2006年09月16日
野良猫
ぼくは野良猫が大好きで、見かけるたびにいいなあとちょっと羨望の眼差しになってしまう。あのひょうひょうとした自由な生き方を見習いたい。でもきっと野良猫は野良猫なりの苦労があるんだろうなぁ。飼い猫の陰口に心を痛めたりして。
最近読んだ、河合隼雄さん(心理療法家)と吉本ばななさん(小説家)の対談の本の中に、非常に印象深い箇所があった。
河合 いま現代人は、みんな「社会」病にかかっているんです。なにも、社会の役になんて立たんでもええわけですよ。もっと傑作なのは、ただ外に出て働いているだけなのに社会に貢献していると思っている人がいる。貢献なんてしていないですよね、金儲けに行ってるだけでしょ。「そんなん、別に」とぼくは思ってます。社会へ出ていくとか、だいたい社会というものが、あるのか、ないのか。それから、なんで貢献せないかんのか、とか。全部、不明でしょ、ほんとのとこは。
吉本 いやなことなんだけど、やらなきゃいけないというこの感じは、いったい、どこから来てるんですか?
河合 流行り、いまの流行りですよ。
吉本 (笑)
河合 昔だったら、そんなに流行ってないと思いますよ。昔は天皇陛下のために死ぬことが流行ってたというように、時代によって流行りがあるんです。
吉本 なるほどねえ。
(『なるほどの対話』新潮文庫より)
こういう箇所に非常に共感するのは、僕が社会に居場所を感じられないからだろう。特に社会の役に立たないでも、野良猫のように卑屈になることなく生きたいと思うのだけれど、日本に住みながらそういう生き方をするのは、非常に大変だと思う。友人と話していて仕事の忙しさの話になったり、あるいは忙しそうなサラリーマンを見たりすると、なぜか自分が非難されているような気になるのだ。普通に社会に参加していないような生き方が。
なんでだろうと思っていたけれど、それが今の時代の「流行り」なのだと思うと、少し気が楽になる。天皇陛下万歳の時代に、その空気にどうしてもなじめない人が激しい疎外感を感じたであろうように、時代精神に合う生き方ができない人は、否応なく疎外感や罪悪感を感じるものなのだろう。今生きている時代に無縁でいられる人なんていないのだから。(もしいたとしたら、それは野良猫が化けているのだ)
僕もメッセンジャーの仕事をしているときは、忙しさの真っ只中にいた。大至急の荷物をいくつも持って、ビルからビルへと東京の中心部を右往左往していた。そしてときどき、忙しいということに快感を覚えていた。きっと「忙しい」ということが、いまの、特に東京の流行りなのだろう。流行りだから、流行に乗っていると快感なのだ。
そして、そういうときにはちょっと傲慢になっていた思う。「忙しい」ということが大義名分となって、あまり他を顧みれなかったように思う。そうでない価値観を見下すか非難するようになっていたかもしれない。「忙しい」ということが悪いことだとは決して思わないけれど。
『なるほどの対話』で吉本さんは河合さんに、作家として生きていく職業的位置が日本にはないということを相談していた。普通に生活をしている場面で職業名を聞かれたときに、作家だと名乗るのが非常に難しい空気があるのだという。
作家は、自分の名前を看板にして、個人として生きていく職業だけど、そういう職業を名乗ることが難しい世間の圧力のようなものを、私生活の場面場面で感じるのだという。異物を排除するような、腫れものに触るような空気を日本では感じてしまい、つい「主婦です」などと嘘をついてしまうのだという。そしてそういう圧力を振り切るためにエネルギーの75%ぐらいを使ってしまい、本当は創作にもっとたくさんエネルギーを使いたいのにとても辛いと、河合さんに相談していた。
日本は「世間」の圧力がとても強い国なのだろう。「個人」であることを表に出すことが非常に難しい社会なのだろう。
だから作家のような突出した「個」はすぐに「世間」とぶつかり、嫌われるか、極端に持ち上げられるかで、いずれにせよ排除の対象になってしまう。
そういう空気を、吉本さんのような社会に広く認められた作家でさえ感じるのだから、作家の、卵の、影の、予感ぐらいでしかない僕が強烈に感じてしまうのも無理ないだろう。
登校拒否も、ニートも、ひきこもりも、現代の日本社会の流行りに乗り遅れた人たちへの、世間からのレッテル張りだろう。レッテルを張って区別し、排除しようとする圧力なのだろう。そうして排除することで、「全体としての安定」を保つのだろう。
