2006年11月24日

『憲法九条を世界遺産へ』『日本という国』

なんか、喉が渇いているときに飲んだ水がこれ以上ないぐらいおいしく感じられるのと同じように、このごろ、読む本がことごとくとてもおもしろく感じられ、ごくごくと飲むように読んでいる。きっとものすごく喉が渇いているのだろう。

『憲法九条を世界遺産へ』太田光・中沢新一(集英社新書)と『日本という国』小熊英二(理論社)を読んだ。

旅を終えて大学に復学してからも、ぼくはあまり学ぶことに身を入れていなかったけれど、例外的に面白かった本や授業がいくつかあって、中沢新一さんの本(『カイエ・ソバージュ』等)や小熊先生の授業はその例外。

だから、九条問題を考えたいと思って読んだというよりは、中沢さんの本だからできるだけフォローしていきたいと思って、『憲法九条を世界遺産へ』を読んだのだ。
そんな軽い気持ちで読みはじめたのだが、これがまれにみる白熱した対談で、一気に引き込まれ読了した。九条問題ってこんなに深かったんだ!と驚きだった。

宮沢賢治と日本国憲法、一万年規模の環太平洋の思想の流れと憲法など、ただの法律と政治の話だと思っていた九条問題が、あらゆる領域とつながる全体性の話へとつながっていき、発見の連続だった。
このごろはテレビをほとんど見ないので、爆笑問題の太田さんがテレビでどんな発言をしているのかは知らないけれど、この本を読み一気に好きになってしまった。

『憲法九条を世界遺産に』を読むまえの僕は、九条問題について、はっきりいってそれほど積極的な関心も意見もなかった。
古い時代に作られた法律で、現状と合わなくなってきたから、改憲派はバージョンアップしたがっていて、護憲派はいいものだから守りたいと思ってるのだろうなぐらいの認識だった。

でも、『憲法九条を世界遺産に』を読んだ後は、九条についてどう考えるかという問題が、死刑制度についてどういう態度をとるかということと同じぐらい、自分の人生観、価値観ときわめて密接に関係してくる、もっとも個人的で切実な問題であることがよく分かった。

九条問題は、理想を抱きつづけ、矛盾を抱えつづけるか、ということだった。
そしてまた、悪について、内面にある闇についてのどう捉えるのか、ということだった。

戦争はしない、軍隊はもたない、そうはっきり憲法に盛り込むことは、無邪気なまでの理想主義だ。そんな無邪気な理想を憲法にして掲げることは、普通は出来ないことだけれど、どういうわけか敗戦時に、偶然といっていいぐらい奇跡的に成立した。こんな理想、本当に実現できた国はいままでないし、これから先あるかも分からない。

だから、九条を変えようとするということは、「現実に合わせる」ということで、「バージョンアップ」というのではニュアンスが違ってくる。九条はすでに窮極の理想を語っていて、あれ以上の「バージョンアップ」はありえないからだ。

国家という共同体の擬人化がどれぐらい有効なのかは分からないけれど、理想と現実とのギャップは、自分の人生を見つめれば、きっと誰にだって切実な問題だと思う。

若く無邪気な時期に、なにかのきっかけで「宇宙飛行士になる」「プロ野球選手になる」などと理想を掲げても、ある時期に現実の厳しさに直面し、とてもじゃないけどやっていけないと追いつめられるのが普通だ。そんなときでも、どうにかして「解釈」でしのぎつづけられるか、なのだろう。

理想を掲げるということは、同時に矛盾を抱えるということでもある。
その矛盾を抱えつづける覇気がまだ自分の中にあるのか、もう本当にとてもじゃないけどこれではやっていけないのか。
自分の人生に関して言えば、内心びくびくしながらも、まだやっていけると断言しちゃうけれど、九条についての態度は、これから長い時間をかけて鍛え上げていかねばならないなと思った。


それで、僕は日本の歴史について、基本的なことすら何も知らないと思い、『日本という国』を読んだ。
この本は「歴史」という漢字に「れきし」とルビがふってあるぐらい低年齢の読者を意識した本。これぐらいが分かりやすくていい。(理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの中の一冊)

著者の小熊先生は、僕が行ってた大学で先生をしていた人。
僕は彼の授業をかなり熱心に授業を聞いていた。カリスマ性がある先生で、毎回ポイントだけを箇条書きしたA3の紙を一枚配り、パワーポイントも使わず、視聴覚資料も使わず、板書もほとんどせず、ずっと座って淡々と話すだけというスタイルのストイックな授業だったが、三百人ぐらい入る広い教室はいつも満員だった。

『日本という国』は、考える土台となる基礎知識をわかりやすく解説してくれる本。
知らなければ、考えることすらできないのだから、基礎知識をきっちり知るということは大切だ。さくっと読めたけれど、必要最小限をバランスよくという感じで、いい復習になった。

小熊先生は、常にモノゴトを外から醒めた目でみているという印象がある。
日本という国のナショナリティなど、ナイーブな問題を専門としている先生だからなのかもしれない。

九条問題などナイーブで感情的になりやすい問題を考える時はきっと、小熊先生ぐらい醒めた目で見ることを忘れないようにしないと、ただの感情的な水掛け論になってしまう危険がある。
お笑い芸人が観客が爆笑しているなか表情一つ変えないのと同じように、自分を客観視すること、自分からちょっと外にでてしまうということ。ニュートラルな場所に自分を置くということ。思考停止することなく考え続け、表現し続けていくための態度として、とても大切なことだと思った。

投稿者 tsuyoshi : 2006年11月24日 10:25

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