2006年06月23日
映画「プージェー」
先週の日曜日にポレポレ東中野という映画館へ行き、関野吉晴さんらがモンゴルで撮った「プージェー」というドキュメンタリー映画を観た。プージェーとは遊牧民の少女の名前。
映画が始まる前に、関野さんの舞台挨拶があった。
グレートジャーニーという旅のスタイルや、少女と出会ういきさつなどを話されていたのだが、話の最後に関野さんは「この映画は普通の終わり方をしません」と言ってから、「パンフレットに”少女は草原を駆け抜けた”とあるように、プージェーはもうこの世にはいません」と言った。映画が始まる前に、結末を先に言ってしまったのだ。たぶん会場にいただれもが、すこし驚いたと思う。
映画を見終わってから、関野さんが結末を最初に言ったことに共感できた。
結果が重要な映画であれば、それは「ネタバレ」以外のなにものでもなく、映画の楽しみを半減させてしまうものだろう。でもこの映画は、結末がわかっても何一つ損なわれたりしていなかった。それどころか、映画全編に渡る、プージェーの生に対する愛おしさがあった。確かに最後に驚きはないけれど、関野さんはそんな驚きなどを見せたいのではないのだろうなと思った。彼女の生の逞しさ、凛々しさや誇り高さなどが、やがて死んでしまうという前提でみると、より一層伝わってきた。しかし考えてみれば、「やがて死んでしまうという前提」は、何も彼女に限ったことではない。自分を含めた、生あるものすべての前提条件だ。
関野さんがあえて結末を先に言ったのは、きっとプージェーの生死をセンセーショナルで表層的な次元で捉えて欲しくなかったからだろう。映画を見ていると、どんどんプージェーの逞しさ、強さに引き込まれ、馬にまたがる姿などは美しいとすら感じた。関野さんがプージェーに強く魅了されたから、何度も訪れ撮り続けたのだということが強く伝わってきた。だから関野さんは、彼女の死という結果ではなく、映画の細部を、彼女の生の細部を、表情や仕草や言葉のニュアンスを見て欲しいとおもったから、あえて、舞台挨拶で結末を言ったのだろう。それは、ネタバレなどという次元の話ではなく、関野さんのプージェーに対する思い入れの強さの現れなのだろうと思った。
投稿者 tsuyoshi : 2006年06月23日 01:57
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://hanamote.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/111
コメント
「グレートジャーニー」の言葉に惹かれて関野さんの写真展や講演を聴きに行ったことを思い出しました。その時、購入した彼の本にモンゴルの女の子6歳のプージェの写真と話が載っていました。
亡くなってしまったとのこと、、このHPで知りました。
「死」は特別なことでもなく、唯一平等に訪れる真実。
けれど、「死」から限りなく深い「生」が浮かび上がる、、、
投稿者 ぶんたん : 2006年06月24日 09:30
コメントありがとうございます。
おそらくその本だと思うのですが、映画の中で本人に渡す場面がありました。彼女はすごく喜んでいました。
人と再会するということは、あたりまえのことではないのだなぁと思いました。次に絶対に会えるとは限らないのだなと思いました。だから人と会っている時は、なるべく100%で会っていたいなと思いました。なかなかむつかしいですが。
投稿者 tsuyoshi : 2006年06月24日 21:47
