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2006年12月30日
『黄泉の犬』
先のエントリーで今年の更新はおしまいにしようと思っていたのだけど、
昨日『黄泉の犬』という本を読んでそれがあまりにすばらしくて、
感想を書きたくなってきたので書いてみる。
藤原新也さんの『黄泉の犬』(文藝春秋)を買ったのは一カ月ほど前。でも、見るからに噛みごたえのありそうな本だったので、そのときすぐには読めなかった。
昨日の夜に、ふと手に取って最初の一章を読んでみようと思って読みはじめたらとまらなくなり、7、8時間かけ一気に読了、もう外は朝になってた。
僕は、かつて藤原さんの熱心な読者だった。『印度放浪』『西蔵放浪』『全東洋街道』『メメント・モリ』等々に魅了され、多くの旅人同様、僕にとっても彼はヒーローのような存在だった。旅の途中は、藤原さんの写真を真似たりもしていた。
でも、長い旅を終えたあと彼の写真展に行ってから、なんだか急に冷めていった。なぜだか分からないが、もうかつてのようには魅了されなくなっていた。いつからか彼の写真やことばが、自分にとってそれほど切実なものとは感じられなくなっていた。
だから、『黄泉の犬』は、それほど期待していたわけではなかったのだが、これが、稀にみる傑作だった。
この本は、彼の旅行記でもあり、オウム事件を追う本当の意味でのジャーナリズムの本でもあり、1995年を論じ、現代の日本社会のメンタリティを論じるものでもあるという、多角的なノンフィクション作品。しかし、多くの題材を扱っていながら、それが底流で一つになっていくような興奮を感じさせてくれる。藤原さんの、表現者としての覚悟が痛いほど伝わってくる。
これを読むと、個人の意志というものがいかに時代と密接に連動しているかがよく分かる。ぼくたちがどういう時代に生きているかがよく分かる。
旅立つなどという行為は、極めて個人的な出来事のように思われるが、それがまさに深く個人的で内面的な出来事であるがゆえに、色濃く「社会」の映し鏡になっているのだなと思った。
藤原さんは、ちょうど僕の親と同じぐらいの世代。藤原さんは大学に入ってからしばらくして中退し、インドに旅立った。そのときのことを「動物的な危機回避行動」だったと回顧している。
60年代の学生運動やヒッピー・ムーブメントに象徴されるような、世界に同時多発的に発生した青年による体制への異議申し立てのベースには、そういったやがて訪れる身体や環境の閉塞をいち早く察した、ある意味で動物的な危機回避行動があったのではないかと今の私は回顧している。そのような日本の中における青年の私にとって当面のいらだちというのは“自身の身体が消えて”いくといったフィジカルなものだった。
僕は、この「動物的な危機回避行動」ということばが、自分ごととして非常に深く共感できる。(実は僕の両親も二十代前半に長期の旅をしている。その旅立ちの深層の部分には、やはり藤原さんのようないらだちがあったのだろうか?)
そして藤原さんがそうであったように、僕も自分の身体に対するリアリティの回復がどうしても必要だった。だからこそ、身体を酷使する自転車を旅の手段とし、身体にとって過酷そうなアフリカを出発地としたのかもしれない。
あのときの自分を、90年代後半を生きる思い詰めた一人の青年のサンプル(N=1)としていま思い返すと、やはり自分がいかにその時代のコードに飲み込まれていたか、多少なりとも見えてくる。団塊ジュニア、核家族、テレビゲーム、マンガ、受験勉強、携帯電話の出現、メール、インターネットの出現、等々。
藤原さんの姿勢で徹底しているのは、既成の価値観へ所属することへの嫌悪と、社会的属性を剥ぎ取った、ただの一人の人間として接する態度。
旅とは本来そういうものであるはずだが、それを徹底できるひとはまずいない。あるコミュニティやある価値観からドロップアウトしても、すぐに、もうひとつ別のコミュニティや別の価値観に回収されていくからだ。(日本から脱出したはずなのに日本人宿に沈没し、旅の記憶のほとんどが日本人宿やそこで出会った日本人の記憶に占められている人は多い。もちろん僕も例外ではない。)
そういう意味で、藤原さんの徹底ぶりにはほんとうに驚いてしまう。
インドを旅行すること自体は、今では珍しくもなんともないし、藤原さんの時代でもそれほど珍しい行為ではなかったのではないかと思う。(ちなみに、ぼくがやったような自転車旅行も別に珍しくはない)
でも、彼のように徹底して「異物」であり続ける態度は、よほどの覚悟がないとできないこと。そして、そのようなぎりぎりの立ち位置で書かれたことばには、感染力がある。
憎まれ口のような、皮肉をたっぷり含んだ、シニカルな語り口なのだが、それを裏側から支える言葉はすべて自分の身体で紡ぎだしたものであることがありありと分かるから、信頼して読むことができる。毒のあることばでも虚心に読める。
この本は彼の宗教観を掘り下げているものでもあるのだが、宗教観などという極めてナーバスな問題を、自己陶酔的にならずに掘り下げられている力量は圧巻だった。
