2006年10月28日
『私という小説家の作り方』大江健三郎
ハウツー本のようなタイトルだけれど、第十章の章題になっている「小説家として生き死にすること」がこの本の内容を表していると思う。とても真摯で誠実な自伝として読んだ。
大江健三郎を読むのはこれがはじめて。
たしか高校のころに課題図書かなにかで『個人的な体験』を読もうとしたけれど、はじめの数ページで挫折した覚えがある。文字がぎちぎちに詰まっていて、もうそれだけで頭に来てしまった。でも今回は読めた。そのなかにこんな言葉があった。
読書には時期がある。本とジャストミートするためには、時を待たねばならないことがしばしばある。しかしそれ以前の、若い時の記憶に引っかかりめいたものをきざむだけの、三振あるいはファウルを打つような読み方にもムダということはないものなのだ。
この『私という小説家の作り方』も、じつは数年まえに三振し、ずっと本棚に眠っていたもの。でも今回はなんとか出塁できたようだ。
彼の投げたどんな球が僕のバットにあたったか、何箇所か引用してみる。
私はいつも緊急避難の小さな船が港に入るように、人生の時の嵐を避けて、これら詩人のもとに身をひそめたのだ
すでに小説はバルザックやドストエフスキーといった偉大な作家によって豊かに書かれているのに、なぜ自分が書くのか? 同じように生真面目に思い悩んでいる若者がいま私に問いかけるとしよう。私は、こう反問して、かれを励まそうとするのではないかと思う。すでに数えきれないほど偉大な人間が生きたのに、なおきみは生きようとするではないか?
耳を澄まし、眼を見開くようにして、そこをみたしている沈黙と測りあう言葉を探す自分、というところに立ち戻る
こういう言葉が、いまの僕のバットの芯の部分にあたる。ここ以外にも、線を引きページの端を折った箇所がずいぶんたくさんあった。
高校時代に、たった数ページ読んだだけで、「文字がぎっしり詰まっているから」という理由で挫折した大江さんの本。
でも、球を投げる側が、生き死にを全部込めたようなボールを投げているのだということを知ると、ああちゃんと打席に立たないとと思った。そして、彼の小説も読んでみたいと思った。
投稿者 tsuyoshi : 2006年10月28日 04:45
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