2006年09月06日
『サバイバル登山家』
先日、久しぶりに奥秩父に沢登りに行った。
友人と三人で一ノ瀬川本流を遡行した。この沢はとにかく泳ぐ沢で、久しぶりの沢登りだったからか三人とも大はしゃぎでゴルジュ(谷の両岸が切り立った場所)へ突っ込んでいった。でも天気はいまいちで、何度も冷たい水の中を泳ぐから寒くて仕方なく、途中からは無理矢理はしゃいでテンションを上げていたが、ともかくとても楽しかった。
倒木になめこを見つけたのは、ゴルジュを突破して休憩しているときだった。もし、『サバイバル登山家』服部文祥著(みすず書房)を読んでいなかったら、ただ「なめこらしきものがあるな」と思っただけだっただろう。でも、この本を読んだ後だったので、これが本当になめこかどうか確認することは死活問題だと思えた。だから僕は袋に少し入れてもって帰り、翌日にみそ汁にしたのだ。
翌日家で、なめこをよく洗い、くんくん匂いをかいだり、眺め回したり、ほんの少しだけかじったりした。それからしっかり昆布でだしをとり、タマネギとなめこを入れて、みそを入れて完成。
ちょっとどきどきしながらひとくちだけ食べて、しばらく様子をみる。お腹も痛くならないし、笑い出したり、幻覚を見たりしてもいない。というより、かなりうまい。
これは大丈夫そうだと思いつつもうひとくち食べて、様子を見る。なんというか、むちゃくちゃうまい。そしてしばらく経ってもなんともないので、全部食べた。
舌とは旨い・まずいを判断するものではなく、本来は「食べられる・食べられない」を味わい分けるための器官ではないかと考えるようになった。(中略)
食べられるものは旨い。食べられないものはまずい。舌をそんなシンプルな道具として使いうることは生命体としての喜びである。(『サバイバル登山家』より)
きっとスーパーでなめこを買ってみそ汁を作っても、味は同じようなものだろう。でも、あのなめこのみそ汁のうまさには、買ったものでは得られない「生命体としての喜び」という隠し味があった。きっと、舌を根源的な用途に使ったという喜びなのだ。
自力で食べられるものを見つけたというのは誇らしいものだった。食べられるきのこを一種類同定できたという喜び、それにより将来にわたり食料をひとつ獲得できたという喜びが、最高の調味料になっていた。
生きることが食べることであるならば、「ただのきのこ」が「食べられるきのこ」になるということは、命がふくらむような、シンプルで根源的な喜びなのだ。
『サバイバル登山家』という本の背表紙にはこう書かれている。
「生きようとする自分を経験すること、僕の登山のオリジナルは今でもそこにある」(中略)
「生命体としてなまなましく生きたい」から、食料も燃料もテントも持たず、ケモノのように一人で奥深い山へ分け入る。南アルプスや日高山脈では岩魚や山菜で食いつなぎ、冬の黒部では豪雪と格闘し、大自然のなかで生きる手応えをつかんでいく。
「自然に対してフェアに」という真摯な登山思想と、ユニークな山行記が躍動する、鮮烈な山岳ノンフィクション。
この本を読んだという経験は、自分にとって決定的な出来事だったと後で思い返すのかもしれない。読みながら、とても現実的な側面で、何かが動き出すのをはっきりと感じていた。極めて大切なヒントがちりばめられているような本だった。
この本には、自分が書きたいと思っている種類の文章が書かれていた。自分の体験したことを掘り下げ、普遍の水脈まで掘り下げようとする文章。一人称の体験を、深く考え続け、平易な言葉にすること。この本は、著者の体験から自然に湧き出てきた言葉ばかりだから、言葉が狡い道具になっていなくて、そのことがなによりよかった。そして、著者の服部さんの、ものごとの捉え方、感じ方に驚くほど共感していた。
「肉屋」と題された文章は、かつて自分が書いた文章と本質的には同じだったので驚いた。他の文章はすべて登山について書かれたものだけど、この文章だけは登山とは関係のないものだった。パキスタンのフンザで見た、牛の屠殺について書かれた文章だった。その文章の最後はこうなっていた。
僕は肉屋の男のように牛を殺すことができるのだろうか。もしできないなら、僕に肉を食べる資格があるのだろうか。(中略)
どうやら……と僕は思った。
もう一度こんな機会に遭遇したら、今度は僕が牛を叩く役をやらせて貰わなくてはならない。
この文章は、マリのドゴン族のマーケットでの、羊の屠殺について書いた文章と同じだ。僕は以前にこう書いたのだ。
ナイフを持ったら、僕はひるむだろうか。死の恐怖におびえた動物の前で、殺せない、と逃げるだろうか。いや、きっと…。
知っていることと、見ることは別だ。
そして見ることと行うことも別だ。
恐れながらも、機会があれば、きっと、と思った。
(以前書いたこの文章より)
屠殺を目撃した時のリアクションが同じだということは、「フェア」という言葉が意味する内容が同じだということでもある。
「フェア」という考えは、別の言葉で言うと「野性の思考」であり、「対称性の論理」である。以前ぼくは中沢新一さんの『対称性人類学』(講談社選書メチエ)という本をむさぼるように読み、とても強い影響を受けたのだけど、その本に出てくる「対称性無意識」や「神話的思考」や「流動的知性」という言葉を、具体的な次元で発露させているのが、「サバイバル登山」という方法なのだろう。
「サバイバル登山」は服部さんの造語で、簡単に規定すると「電池で動くものと燃料を山に持って行かない。食料は米と調味料だけ」となるのだという。基本的には現地調達でどうにかするのだ。
人間を、より野生動物に近い状態にするということ。そういう方法で立ち現れる「人間」という種を経験するということ。野生動物との差異を、あるいは野生動物と同じだということを、経験するということ。