表紙は、藤原新也さんのファンなら誰もが知っている「人間は犬に食われるほど自由だ」の写真。ガンジス川の中州に漂着した人間の死体が犬に食われている写真なのだが、この写真を表紙に使うということに、藤原さんのこの本への思い入れや覚悟を感じる。
30年以上書きたくてもおそらく筆力が追いつかなくて書けなかった内容を、満を持してようやく書いたというような本だったのだと思う。
オウム真理教事件を論じる本(特に水俣病と松本被告の関連など)としてもマスターピースだし、
心と身体が引き裂かれていく危うい現代の時代批評としても圧巻だし、
一人の青年の内面の危機を描く、率直な自伝としてもすばらしい。
藤原さんから興味が薄れていた時期もあったけれど、そういう時期に読みのがしていた本も含め、もう一度彼の著作を読んでみたいと思った。
投稿者 tsuyoshi : 20:12 | コメント (2) | トラックバック
2006年12月28日
昔はものを 思わざりけり
僕は本を読んだら、読んだ日にちと、題名、作者名、出版社名などをメモしているのだが、この「読んだ本リスト」を眺めていると、その時々で僕が何を考え、何に興味があったか、個人的な変遷がうかがえてとても興味深い。
それで、今年ももう残るところあとわずかなので、そのメモを見ながら、
今年読んだ本の中から、特にすばらしかったもの、強く影響を受けたものを選んでみました。(上から読んだ順番に並べています)
『カイエ・ソバージュ』(第五巻 対称性人類学) 中沢新一
『脳と創造性』 茂木健一郎
『春になったら苺を摘みに』 梨木香歩
『「これだけは、村上さんに言っておこう」』 村上春樹
『ぐるりのこと』 梨木香歩
『わたしを離さないで』 ガズオ・イシグロ
『沼地のある森を抜けて』 梨木香歩
『サバイバル登山家』 服部文祥
『神の子どもたちはみな踊る』 村上春樹
『バスジャック』 三崎亜記
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
『黄泉の犬』 藤原新也
どれも、ほんとうにすばらしい本。
そしてすごくいいタイミングで読んだ本ばかり。
でも、この中でさらに選ぶとしたら、
『カイエ・ソバージュ』
『沼地のある森を抜けて』
『ねじまき鳥クロニクル』
の三冊。この三冊を読んだ前後で自分の頭の中がぜんぜん違っている気がする。
最近茂木さんのブログで
「逢いみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思わざりけり」
という短歌を知った。
百人一首にもなってる、権中納言敦忠という人の短歌だそうだ。
出会ったあと振り返って考えると、前はなんにも考えてなかったなあ
というような意味で、恋愛の歌だそうだ。
たしかに、素敵な異性に出会ったあとは世界観ががらっと変わってしまうけど、出会いは異性だけに限らない。素敵な異性と同じぐらい、本にも強い影響力があると思う。
つまり、これらの本は、かつての自分に対して「昔はものを 思わざりけり」と言いたくなるぐらいすばらしかったと言いたいのだ。
「出会い」には、いままでの世界観をがらっと変わってしまう力があるから、
ちょっとしりごみしてしまうこともあるけれど、
「逢いみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思わざりけり」
と言い聞かせれば、なんだか、もう一歩前へと進んでいけそうだ。
今年も、本に限らず、いくつかの出会いや出来事があり、
そしてそのことをいま振り返って考えると、
やはり「昔はものを おもわざりけり」と言いたくなる。
なにか、出会いや出来事にどこかで傷を受けたり、摩擦を感じたりしたあと、それが自然治癒のように回復したときに、すこしだけ新しい目で世界が見えるようになれる気がする。
そしてそういうときに、昔はものを思わなかったなあと思うのだろうな。
かつての自分を振り返り、あのころはなんにも見えてなかったなあと思えるのは、やはり嬉しいことだ。
茂木さんも言ってたけど、来年のいまごろにいまの自分をふりかえり、「昔はものを おもわざりけり」と言っているようでありたい。
でも、そうであるためには、日々変わり続けなければいけない。
さいきん聞いたアップルのスティーブ・ジョブズの講演(日本語訳)の中で、彼は「Stay hungry,Stay foolish」と言っていた。すばらしい講演、すばらしいことば。僕もStay hungry,Stay foolishを、指標のようにして生きていきたい。
きっと、いくつになってもそういう態度で日々生きないと「昔はものを おもわざりけり」と本当には思えないのだろうな。
よいお年を。
投稿者 tsuyoshi : 20:24 | トラックバック
2006年12月13日
芸術人類学研究所 青山分校! 神田出張所
今日、お茶の水にある明治大学の大教室で、「芸術人類学研究所 青山分校! 神田出張所」という中沢新一さんの講演を聴いてきた。
この講演は、「ほぼ日刊イトイ新聞」が主催したもので、東京のいくつかの書店で「三位一体モデル」という本を買った人がチケットをもらえるというもの。
