若い時に素敵なのは、多くの場合若さの助けを借りているからです。そういう助けなしで、素敵な女性になるというのは、ほんとうに価値のある達成ですよね。

『かもめ食堂』の主人公のサチエさんが、まさにそんな女性だった。これはもうほんとうに「価値のある達成」だと思った。映画の中だけれど、ほんとうに素敵な女性に出会えたことは、ほんとうに素敵な出来事だった。サチエさんがいくつなのかは実際のところよくわからないのだけれど。


・映画『ビフォア・サンライズ(邦題:恋人までの距離)』/『ビフォア・サンセット』
全編、二人の会話しかない、きわめてストレートな恋愛映画。会話することの喜びに満ちた映画。ふたりとも話したいことが山ほどあり、時間は圧倒的に足りなく、たたみかけるように話している姿が、とても良かった。「話す」ということはどんな遊びよりも楽しいことなんだと思った。そして、どれだけ話しても伝え切れない、言葉の苦しさ、もどかしさも伝わってきた。二人の会話があまりにも自然なので、これが演技だということが不思議だった。『ビフォア・サンセット』は、『ビフォア・サンライズ』の続編。


・映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
キューバの老ミュージシャンたちへのインタビューとライブ演奏のドキュメンタリー映画。
とにかく素晴らしかった。キューバ音楽のことは全然知らなかったけれど、心から楽しんで演奏しているということが、シンプルに伝わってきた。こういう素敵な年の取り方は、ほんとうに偉大な達成だと思った。


ひとつひとつとても素晴らしく、感じるものも多く、書きたいこともたくさんなのだけど、やはり見てすぐに書かないと機を逃してしまう。だから今回はメモ程度の感想になってしまった。
それにしても、世の中にはすばらしい作品がほんとうにたくさんある。まだまだ出会っていない作品が山ほどあるのだろう。それは、ほんとうにすばらしいことだけれど、全部見ることなんて絶対にできないから、ちょっと悲しくもある。

投稿者 tsuyoshi : 00:49 | コメント (2) | トラックバック

2006年06月01日

ガードを下げる

大阪、京都での写真展を終え、東京に戻ってきて二週間ちかくが経ちました。その間に僕はゆっくりと舵を切り、紀行文を推敲する心の姿勢に切り替えていました。もう、他のことはしないようにします。推敲することに没頭します。

体を動かすことは書くことのいいペースメーカーになるので、ジムでのボルダリングはやるけれど、限界を押し上げるようなクライミングはやらないように気をつけます。いままでに登れた課題を、もっと合理的なムーブで、もっと力を使わないで登ることを主たる目的として登ろうと思います。没頭しないと限界を押し上げるクライミングなどできないけれど、二つ同時に没頭などできるわけがないから、この場合優先順位の関係で書くことを選びます。

書くことに没頭するということは、ガードを下げ、無防備な状態になるということでもあります。
感度を最大限上げるので、些細なことに神経質になり、ぐさりと感じてしまったりする状態になるのだと思います。でもそれは仕方のないこと。多少の傷は受けるしかありません。その分、驚いたり嬉しかったりすることも多く感じられるのだから。でも、いま自分はガードを下げているのだということを自覚することは必要だと思います。自覚していれば、自衛手段も講じられます。

そして願わくば、いつだってこういう状態にいたいものです。堅く殻を閉じても閉じきれるものではないし、せっかくのすばらしいものごとを見逃してしまうのは、やはり残念だから。でも、そうやって生きるには、やっぱりタフにならないと。がんばろっと。

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