ぼくはこのごろ「個と組織」についてしつこく考えているけれど、「個」であることと、「群れ」の一員であることは、実は補完的なのだということを、よく感じている。
「補完的」という言葉はよく「地と図の関係」で説明される。陸地と海しか書かれていない白地図を思い浮かべて、陸地は海により規定される/海は陸地により規定されることを思えば理解しやすいと思う。海が増えると陸地は減る。陸地が増えると海は減る。でも、全部海、全部陸地になってしまうと、真っ白な紙があるだけで、それはもはや「陸地」「海」と名付けられなくなり、白地図ですらなくなる。
もし100%「個」であったら、発狂しているのだと思う。100%「群れ」であったら、ロボットのようなもので、もはや人間ですらないだろう。
だから、「個」と「群れ」の座標軸上のどこかに、ちょうどいい関係を保てる場所を見つけることが大切なのだろう。
海と陸に片足ずついれて、その境界から生まれるような言葉ってどんなものだろうと思う。
波打ち際や岬の突端、あるいは沼地のような場所が放つ魅力は、もしかしたら言葉が生まれる原初的な場所と関係しているのかもしれない。
「群れ」に決して両足を入れない。片足だけ入れて、もう片方は「個」に入れる。そして「個」に両足を入れてしまいたいという強い誘惑にも抗う。そんな立ち位置を、場合によっては相当な気合いを入れてでも見つけていかなければならないのだろう。
…
だいぶ前の話になるが、ある女の子に「野良猫みたい」と言われたことがある。ときどき気まぐれににゃーにゃー鳴いて近づいてくるけれど、可愛がろうとするとすぐどこかに行ってしまうような野良猫のようだ、と。彼女が僕を飼い猫のようにしようとするものだから、僕はたまらないと思ってその手をくぐり抜け続けていたのだ。そうしたら彼女はある日、半ば諦めたような口調で「野良猫みたい」と言ったのだ。あの発言は、かなり嬉しかったな…。
投稿者 tsuyoshi : 2006年09月16日 09:53
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トラックバック時刻: 2006年09月17日 01:10
コメント
本質的に時代精神というやつに完全にリンクしている人間なんていない。必ずどこかで、時代に対して懐疑的であるはずだ。なぜなら、人は基本、個だからだ。だが人は一人では生きていけない。そこに葛藤があるのは作家だけではないはず…。
投稿者 オルテガ : 2006年09月16日 22:12
オルテガさん、おひさしぶりー。
やっかいな長文をよんでくれてありがとう。
もちろん作家だけじゃないです。メッセンジャーもです。
きっと、ヒトという種に普遍的なことだと思う。
でも、ヒトじゃなくて、サルとか、シカとか、オオカミとか、イルカとか、ツバメとか、どうなんだろう?
「個体」と「群れ」との間の微妙な立ち位置ってあるのだろうか?
ほんとのところ野良猫もどうなんだろう。
野良猫に聞いてみたいです。
投稿者 tsuyoshi : 2006年09月17日 01:25
現在の「社会への貢献」の基準から最も遠い所にあるであろう愚僧だけに、本日の王子の言葉には非常に勇気づけられました。
最近、
「自己責任論」
について改めて考え直して(一部を愚僧のサイトで公開中)いるだけに、
「社会的貢献」
だの
「世間体」
だのというフレーズを聞くと、執拗なまでに噛みつく傾向がありましてね、王子も同じような傾向を持っておいでのようで、心強い限りです。
「世間」という言葉をここまで前面に押し出しているという事は、王子も、阿部謹也さんの
『世間とは何か』
『日本人の歴史意識』
の二冊を読んでおられますな。未読であれば、是非お読みあれ。
その阿部さん、つい先日に他界されましたが。残念な限り。人の生死は本当に計り難い。
投稿者 洛北孫子亭 : 2006年09月20日 22:21
なるほどね~
普段本を読まないし、あんまり哲学的なことを考えるのは得意ではないんだけど、この文章を読んで共感と共に作家をはじめとしたモノを考えて自分の考えを表現するっていうことに興味が沸いたよ
好きでもない仕事して愚痴をこぼしながらも、好きな仕事ややりたいこと探しもせずにだらだら生きてる人がほとんどだって思うしね
自由人になりたいなってよく思うけど本当に自由人になったらやっぱり発狂するんだろうなぁ
自分自身はどちらかというと流行りに流されてる方だから個体を感じることは少ないけど自分自身の目指す「個体」というものをじっくりと考えてみたくなりました