僕はそのチケットが欲しくていそいそと新宿の紀伊国屋書店に行ったのだけど、もうチケットはなくなってて、がっくりしながら本だけ買って帰った。そのことをある日友人に言うと、友人が同じ本を買ってて、チケットも持ってて、自慢された。でも都合のいいことに友人はその日出張で行けないことになり、ありがたくチケットを受け取り行ってきたのだ。持つべきは出張の多い仕事をしている友人だ。
でも、「後でどんな講演だったか説明するように」と厳しく言われチケットを受け取ったので、以下復習の意味を込めて、その講演内容を思い出せるかぎり書いていこうと思う。まだ印象が鮮明なうちに、知的興奮がさめやらぬホカホカなうちに、一気に書こうと思う。
でもただ書くのではおもしろくないので、メモを元にして、中沢新一さんのペルソナ(仮面)をかぶって、中沢さんの話し口調で書いてみることにする。
というわけで、中沢新一先生の登場です。ペタ(仮面を装着する音)
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(大きな拍手)
こんにちは、中沢新一です。
今日はお集りいただきありがとうございます。
今日は僕がずーっと考えてきた、「三位一体モデル」について話そうと思います。
「3」という数字に興味を持ちはじめたのは、1980年代後半ぐらいからです。ある雑誌に記事を書くためスペインのバルセロナに行ったときに、多くのとても面白い人たちと話しました。市井の人や知識人たちだったりするのですが、バルセロナのいろいろな人たちと話していると、みんな、バルセロナという町を表現するときに「3」という数字をとても熱を込めて語っているのに気がついたのです。
バルセロナは、自由や芸術を大切にし、スペイン市民戦争のときはファシズムの支配に対抗した町です。そういう町が大切にする「3」という数字は、なにかそこに、生命の原理を表せるものを秘めているのではないかと思いました。
「3」の原理は、自由、生命力、よろこびなどに親和性があります。
一方で、現在世界で覇権を握りつつあるのは「2」の原理です。「2」の原理は、支配、管理、情報化に親和性があります。コンピューターを想像していただけると分かりやすいのですが、あれはすべてのものを「0と1」という二つの数字で表そうとする道具です。「2」の原理では、あらゆるものが計量化、数値化できるものに変わり、そしていったん数値化されるとすぐに「お金」に変換され、そして「商品」になります。「2」の原理は、あらゆるものを「商品」にしていく原理で、資本主義を加速させる原理でもあり、支配力があり、現代社会では圧倒的なパワーを持っています。
そういう「2」の原理に常に対抗しているのが「3」の原理です。「3」という数字は常に「2」と戦い続けています。「2」の原理は自由や生きる喜びのようなものを抑圧しているからです。「3」の原理は、生きる喜びや、生命の自然に即した原理は「3」なのだと主張するのです。「3」の原理は、自然に湧きあがる生命力や、地中から吹き上がる風のようなものを大切にする考え方でもあります。
このバルセロナでの体験を元にして「秘数3」という文章を書いたのですが、まだ不十分でした。
・二つの「三位一体モデル」
次に「3」という数字を強く意識したのはモスクワでした。そのころのモスクワは「ジーパン」や「コカコーラ」を旗印にして、西洋資本主義が入ってきていた時代なのですが、それは言い換えれば「2」の原理が入ってきた時代もありました。ちょうど東ヨーロッパに西ヨーロッパの考えが入り込んでいく時代だったのです。そしてそのことにロシアの人々は魅了されつつも不安を覚え、なかには反対するひともいました。
ロシアは、ロシア正教という古ーいキリスト教の流れの伝統がある国です。同じキリスト教でも、西ヨーロッパのカソリックと東ヨーロッパのロシア正教では、大きな違いがあります。そしてその違いは、「三位一体」に対する理解の仕方にあります。
「三位一体」とは神の三つのペルソナ、父、子、聖霊(スピリット)が、三つ巴の環になった図で説明されるのですが、この聖霊(スピリット)の扱いが、西ヨーロッパと東ヨーロッパでは違うのです。
東ヨーロッパでは、聖霊(スピリット)の力は、「外から吹き出してくる力」として認識されています。人間の世界の「外」から、大地の奥底から、宇宙の根源から、人間が認識できない領域から、目に見えないエネルギーとして、「吹き出してくる」のです。だから、東ヨーロッパでは、三位一体モデルにおける父、子、聖霊は、「同格」なのです。
一方西ヨーロッパでは、同じ三位一体モデルでも、聖霊の扱いが違うのです。この分裂は、325年の二ケア公会議から明確になっていったのですが、西ヨーロッパでは聖霊の力は、人間の理解できる「内部」から、父と子から、「流れ出てくる」と捉えているのです。つまり、聖霊を父と子の「中」にセットし、聖霊を抑圧してしまい、聖霊を父と子に従属させてしまったのです。だから、父と子と聖霊は同格ではなく、三位一体モデルも歪んだものになっているのです。
