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2006年11月20日
『やわらか脳』『わが悲しき娼婦たちの思い出』
茂木健一郎さんの『やわらか脳』(徳間書店)を徹夜で一気に読んだ。
彼のブログ「クオリア日記」を整理したもの。
なんか、ふつふつとエネルギーが湧いてくる感じで、ああいいものを読んだなあ!という興奮を感じつつ、どうにかその興奮を制御しこれを書いている。
僕は茂木さんの本を結構読んでいる。読書記録を見直すと、いままでに9冊も読んでいた。(『脳とコンピューターはどう違うか』『脳内現象』『「脳」整理法』『脳と創造性』『脳の中の人生』『ひらめき脳』『食のクオリア』『クオリア降臨』『脳と仮想』)
どれもそれぞれとてもおもしろかったが、もし誰かに彼の本で一番最初に何を読んだらいいか尋ねられたら、僕は今回読んだ『やわらか脳』を勧めると思う。なぜならブログが元になっているからか、茂木さんの真骨頂である即興性が生き生きと現れているからだ。茂木さんのユニークなクオリア(質感)がダイレクトに感じられるのだ。
『脳と仮想』の中に、小林秀雄の講演テープを聴いた衝撃を受けて、「話し言葉の生々しい臨場感、肉声を通して伝わってくる小林秀雄という人物の塊のようなもの」に強く惹かれたことが書いてあった。
『やわらか脳』は書き言葉だが、畳み掛けるように書かれた鮮度ある言葉だからか、茂木さんの肉声に近いものが感じられ、茂木さんの一番コアな部分がむき出しになっているように思えた。あらゆる領域を軽々と横断していく知性のあり方に興奮した。だから、『やわらか脳』を入り口にして、しかる後にそれぞれの専門性のあるテーマの本を読むと、茂木さんとのファーストコンタクトがしあわせなものになるのではないかなどと思った。
茂木さんは、なにかに恋しているのだと思う。
大竹伸朗さんの展覧会を見たときも思ったけれど、きっと彼らは、無限、美、永遠、真理、芸術というような言葉の裏に隠れている「なにか」に抗い難く想いを寄せ、どうにか想いを伝えようと、あの手この手でのたうち回っている。開高健さんも、クライマーの山野井泰史さんも、片想いの人だと思う。求めて止まない精神のリズムに殉じている。惚れていることを真正面から認め、技術の限りを尽くし、「なにか」を掴もうとしている。その片想いの苦しさ、切なさに胸が苦しくなり、想いに殉じる甘美と恍惚に嫉妬する。僕は、そういう表現者にとことん惹かれる。
片想いは、どうしたってブザマでぎこちないものだ。
いままでの僕の経験を思い出すと、そのブザマさがありありと思い出され逃げ出したくなる。でもその時の僕は、自分のどうしようもない欠点をどうにか克服しようと、そしてどうにか想いを伝えようと、必死で転げ回っていた。全力疾走していた。そのときに発するエネルギーは凄まじいものがあった。そして生命の躍動(エラン・ヴィタール)に満ちていた。現在の一瞬一瞬が永遠になっていた。
昨日『わが悲しき娼婦たちの思い出』ガルシア=マルケスを読んだのだが、そこには90歳の老人が14歳の少女に、雪崩のように恋をして心を焦がす話が書かれていた。身も蓋もない話なのだが、それを読んで、90などというように計量化・数値化できないその人の魂の年齢を感じた。90歳の老人の、ぶざまでみっともない、そしてそうであるが故に魅力に満ちた生命が躍動していた。そして、ああこうでなくっちゃなと思った。肉体の衰えと、恋の真剣さ、切実さがからみ合い、すばらしい作品だった。
きっと異性に恋するのも、スポーツや学問や芸術などに恋するのも、そのときの精神のありようは同じだとおもう。切実さのクオリア(質感)に違いはない。
恋している人は、張りつめた表情をしていて、とても美しい。
「片想いの人」の作品も、その生き方も、どこかに張りつめた精神のリズムがあるから、生きることを鼓舞してくれる力がある。
このごろ浴びるように本を読んでいるが、いい本に立て続けに二冊も出会えてしあわせである。
投稿者 tsuyoshi : 2006年11月20日 08:16
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