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2006年10月23日
映画「フラガール」
たぶん、事前にこの映画を知っていたとしても、自ら「フラガール」を見に行こうとまでは思わなかったと思う。
昨日代官山で友人と一緒にある人と会い、その帰りに渋谷で友人に「フラガール」を観ようと誘われ、まあついでだしと渋々ながらも映画館へ行ったのだ。
そして結論から言うと、すごくよかった。
誘われなければ出会う機会のなかったであろう作品は、いままでだって数多くある。そして考えてみれば、そうやって誰かに誘われて出会った作品が時に、ぐっと視野を押し広げてくれることが多い。持つべきは、趣味の微妙に違った友人なのかもしれない。
この映画がベタな作品であることは一目瞭然である。
水戸黄門が最後に印籠を出すのとおなじぐらい、予定調和な映画だと思う。
たまたま映画の上映後に李監督のトークがあったのだけれど、監督も同じようなことを言っていた。そして、「ベタな映画で、分かり切ったストーリーだけれど、それを飽きさせずに最後まで見せるのは、ここは声を大にして言いたいのだけれど、じつは結構大変なんです」とも言っていた。
李監督は、おちついた、冷静にじっくりモノゴトを考えるような印象の方だった。情熱はあくまでも内に秘め、観客からの質問に一つ一つ考え、ゆっくり淡々と話されていた。自分の作品についても、ちょっと距離を置いたような、まるで自分の作品でないかのようなディタッチメントの態度を維持されていた。
そして僕は、あのようなディタッチメントの態度がこの映画を素晴らしい作品にしているのだろうなぁと感じ入ってしまった。
映画に僕は、始まってから終わるまで、その世界にかっさらわれるように、ぐいぐい引き込まれていった。監督が精緻に考え尽くして編集しているからか、どれだけベタな場面であっても、映画の中から追い出され、飽きたり冷静になってしまうようなことがなかった。これはたぶん、すごいことだ。細部まで隙のない、完成度の高い、すばらしいエンターテイメントだった。舞台の上で、何かが乗り移ったように踊る姿がほんとうに良かった。シンプルで力強いメッセージを持った物語だった。
(以下、映画の内容に触れるので追記へ)
…
監督は「いくつものフックを仕掛け、観客の感情をかき乱す」ということが分かり切ったストーリーにおいて飽きさせないために重要だとおっしゃってたけれど、本当に天才的なまでに絶妙なフックだった。その数あるフックの中でも、ある一つの場面が頭から離れない。
それは、フラガールになりたい紀美子が「おれかあちゃんみたいな生き方したくねえ!おれの人生おれのもんだ!」と叫んで、かあちゃんに平手打ちを食らい、泣きながら家を出て行こうとする場面。
シリアスで、感動的で、ぼくも涙がこぼれるぎりぎりになっていた。しかし次の瞬間、勇ましく家を飛び出そうとした紀美子が、ずっと正座していたために足がしびれてしまい、ヨタヨタ、ヨタヨタ、と壁伝いによろめきながら歩くのだ。泣く方向に感情をぎりぎりまで高まらせておいて、急に180度方向転換するのだ。これはずるい。感情がかき乱されることはなはだしい。
「笑い」も「涙」も、処理しきれない感情のオーバーフローだということを、茂木健一郎さんの何かの本で読んだことがある。脳がショートし、処理しきれないエネルギーが溢れ出すと、笑ったり泣いたりするのだという。
大泣きしている声などは、前後の文脈なくそこだけ取り出すと大笑いしているように聞こえることがあるけれど、きっと、「オーバーフロー」という意味では同じ現象の双子のようなものだからなのだろうな。
ともかく、ヨタヨタ、ヨタヨタ、と壁伝いに歩く紀美子の姿が、昨日からずっと脳裏から離れてくれない。まんまと監督の仕掛けたフックに釣り上げられてしまった。
投稿者 tsuyoshi : 2006年10月23日 14:51
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