そして、資本主義は、西ヨーロッパのこの歪んだ三位一体モデルから起こりました。この三位一体モデルは、一見「3」の原理のようで、実は「2」の原理でできています。外からわき出す聖霊の力を抑圧することで、「3」を「2」に変えてしまったのです。そしてそこから、経済合理性が生まれ、資本主義という形に発展し、いまや世界を覆い尽くそうとしています。つまり資本主義は、三位一体モデルを喰い破るように出てきた鬼っ子のようなもので、その「2」の原理の鬼っ子が、いまや世界を圧倒的に支配しつつあるのです。
・心の本質、流動的知性
この三位一体モデルは、なにもキリスト教だけの専売特許ではありません。日本の奈良にある三輪神社なども、この三つの輪が重なった図をシンボルマークとしています。むかしの日本人は、心の奥底でこの「3」の原理をよく理解していたのだと思います。
人類の歴史はおよそ200〜300万年あります。しかし、現在の私たちと同じ脳の構造をもつ現生人類ホモサピエンスの歴史は9〜10万年ほどで、それほど長いわけではありません。
約10万年まえに現生人類の脳に革命的な構造的変化が起こりました。脳の中に「流動的知性」が発生したのです。このことについては、『カイエ・ソバージュ』という本でくりかえし述べたので、よろしければそちらを読んでいただけたらと思います。
流動的知性とは、領域を横断する知性です。それまでの人類は、脳の中で、領域ごとに別々に思考していました。比喩のような、領域を横断する知性はありませんでした。しかし現生人類はどういうわけか、領域を横断する知性を持ちました。そしてこの流動的知性が発生することにより、現生人類に「心」が発生しました。そして同時に心の中に、心を越えたものも発生しました。
私たちの中にあるこの流動的知性は、常に動いていて捉えることができません。流動的知性は、思考することでは理解できません。人間は動いているものをピンで止めるようにしてしか理解することができないのですが、流動的知性は、決してピンで止めることはできないのです。
つまり人間の心は、非常に不思議な成り立ちをしていることになります。人間の心は流動的知性がないと発生しないのに、流動的知性自体は、人間の心ではとらえられないのです。
このことが何を意味するかというと、人間は常に心の中に「過剰」を抱えているということです。あふれかえるような過剰な力が、流動的知性の働きにより湧き出てくるのです。その過剰な力をどうにか捉えようとし、芸術や宗教が生まれました。
・流動的知性、イメージ、言葉
この流動的知性が、人間の知性のおおもとを形作っています。人間の心の本質の部分には、この、どこにも所属しない、あらゆる領域を横断する、色も形もない流動的知性があるのです。
このように流動的知性は、人間の知覚ではとらえることができないのですが、それをどうにか捉えようとし、人間はまずそれに色と形を与えた「イメージ」の力を発展させました。この「イメージ」は、夢を思い浮かべていただくと分かりやすいのですが、不確かで、あいまいで、移ろいやすいものです。
そして次に人間は「言葉」を使い、できるだけ矛盾のない形で世界を表そうとしました。言葉ですべてを矛盾なく表せるわけではないのですが、できるだけ合理的に、イメージを言葉に移し替えて世界を理解しようとしたのです。
このように、人間の知性は、おおもとに「流動的知性」があり、この流動的知性は、通常の思考の「外」にある、とらえられないものです。そしてその「外」と「言葉」とをつなぐ通路として「イメージ」があります。「イメージ」は曖昧で揺れ動くものですが、どうにか知覚できます。その「イメージ」を「言葉」できっちりとピンで止めるようにして、人間は世界を認識しようとするのです。
この「流動的知性」「イメージ」「言葉」の三位一体モデルはそれぞれ、「聖霊」「子」「父」に相当します。だから、人間の心の全体性を見失わないためには、「3」を意識することが大切なのです。
しかし、この「3」の原理は、すぐに「2」へと作り替えられてしまいます。流動的知性が抑圧され、カットされることで、「3」は「2」へと容易に作り替えられてしまうのです。
今日、グローバリズムが問題にされているのですが、グローバリズムは長い歴史の結果として現れてきた現象で、現代に特有の問題というわけではありません。今日グローバリズムがこれほど問題になるのは、「2」の原理が世界的に覇権を持とうとしているからです。流動的知性が抑圧され、「2」の原理が世界を覆い尽くそうとしている現代において、人間の心の全体性を失わないためには「3」の原理を意識することが大切なのです。
・「1」の原理、「2」の原理、「3」の原理
ここで、いままで触れていなかったもう一つの原理に少しだけ触れます。それは「1」の原理です。「1」の原理は、流動的知性にのみ焦点を合わせた原理で、言うまでもなく一神教の原理です。ユダヤ教、イスラームの神は、唯一絶対で、色も形もない、全能の存在です。(この「1」の原理については今月号の群像に「映画としての宗教」という題で書いたのでよかったら読んでください)
つまり、現代には、「1」の原理、「2」の原理、「3」の原理と、三つの原理があるのです。
