2006年08月28日

『沼地のある森を抜けて』

梨木香歩さんの『沼地のある森を抜けて』(新潮社)を読んだ。
いままで読んだすべての本の中でもベストの一冊じゃないかと思えるぐらい、とてもよかった。

梨木さんの本を読んでいる時はいつも「ああいいタイミングで読んでるな」と思うのだが、今回も強くそう思った。本は、作品自体の力と、読むタイミングがいい具合で合ったときに、すばらしい読書体験になるなとつくづく思う。

実は、読み始めてしばらくしたところで、ちょっと着いて行けなくなりかけた。なぜなら、ストーリーが急に荒唐無稽になり、「おいおい」と思ってしまうような展開になったから。
もしかしたら、梨木さんの本の一冊めがこれだったとしたら、途中で投げ出さないまでも、もうちょっと違った読書になっていたのかもしれない。でも、以前に読んだいくつかの作品から、全面的に作者を信頼していたので、大丈夫この作者はそれほど悪いことはしない、と、警戒心を解いて、ガードを下げて読み進めることができた。

ガードを下げて、無防備になるということは、作者を信頼しないととてもできないことだと思う。なぜなら、ガードを下げると言葉が深く届きすぎて、場合によってはどんな暴力よりも深く傷つく危険もあるのだから。でも、同時に、ガードを下げたときにだけ、物語は深く心に届くものになるのだと思う。そういう意味で読書は、信頼を仲立ちとした共同作業なのだとも思う。


この本は、「境界を越える」という方向を持った物語なのかもしれない。自己と他者、男と女の間にある境界を、「個」と「群れ」の間の境界を、あるいは一つの細胞と細胞を形成する膜を、越える、開ける、あるいは溶かすという方向を持った物語なのかもしれない。

そして、越えて、開けて、溶かすことにより、命が連なっていく、受け渡されていく、順送りにつながっていくということの、根源的な不思議さ、原初的な哀しさ、の余韻が大きくて、物語の、あまりにも重層的な深さに、ため息ばかりだった。

読了してから、「解き放たれてあれ」ということばが、ずっと頭の中に響いていた。

解き放たれてあれ、と。母の繰り返しでも、父の繰り返しでもない、先祖の誰でもない、まったく世界でただ一つの、存在なのだから、と。

ジョギングしていても、街をてくてくと歩いていても、その一歩一歩ごとに、「解き放たれてあれ」という言葉が頭の中で繰り返し繰り返し聞こえてきて、心地よかった。
そしてその心地よさは、どこかで孤独であることを受け入れる姿勢とつながっているのだと思った。
近しい人の存在があってはじめて実感されるような、身を切り裂かれるような孤独、あるいは全宇宙でたった一人だけポツンと立っているような、透明な孤独。そういうものを、どうにか受け入れるという姿勢。

自身を物理的に突き動かす力、とにかく前に進む感じ。前へ前へと、変化に身を晒し、好奇心を全開にして、発火するように瞬間瞬間を旅しようとする姿勢。孤独は、ポジティブに捉えられたら、そういう方向を持ったものでもあるのだと思う。

そして、そのような「弧」あるいは「個」が出会ったときに、境界を越えていくような、何かを瞬時に溶かし去るような、閾値を越えた新たなエネルギーが発生するのかもしれない。

この、壮大な命の流れの
最先端に、あなたは立つ
たった独りで

最先端で、岬の突端で、自分を世界に向けて開いていくような作品。
ぎりぎりのところで世界を肯定していなければ書けないのだろうな。







ps.しばらく原稿の方を優先させるためにブログをお休みしていました。結果的に、予想以上に長く休むことになってしまいました。でも、また日々の思いついたことを更新していこうと思います。書きたいことを、書きたいときに、書きたいように書く。そんなわがままな方針で、ぽつぽつと更新していこうと思います。


ps2.このエントリーをアップしてしばらく経ってから、友人から「女の子が生まれたよ」というメールを受け取る。素敵すぎるタイミングだ。おめでとう!

投稿者 tsuyoshi : 2006年08月28日 11:00

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