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2006年11月19日

全部を経験できるわけがない

先週今週はなぜか、縁あって多くの人と話す機会があった。
すごく久しぶりだったり、初対面だったり、よく話す友だちだったりしたのだが、
ほとんど一対一で何時間も話したように思う。
そしてそれが、とても興味深く、とても楽しく、とても貴重な時間だった。

こういうことは、以前の(とくに旅の前の)僕には考えられなかったことだ。
かつては、人と話すことほど苦手なことはなかった。
とくに女の子と一対一などは考えられなかった。
でもいまは、性別はあまり関係なく、話すことほど楽しいことはないと思えている。

話していて断然楽しいのは、やはりその人の、その人しか話せない一人称の物語だ。
そういう物語にぼくが相づちをうったり、なにか言ったりすると、なにか即興演奏のような、二度と得られない、一期一会の貴重な時間になるような気がする。

以前ぼくは、「全部自分で経験したい!」というものすごい情熱に突き動かされていた。
あらゆる国を訪れ、あらゆる道を走り、あらゆる人と出会い、あらゆる都市に滞在し…
全部の山に登り、全部の岩を登攀し、全部の沢を遡行し…
絶景を、名作を、名演を、美しきものすべてを、見捨てられたものすべてを…
そういう、「世界のすべて」を、「自分で経験すること」を志向していた。
他の誰かが経験した話を聞くのではなく、この僕が経験したいと思っていた。

でも、全部経験するには、ぼくの人生はあまりに限られていた。
きっとそのことを、最近になってようやく認めつつあるのだと思う。
かなり苦々しい思いとともに、ちょっとした挫折感とともに、「全部を自分で経験できるわけがない」と納得しつつあるのだと思う。
たった一つの国、たった一つの都市、たった一人の人を知ろうとするだけで一生かかってしまうことを、ようやく学習しつつあるのだと思う。
全部を自分で経験しようとすると、世界の無限をまえにして焦るばかりになってしまうのだ。

だから、大切なものごとでも取捨選択せざるをえなく、優先順位をつけなければいけなく、自分では経験できないものについては他の人に任せ、その人の報告を聞きたいと思ったのだと思う。

そしてそのような態度で耳を傾けてみると、どんな人にもその人が置かれた状況ならではの物語があり、だれもが僕が経験できないことを経験していた。べつに奇抜な半生を送っているわけではなくても、「普通の経験」などどこにもなかった。
そういう、その人ならではの物語を聞いていると、なんというか、国境を越えて新しい国へ入ったような、異文化に接するような興味深さがあった。
だから、人に会って話すことが、旅をすることと同じぐらい楽しくなったのだと思う。

とはいえ、充実した時間を過ごせば過ごすほど、どこか深い場所で摩擦や傷を感じるのも事実で、くたくたになり家に帰ってバタンと眠ってしまうこともあった。
二日連続で会ったあとは、もう敗残兵のように満身創痍になっていた。
お互いがなにか、こころの柔らかい部分で話し合うので、言い争いをしたとかではないのだけれど、やはりどうしても痛みのようなものを感じてしまうのだ。

でもそのような傷や痛みのような引っかかりめいたものを、一人になってからゆっくり丹念に振り返って検討してみると、そこにはとても大切な気付きが隠されていた。
痛みの裏側には必ず、それこそいま僕が探していたことが隠されていた。
きっと、そういう経験を繰り返し、摩擦の中にこそ鉱脈があると思えるようになったから、人と話すことが楽しいと感じているのだと思う。

だから、決して社交的になったというわけではない。
むしろいよいよ社交的ではなくなっているのかもしれない。
多人数で話している場などで、ぜんぜんそういう個人的な話ができない雰囲気だと、僕はわりと静かにしている。そして、くだらないな、早く終わらないかなと思ったりしている。内輪だけに通じる、ぬるま湯的な会話がもっともダメだ。
でも、少人数で、うまいぐあいにスイッチが入ると、二度と聞けないライブの即興演奏のような、とても充実した時間になる。

有限の命が、無限を志向するということ。「世界のぜんぶ」を志向すること。
それは永遠に叶えられない片思いに似ている。
ときどきその矛盾と不条理に、胸を裂かれるような切なさを感じることがある。

でもきっと、決して叶えられない切なさを積極的に引き受けるという態度の中にしか、生の躍動に満ちた実感はないのだとも思う。
だからいまだって「世界のぜんぶ」を志向している。何かに恋焦がれているという具体的な苦しさがある。でもそれが地理的な移動を繰り返すという現れ方をしていないだけなのだと思う。その別の現れ方の一つが、人の話を聞く、ということなのだと思う。そしてきっと、本を読むのも、絵を見るのも、音楽を聴くのも、映画を観るのも、人の話を聞くことと本質的には同じことだと思う。

投稿者 tsuyoshi : 2006年11月19日 07:49

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コメント

すごくいい文章ですね!
なんか、読みながら、
「ああ、言葉に出来なかったけれど、
 私もずっとそう思っていた。」
という気がしてくる文章でした。

私はまだまだ、自分ばっかり話してしまうなー。
それって、人のことを受け入れていない、
人の世界を尊重していないっていうことなんだろうか…
自分の未熟さを感じてちょっと痛かったです。

投稿者 のぞみ : 2006年12月18日 20:32

のぞみちゃんお久しぶり。
のぞみちゃんの仕事の話は興味しんしんだから、会った時はいつも質問攻めしてる気がする。まさに僕が経験できないことをやってるから、聞きたいことばかりなのです。
質問に答えてくれたり、いろいろと教えてくれたりするのも、人のことを受け入れたり、尊重したりすることと同じことなのではないか、と思ったりします。だから、痛がる必要はないかと思われます。
コメントありがと。

投稿者 tsuyoshi : 2006年12月19日 20:07