「1」の原理は、ユダヤ教、イスラム教の、一神教の原理です。
「2」の原理は、情報化、商品化にすぐれ、資本主義を押し進める原理です。論理的で合理的な原理です。
そして「3」の原理は、人間の心の成り立ち方にごく自然によりそった原理です。「ごく自然に」というところが重要です。人間の心は、不合理で、パラドックスに満ちていて、多くの矛盾をはらんでいます。しかし、そういう不合理なものに自然によりそい、内側に不合理なもの、矛盾しているものをセットした思考モデルが「3」の原理なのです。そしてこの心の成り立ちに忠実な「3」の原理は、無理なく人間が幸福に近づける思考モデルになるうるのではないかと思っています。
・現代における「3」の原理の役割
ご承知のように、現代では「2」が優勢です。そして「1」が強烈に反発して、世界に大きな緊張関係が生まれています。「1」の人たちは、「2」のやり方では人間は幸福になれないと思っています。
日本という国は、古来より「3」の原理で成り立ってきた国です。多神教の宗教である神道は、スピリットたちが活躍し、流動的知性が内部にセットされた「3」の原理で成り立っている宗教です。
ここで注意していただきたいのは「3」と「1」の類似性です。
流動的知性をおおもとにするという心の本質にたいする共通認識は「1」も「3」も同じなのです。両者とも、人間の「外」から無限にあふれかえってくるものを心の本質としてセットしているのです。だから、「1」の原理も、人間が幸福になれる思考モデルとして、十分ありだと私は思います。
しかしながら、私たちがとっている「3」の原理は、それを「1」に還元しようとはしません。そして「3」の原理は「2」に容易に作り替えられてしまいます。しかし私たちは、「2」の原理だけでは不十分だということを知っています。「2」の原理は確かに力があり、論理的な正しさがあるのですが、人間の心の成り立ちからいって不自然なのです。
「2」と「1」の原理とのあいだに強い緊張関係が生まれている現代において、私たちが立っている「3」の原理を、もっと有効な思考モデルとして鍛え上げていくことは私は可能だと思っています。「三位一体モデル」は、非常に原初的な思考モデルです。しかし、この「3」の原理で世界を再構築していくことが、現代において大きな意味をもってくると私は思っています。
ちょうど1時間になりますので、これで私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。(大きな拍手)
(糸井さん登場。二人で椅子に座り話し合う)
ーーーなにか三位一体モデルを日常生活で意識するのに有効な「コツ」のようなものはありますか?
「言いまつがい」なんていいですよね。言いまつがいは、本質的なことがふっと無意識に出てきてしまうことです。そういう言いまつがいを意識したり、あるいは夢を意識したり。だじゃれ? いいですね。だじゃれとか、散歩してるときにふっとよぎるものとか。そういう無意識のものをイメージとして捉えるといいんじゃないかと思います。
だいたい場違いなものにスピリットはいるんです。お呼びじゃないもの、お呼びじゃないのに出てきちゃったもの、ふと思いついたこと、そういう異物が出てきたときに、それを排除するのではなく、出てきた瞬間に、お、おもしろいと思い、すぐに捕まえるのです。真実は後頭部がはげています。後ろからではつかもうとしても捕まりません。すぐに前に回って、前髪をぎゅっと掴まないといけません。
ーーーこの三位一体の図、これを私たちは家に帰ってから、それぞれ自分のおかれている状況にあてはめて「父」とか「子」とか「聖霊」とかは自分にとってなんなんだろうと考えるとおもうのですが、なにかこのみっつの環が書かれた図の、日常生活でのあてはめかたみたいなものはありますか?
そうですね。「父」は「ことば」や「社会的な法」や「おさえつけるもの」、「子」は「イメージ」「あいまいなもの」、「スピリット」は「およびじゃないもの」「場違いなもの」「揺さぶりかけてくるもの」です。
大学? うーん、現在の大学という組織は、三位一体になっていません。歪んでいます。スピリットがないのです。教師という「父」と生徒という「子」がいるだけで、一方的に情報を伝達するだけで、一番大切なスピリットが抑圧されています。だからつまらないのです。青山分校のように、社会人の、実際に社会に出ているひとたちを相手にしたほうが、はるかに面白いです。
キングコングという映画で三位一体モデルを説明してみましょう。まずキングコングが「聖霊」です。どっちつかずの、わけわからない存在です。そして「子」に相当するのが、恋や美女です。恋というのはイメージがなければできません。美女もプリプリとした存在でなければ映画が成り立ちません。ぺたっとした女性では、聖霊と父との間に立つことができないのです。そして「父」は、都会や映画会社などです。あの映画は都会を舞台としなければ成り立たない映画です。キングコングと美女と都会という存在が三位一体となり、「キングコング」という映画は成り立っているのです。