この「サバイバル登山」という方法には、「自然」というものに対する、とても大切な思考の萌芽が隠されているように思う。そしてそれが、優れた文明批評にもなるのだと思う。中沢さんの『対称性人類学』の最後の方にこう書いてあった。
ホモサピエンスとしての私たちの「心」の基体は、すべてのものを商品化していく資本主義によっても、無意識の大規模な抑圧の上に構築されたキリスト教的一神教によっても、満足を得ることができません。(中略)
対称性無意識とは、私たちの「心」の働きを生み出している「自然」にほかなりません。形而上化された世界をもう一度、対称性無意識の働きによって、「自然化」する必要があるのです。(『対称性人類学』より)
「もう一度「自然化」する」ということは、「サバイバル登山」という方法そのものだ。だから、無意識の原初的抑圧を解放するような力が、思想的にきわめてラディカルで根源的なものが、「サバイバル登山」には隠されているように思う。
これからの登山の役割について服部さんは「歴史的な役割は終わったのかもしれない。だが、登山の思想的な役割はまだ始まったばかりである。もしかしたら登山ははじめからその役割のために存在したのではないかとさえ僕は思っている。」と書いている。
山から若者がいなくなって久しい。でも、フリークライミングには若者は集まっている。それは当然だと思う。端的に言って、ただ登山道を歩くだけでは若者を魅了する思想的な新しさがないからだろう。若者は、直感的にフリークライミングの「フリー」という思想に惹かれているのだろう。
この本を読むと、フリークライミングの「フリー」という思想を沢登りに応用するという発想が、どれだけ奥深いものを見せてくれるかを感じられ、無性に沢に行きたくなる。それも単独で、長い沢に、なるべく装備を減らして行きたくなる。そして、真っ暗な森の中で、ひざを丸めて眠りたくなる。
『サバイバル登山家』という本の中から引用したい箇所は無数にあって、どこを引用するか困るぐらいだ。でも最後に一カ所だけ、ああいいなと思った、焚き火の描写を引用する。
薪が炭に変わっていくと焚き火の炎がふらつきだす。火が弱くなり、風が吹いてまた、勢いを取り戻す。そのたびに周りの世界が明滅し、ふっと炎が消えると世界も暗闇に消える。足元で赤いホダ火が小さな虫のかたまりのようにうごめいている。新たな薪をくべて風を送る。煙が上がり、すぐに炎に変わる。炎が出ると、そこを中心にしたオレンジ色の丸い世界がふたたび浮かび上がる。岩魚や石、周りの樹々の炎に向いている側だけがオレンジ色に照らされ、裏側は吸い込まれそうなほど黒い。
登山用のガスコンロを持っていき鑑賞用におこす焚き火と、燃料を持っていかないで、必要だからおこす焚き火は、一見同じものかもしれないが、やはり後者の方が美しいだろう。それはスーパーで買ったなめこと、自分でみつけたなめこの味が、舌の上で起こる化学反応は同じでも、その質感がまるで違うということと同じだ。
この焚き火の描写を読んでいると、「サバイバル登山」とは、世界をより美しくするための方法なのかもしれないと思えてきた。そう考えると、なんて素敵なことなのだろう。
そして、僕もこんな美しいものをもっと見たいと思った。おなじ世界を、どうせ同じならばより美しいものだと思いたい。
僕は単独で山に行くと、頭の中でずっと女の子に手紙を書き続ける癖がある。歩きながら、あるいは焚き火を眺めながら、心の中に湧き出てくる言葉を、手紙に延々と書き続け、やたら長い手紙にしている。そうやって頭の中に書かれた手紙は、まず実際には出さないけれど、書き途中の手紙がたくさん引き出しの中にしまわれて、ちょっと切ないような楽しさがある。でも、たまには実際に手紙をだしてもいいかもしれない。受け取る側が重たく感じない程度に(つまりは大幅に)減量して。
単独で山に入るということは、社会的属性をすべてはぎ取り「個」になるということである。
そのように「個」になったときに、別の「個」に、あるいは「群れ」に、強くコミュニケーションを取りたくなるというのは、人間の切ない性(さが)なのだろう。
単独行が好きな人間は、寂しがりやで人恋しいから、一人で山の奥へ向かうのだ。そして遠く離れた場所に行ってからやっと、たどたどしく心の中でメッセージを送る。でもそういう場所で湧きあがる言葉こそ、本当に深く届くもの、しっかり腹にたまるものになるのではないだろうか。
だから、よりシンプルなスタイルで、びくびくしながら、自然の奥深くへこれからも分け入って行きたいと思った。
一ノ瀬川本流の遡行の様子。撮影はすべてごうくん。
動画はごうくんのHPへ。赤いヘルメットで「だめだ…」と情けないことを言っているのが僕。
投稿者 tsuyoshi : 2006年09月06日 22:09
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コメント
スゴイ楽しそう♪
でも自分にやる勇気はない。。(笑
週末はレースで青森行ってきます。
雨の青森!?
寒いのイヤァ~(´д`;
もう少しレースのシーズンは続きます。
シーズン終わったら、また遊んで下さい(^^
投稿者 グッチ : 2006年09月08日 21:47
グッチさんひさしぶり!
コメントありがとうございます。
沢は、勇気というよりも経験です。メッセンジャーと同じです。
僕は今週末(今日)も、来週末も、泊まりで沢に行く予定。
友人と二人で、けっこう挑戦的なやつに。
それ以外に単独行もやる予定で、しばらく沢のシーズンは続きそうです。
それが終わったら、クライミング行きましょう。
レース、がんばってください!
投稿者 tsuyoshi : 2006年09月09日 00:29