投稿者 おさかべ : 2006年09月20日 23:34
>孫子
コメントありがとう。
長期間旅をするということは、「個」の比重を重くする作業なのだと思う。だから、「群れ」にとっての異物になっていくのだと思う。
でも、「個」になるという行為そのものが、「群れ」にとっての斥候の役を担っていたと考えると、斥候として「群れ全体として生きのびる為の役」に立つことが(うまくいけば)出来ると思う。
だから、「排除」と「役に立つ」は、紙一重の違いだと思う。
旅に限らず「個」の比重を重くすると、必然的にダブルバインドな状況になっていくけれど、そうなったときに大切なのは、ぎりぎりの状況でのバランス感覚かな、と思ってます。
阿部謹也さん、未読です。こんど読んでみます。
「世間」については、養老孟司さんの『無思想の発見』に影響を受けてると思います。
>おさかべ
コメントありがとう。
僕は、良い作品に接したとき、非常に興味深い経験をしたときは混乱してしまい、一度文章にしてみないことにはどうにも収まりがつかなくなるのです。
そういうときは、むきになるぐらいしつこく書きます。でも、書いたら一時的には収まるけれど、書いたことに触発されて、またムクムクと別に疑問が湧きあがり、きりがありません。
最近書いたブログのエントリーは、どれも10時間以上ぶっつづけで粘って書いてます。これは自分にとってはどうしても書かなくてはいけない死活問題だと思って、くどいのは承知で書いているのです。
でも、それだけたっぷり時間をかけて書けるのは、好きだからであると同時に、要するに暇だからでもあります。そう考えると、「暇」というものが持つ力に感じ入ってしまい、「暇」や「遊び」というものについて、暇なので、また頭の中でぐるぐると言葉以前の言葉が回り始めます。困ったなぁ^^
投稿者 tsuyoshi : 2006年09月21日 23:58
本郷さん、お久しぶりです。以前ごうくんちでご一緒したよっちゃんです。
私は仕事において、「群れ」に属すからこそできること、についてよく考えます。でも「群れ」に属すことで自分の「個」がいつのまにか見失いがちになっているのも事実で、、、
「個」としては社会にとってよいことをしたい!(大きな目で見て環境等色んな面でよい商品を作りたい!)と思っているのですが、「群れ」である会社にとってはそれが単純に利益を生み出すものではない、という感じでしょうか。
「群れ」に属していないからといって、単純に”社会に居場所を感じられない”というわけではないと思います。うまく言えないけど。。また近々ご一緒しましょう。
投稿者 よつ : 2006年09月24日 12:45
よっちゃん、お久しぶりです。
コメントどうもありがとう。
僕は、「個」でなければできないことについてよく考えます。でもそれが「群れ」にとってすんなり受け入れられるものではないから、難しくも感じ、面白くも思います。
なんだか僕の悩み事に付き合わせてしまっているようで申し訳ないなあと思うのですが、いろいろ感じてもらえているのだとしたらとても嬉しいです。
僕がブログを書いている理由の一つは、自分を外に向けて開いておくことが必要だなと感じるからです。部屋の窓を開けて、外の空気を中に入れ、中の空気を外に出すようなものかもしれません。窓はタイミングを見計らって、大きく開けたりしっかり閉めて密室にしたりします。もちろん、ブログだけが窓ではないけれど。
ぜひまたご一緒しましょう。楽しみです。
投稿者 tsuyoshi : 2006年09月25日 18:19
丁寧なお返事ありがとう!
本郷さんの文章は悩みというより、「個」の経験から普遍的なところに向かおうとしているので、なんだか共感してしまいます。色んな種類の窓が一杯ある家が理想的ですね。
投稿者 よつ : 2006年09月28日 00:04
僕がいま住んでる部屋は安さだけが取り柄で、風通しも日当たりもいまいちです。
だから、風通しと日当たりのいい部屋に住みたいです。
クーラーもないので、夏はかなり大変でした…。
投稿者 tsuyoshi : 2006年09月29日 02:10
ふふふ。面白いですね。来年の夏までには引っ越さなきゃですね〜。
投稿者 よつ : 2006年09月30日 23:05
でも、夏が終わると毎年達成感があるんです。^^
投稿者 tsuyoshi : 2006年10月01日 23:06