日常生活でこの三位一体モデルをあてはめようとするとき、一番分かりやすいのは「父」です。その状況で支配的ななにかをあてはめてみればいいのです。
でも私は、三位一体の図をある状況にあてはめるとき、まずスピリットが何なのかから考えます。その場を奥底から動かしているもの、なにか得体の知れないもの、ちょっと普通に考えたのでは捉えられないわけの分からないエネルギーのようなものが大切だと思うからです。
ーーー今日はありがとうございました。また来年、なにか新しい形でイベントをやろうと企画しています。
ありがとうございました。
(大きな拍手、退場)
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ベリ(仮面をはがす音)
というわけで、中沢さんのペルソナをはがして、地の「僕」に戻りました。
ここに長々と書いた文章は、すべて講演の最中にせっせとメモをした言葉を元に再現しています。録音ではありません。なので当然、「中沢さんが話したそのまま」ではありません。なるべく中沢さんが話したことに忠実に書いたつもりだけど、でも、「僕」が書いた文章です。なるべく「僕」は透明になるよう努めたつもりだけど、すべての言葉は「僕」を一度通過したものです。そのことに十分注意してください。
(読みやすくするため勝手に文章を区切り、勝手に章題を付けました。また、最後の糸井さんとの対談部分は、大幅に編集しました。本来は糸井さんと中沢さんが半々でしゃべっておられました。)
というわけで、大きな勘違いや、誤解や、理解不足の箇所もあるかもしれません。しかしながら、そういう「勘違い」や「誤解」にこそスピリットが生き生きと活躍する場があるのだと思い、あえて再現してみたのです。
この講演の模様は「ほぼ日刊イトイ新聞」にも掲載されるそうです。
そちらと合わせて読まれると、どのような「誤解」や「勘違い」があったかが分かっておもしろいかもしれません。
ps.講演はすごくおもしろかった。でも『三位一体モデル』という本は、タモリさんは帯に「おもしろかったわ!」と書いてるけど、ぼくは……。中沢さん自身があとがきに書いているように、「説明不足」の感が否めない。薄くて、すぐ読めるのは事実だけど。
もし中沢さんの本をはじめて読んでみようかなという方がいるならば、僕は『カイエ・ソバージュ』シリーズの第一巻、『人類最古の哲学』(講談社選書メチエ)を強く、強くお勧めする。ほとんど何の前提知識もない学部生を対象にした講義を本にしたもので、話し口調なので臨場感もあり、すごく分かりやすい。ぼくはこの本をきっかけにして中沢新一さんが好きになった。赤鉛筆で線を引いたりページの端を折ったりしながら、ちょっとずつでもいいから読み進めてみたらいいと思う。
投稿者 tsuyoshi : 21:26 | トラックバック
2006年12月12日
感想文を書くことについて
ここにちょくちょく読書感想文のようなものを書いているのは、本を読みっぱなしにしないよう、自分にブレーキをかけるため。
結果的によかった本を紹介するということになるかもしれないけれど、どちらかというと自分のために書いてる。
ほんとうは感想文なんて書かないで、次の本を読んだり、別の映画を観たりしたい。なぜなら感想文に費やす時間が場合によってはその本を読んだ時間より多くなったりして、じれったいのだ。
それでも我慢して感想文を書くのは、そうしないとせっかく読んだすばらしい本が右から左に特急列車のように通り過ぎてしまい、ほとんど何の痕跡も残さないような気がしてしまうから。そういうむなしさは、だらだらテレビを見続けたりネットサーフィンをし続けた後に感じる、なんともいえない嫌な疲労感と似ていると思う。
つたない言葉でもいいから何か書いた方が、そのような嫌な徒労感を感じないですむ気がする。次へ次へと読み飛ばしたい欲求は強く、いつもアクセルは踏み込まれてる気がするけれど、読み終わったときに「なにか書くことがある気がする」と思えた作品は、ブレーキを踏んでなにか書くようにしてる。
読んだ本についてなにか書くことは、読み終わった本をすぐにもう一回読み返すようなもの。大切な言葉が指の間からぽろぽろこぼれ落ちるのがもったいないので、ちょっと立ち止まって、あれこれ書こうとするのだ。
でも、素晴らしい作品であればあるほど、安易に言葉にしたりしないで、ただずっと言葉にならないものを抱えたままでいたいと思ったりもするからやっかいだ。どうやって書いてもその作品の素晴らしさ自体は伝えられない気がするし、何かを書いてしまうことで別の大切な何かを失ってしまうような気がするのだ。
梨木香歩さんの『沼地のある森を抜けて』を読んでから感想を書いた時にそのことを痛感した。あのときに「この本は、「境界を越える」という方向を持った物語なのかもしれない。」と書いたけれど、そう書いてしまうことでこぼれ落ちたものがあまりに多かった気がする。
言葉にしたい、言葉にすることで作品をしっかり繋ぎ止めたいという想いと、言葉にしたくない、言葉にならないものをずっと抱えていたいという想いがいつも拮抗している。とくに小説の場合はそれが顕著で、三崎亜記さんの『バスジャック』については、何時間も感想を書こうとした挙げ句、結局ただ「すごくよかった」というようなことしか書けなかった。これでは何も書いていないに等しいとは分かっているのだけれど。
『ねじまき鳥クロニクル』についても、感想を書こうとしたけれど、結局作品自体には踏み込めずにいつの間にかちょっと別のことを書いていた。本当は「ものすごくよかった」ということを書きたかったのだけど。
小説は、作品の内容に立ち入りたくないという想いがどうしても強くなってしまう。作品を解釈したり評価したりしたくないのだ。「すごくよかった」と書くことすらおこがましいことのような気がしてしまうのだ。(まあそれぐらいは書かせてもらうけれど)
だからどんな作品だったかを書くよりも、読後に自分の内面に起こった余韻や波や反響のようなものを書くのがいいのかもしれないな。その本を読むという体験が自分にとってどのようなものだったかを書けたらいいなと思う。
ps.批判的に書きたくなるような本や映画もちょくちょくあり、でもそのほとんどが書き途中で止めている。批判的に書くことは、よかったと書くよりも遥かに難しいし、労が多いわりに不毛感がつきまとうのだ。わざわざくだらなかったと書いてなんになるという思いと、そんなことを書くお前は誰なんだという思いでストップしてしまう。負の感情は連鎖させない方がいいのかもしれないと思ったりする。時にはきっちりと批判的に書くことも大切なのかもしれないけど。
投稿者 tsuyoshi : 12:38 | トラックバック
2006年12月10日
物語の集中豪雪
ここ5日間ぐらい、すっぽりと『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹(新潮文庫)の物語の中に入り込んでいた。文庫本3冊、計約1200ページの大長編小説を夢中になりかかりっきりで読んでいた。
失業中の「僕」が朝の十時半にスバゲッティーをゆでていたら、聞き覚えのない女から電話がかかってくる。
こんな設定からはじまる物語なのだが、そこから様々な物語が複雑にからみ合っていき、夢も現実も時間も空間も複雑に絡まっていき、巨大な迷宮のようになっていく物語。
無意識の領域に、「闇」の領域に、大量のことばが降り積もったような体験だった。7、8年ぐらい前に一度読んだはずなのだが、真っ暗な井戸の中に座る場面や、壁をすりぬける場面をかすかに覚えていただけで、それ以外はほとんどすべて嘘のように忘れていた。だからはじめて読むかのようにはらはらしながら読めた。怖いぐらい深く潜っていくような物語だった。いまはようやく読み終えちょっとぼーっとしている。
そして、物語の内容とは別に、こんなにたくさんの言葉も時間が経てば忘れていくんだなあというのが、ちょっと驚きでもあった。
たいていの小説はなにかの知識や情報を伝えるものではないから、降り積もった言葉は、春になれば融ける雪のようにどんどん融けて忘れていってしまう。
このごろたくさんの本を読んでいるのだけれど、かなりがんばって読んだ本もどうせそのうち忘れ思い出せなくなるのだと思うと、ときどき読んでいる途中にふと深い徒労感におそわれ、何をやっているんだろう?こんなことをやって何になるのだろう?と思ってしまったりすることがある。そして急に心臓の音がばくばくと聞こえてきたりする。活字がまったく頭に入ってこなくなったりする。
そんなときは走ったり、延々と散歩したり、銭湯にいったり、眠ったりしている。
そして、意識の器はとても小さくすぐにあふれるけれど、それは無意識のプールの水を満たしていくのだというイメージを持つようにしている。そうすると徐々に回復し、不思議とまた読みたくなってくるのだ。
いま僕はちょっと自分でも驚くほど片っ端から本を読み続けている。いい作品を、とにかく大量に読みたいと思い続けている。ことばを豪雪のように自分の中に降らせたいのだ。あまり解釈も判断もせず、いま自分に切実に必要だと思われる物語を、片っ端から集中豪雪のように降らせたいのだ。
こんな極端にバランスの悪い生活がいつまでも続くとは思っていないけれど、いまは多少のバランスを犠牲にしてでももっと本を読みたい。いい本をたくさん読みたい。きっとそのうちもうちょっと節度ある距離を保って本を読めるようになると思うけれど(そうじゃなくちゃ困る。あるいは時期が来たらぱたりと読むのを止めるかもしれない)、いまは伸び盛りの子どもがご飯をばくばく食べるように本を読んでる。ブログに感想を書いているのは読んだ本の一部だけで、次の本にとりかかるまえに区切りをはっきりさせたいなと思ったときに、句読点を打つ感じで書いている。
読みたい本はパニックになるぐらいたくさん机の上に並んでいるので、最近は本屋に行くのを自制するようにしている。行けば必ず、運命の恋人に出会うように「これは絶対読みたい」という本に同時に二冊も三冊も出会ってしまい、買わずにはいられなくなり、とてもじゃないが読むのが追いつかないのだ。この津波のような読書欲がぼくをどこへ連れて行くのかは知らないけれど、浮き沈みの激しい、大冒険の、すばらしい日々ではある。
投稿者 tsuyoshi : 07:01 | コメント (2) | トラックバック
2006年12月05日
『個人的な体験』
『個人的な体験』大江健三郎(新潮文庫)を読んだ。
27歳の、アフリカへの冒険旅行を夢見ていた主人公が、頭部に異常のある新生児が産まれてきたと知り絶望し、我が子の死を願いながらかつての女との快楽に溺れ、職を失い、人間の弱さを剥き出しにしながら背徳の日々を送り、そして最後に旅を諦め運命を受け入れていく物語。ノーベル文学賞作家大江さんの代表作。
大江さん独特の、細かく執拗な描写が続き、正直読むのにくたびれた。
非常に重いテーマだから、こちらもめいっぱい気を張らなくてはいけなく、とても負荷の大きい本なのだ。最初の50ページぐらいを読んだときに、あんまりくたびれるから投げ出そうかと真剣に思った。でも、実は先日同じく大江さんの『われらの時代』を最初の30ページで投げ出しており、二度投げ出すのはくやしいので、かなり意地になって読み進め、読了した。
だから感想うんぬんよりも、読み終えたことでほっとしているのが正直なところ。
濃密に描き込まれた絶望の日々を読みすすめることは、その絶望を追体験することでもある。だから、読みはじめてしばらくしてから、ああこんな本読み始めるんじゃなかったと思い、でもムキになって読み進め、読み終えたときは深い水をくぐってようやく水面に出れたような気になれた。
読みながら、開高健の『夏の闇』を思い出していた。
『夏の闇』では、ベトナム戦争で九死に一生を得た主人公が、ヨーロッパのある都市でかつての女と再会し、惰眠と快楽の絶望的な日々を送り、やがてまたベトナムの戦場へ向かうことで再生を予感させて終わる。こちらも、主人公はかなり開高健自身と重なる。両方とも泥沼のような絶望に沈んでいき、最後に底を蹴って浮上するような物語だ。(両方とも改行が少ない黒々としたページなのだが、開高さんの文は苦もなく読める。きっと文体やリズムが自分と合うかどうかは、生理的なものがおおきいのだと思う。)
違いは、最後の再生の仕方だ。
『個人的な体験』では、アフリカ行きを諦め、我が子の父親になるという覚悟で終わる。『夏の闇』では、再びベトナムの戦場へ行くことで嫌悪と倦怠の日々から脱出する。
「ここにい続ける」か「あそこへ行く」かという場所の違いがある。
でも、やはり同じ物語だなと思う。
欺瞞に欺瞞を重ね、性の快楽へ逃げ込みながら絶望し、最終的にトンネルを抜け、一番負荷のある、本当ははじめから分かっていた、それしかない解決策へ立ち返る物語だ。負荷のある人生を受け入れていく物語とも言えるかもしれない。
『個人的な体験』は1964年、『夏の闇』は1972年に書かれている。
これを読んで、もしかしたら現代の多くの人の抱える焦燥と閉塞は、負荷の少なさそのものの中にあるのかもしれないと思った。
劇的なことがなにも起こらない日常の中で、あるいは思考停止せざるをえないような忙しさの中で、それでも何かに追いつめられていくようなおそろしさ。このままでは姿の見えない何かに追いつめられ狭い場所に押し込まれてしまうのではないかという、捉えどころのないおそろしさ。そのような得体の知れなさは、『個人的な体験』や『夏の闇』が書かれた時代と比べ、いよいよ強まっている気がする。
姿が見えるのならば、やはり若者は今だって全力で戦うのだと思う。でも一体何に対してシュプレヒコールをあげ、どんな言葉をプラカードに書けばいいのかまるで分からないから困るのだ。自転車を必死で漕いでもタイヤが地面と接触せずに空回りするばかりだから、ばかばかしくて漕ぐのを辞めてしまうようなものだろう。
全身を賭して取り組むべき本質的ななにかが見当たらずに繰り返される日常の中の、徐々に募る焦燥感と閉塞感。そういう日常を直視した上で、一人称の「僕、私」が引き受けていく物語とはなんなのだろう。きっと、それでもとにかく思考停止だけはせず、全力でジタバタし続け、ぎりぎりでバランスを保ち、その運動の軌跡の中から見つけ出していくしかないのだろうな。
投稿者 tsuyoshi : 20:31 | コメント (4) | トラックバック
2006年12月03日
『バスジャック』
三崎亜記さんの短篇集『バスジャック』(集英社)を読んだ。
デビュー作の『となり町戦争』もそうだったけれど、シュールなのにそこはかとないユーモアに満ちていて、ありえない設定なのに奇妙な説得力がある、すばらしい作品だった。七つの短篇がおさめられていて、どれもそれぞれよかったけれど、その中でも特に「二人の記憶」「動物園」「送りの夏」の三篇は、ずーっと余韻が残るほどすばらしかった。これから彼の出す本は全部読んでいきたいなと思った。
いい小説を読んだときの常で、内容に立ち入った具体的な感想は書けそうにない。
ただただじわっとした共感があるばかりなのだ。
読み終わった人と、どれが一番面白かったか話し合いたくなるような短篇集だった。
どの物語も、読む人によって感じ方がいろいろだろうなと思えるものばかりなのだ。
そして、なにを感じたかなどを語り合えたら、きっとすごく楽しいだろうなと思った。
