2006年12月05日
『個人的な体験』
『個人的な体験』大江健三郎(新潮文庫)を読んだ。
27歳の、アフリカへの冒険旅行を夢見ていた主人公が、頭部に異常のある新生児が産まれてきたと知り絶望し、我が子の死を願いながらかつての女との快楽に溺れ、職を失い、人間の弱さを剥き出しにしながら背徳の日々を送り、そして最後に旅を諦め運命を受け入れていく物語。ノーベル文学賞作家大江さんの代表作。
大江さん独特の、細かく執拗な描写が続き、正直読むのにくたびれた。
非常に重いテーマだから、こちらもめいっぱい気を張らなくてはいけなく、とても負荷の大きい本なのだ。最初の50ページぐらいを読んだときに、あんまりくたびれるから投げ出そうかと真剣に思った。でも、実は先日同じく大江さんの『われらの時代』を最初の30ページで投げ出しており、二度投げ出すのはくやしいので、かなり意地になって読み進め、読了した。
だから感想うんぬんよりも、読み終えたことでほっとしているのが正直なところ。
濃密に描き込まれた絶望の日々を読みすすめることは、その絶望を追体験することでもある。だから、読みはじめてしばらくしてから、ああこんな本読み始めるんじゃなかったと思い、でもムキになって読み進め、読み終えたときは深い水をくぐってようやく水面に出れたような気になれた。
読みながら、開高健の『夏の闇』を思い出していた。
『夏の闇』では、ベトナム戦争で九死に一生を得た主人公が、ヨーロッパのある都市でかつての女と再会し、惰眠と快楽の絶望的な日々を送り、やがてまたベトナムの戦場へ向かうことで再生を予感させて終わる。こちらも、主人公はかなり開高健自身と重なる。両方とも泥沼のような絶望に沈んでいき、最後に底を蹴って浮上するような物語だ。(両方とも改行が少ない黒々としたページなのだが、開高さんの文は苦もなく読める。きっと文体やリズムが自分と合うかどうかは、生理的なものがおおきいのだと思う。)
違いは、最後の再生の仕方だ。
『個人的な体験』では、アフリカ行きを諦め、我が子の父親になるという覚悟で終わる。『夏の闇』では、再びベトナムの戦場へ行くことで嫌悪と倦怠の日々から脱出する。
「ここにい続ける」か「あそこへ行く」かという場所の違いがある。
でも、やはり同じ物語だなと思う。
欺瞞に欺瞞を重ね、性の快楽へ逃げ込みながら絶望し、最終的にトンネルを抜け、一番負荷のある、本当ははじめから分かっていた、それしかない解決策へ立ち返る物語だ。負荷のある人生を受け入れていく物語とも言えるかもしれない。
『個人的な体験』は1964年、『夏の闇』は1972年に書かれている。
これを読んで、もしかしたら現代の多くの人の抱える焦燥と閉塞は、負荷の少なさそのものの中にあるのかもしれないと思った。
劇的なことがなにも起こらない日常の中で、あるいは思考停止せざるをえないような忙しさの中で、それでも何かに追いつめられていくようなおそろしさ。このままでは姿の見えない何かに追いつめられ狭い場所に押し込まれてしまうのではないかという、捉えどころのないおそろしさ。そのような得体の知れなさは、『個人的な体験』や『夏の闇』が書かれた時代と比べ、いよいよ強まっている気がする。
姿が見えるのならば、やはり若者は今だって全力で戦うのだと思う。でも一体何に対してシュプレヒコールをあげ、どんな言葉をプラカードに書けばいいのかまるで分からないから困るのだ。自転車を必死で漕いでもタイヤが地面と接触せずに空回りするばかりだから、ばかばかしくて漕ぐのを辞めてしまうようなものだろう。
全身を賭して取り組むべき本質的ななにかが見当たらずに繰り返される日常の中の、徐々に募る焦燥感と閉塞感。そういう日常を直視した上で、一人称の「僕、私」が引き受けていく物語とはなんなのだろう。きっと、それでもとにかく思考停止だけはせず、全力でジタバタし続け、ぎりぎりでバランスを保ち、その運動の軌跡の中から見つけ出していくしかないのだろうな。
投稿者 tsuyoshi : 2006年12月05日 20:31
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コメント
大江健三郎の「個人的な体験」は20歳の頃読みました。4年前か。それから安部公房、三島由紀夫と、はまっていきましたね。
戦中に生まれ、戦後作家と言われ,高度成長期の日本を肌で感じてきた彼らの作品には泥臭さと人間臭さを感じます。
村上春樹、吉本ばななを始めとした現代の作家さんの作品からは感じ取ることのできない。
焦燥感ともどかしさ。
大江健三郎さんの作品は解読が困難という定評はつき物ですが、これからも読んでいってみてください。
大江健三郎と、村上春樹、川端康成の三者の作品を交互に読んでいると現代に生まれて幸せだと感じますよ。少なくとも私は。
投稿者 bun : 2006年12月20日 22:53
bunさんこんばんは。コメントありがとうございます。
大江、安部、三島、川端、(ついでに漱石、鴎外、谷崎も)みんなちょっとずつ読んだことあるけれど、もう一つバットの芯に当たりません。まだ本当の意味では出会えていない感じです。とてもすばらしい作品なんだけど、まだ、個人的にほんとうに切実な場所に届いてくる感じではないです。大江さんの小説は、なんか苦い薬をちょっと無理して飲んでるような感じかな?
僕は、現役で書いていて、主要な作品をだいたいぜんぶよんでいる作家に対して、同時代を一緒に走っているような感覚を味わえるので、この時代に生まれてよかったなあと思ったりします。新作が出るのを待ちわびる作家がいるってすごく嬉しいです。そういう作家はいまのところ村上さん、梨木さんぐらいかな?
他にも数人、同時代を一緒に走りたいなと思ってる作家はいるけれど、追いつくのがたいへんです。(大江さんはたくさんありすぎて途方に暮れます。)
古典的な名作は、いまはなぜか海外のを読んでみたい気持ちです。(ガルシア=マルケス、ブローティガン、カミュ、ドストエフスキーなどなど)それから、以前読んだ作品をもう一度読むのが、かつての自分と比べられてとても楽しいです。
読書っていろいろな楽しみ方がありますね。
ではでは。
投稿者 tsuyoshi : 2006年12月21日 01:32
お返事ありがとうございます。
私は現代の作家さんで新作を待ち望むような人は今のところ見つけられません。そういう意味では羨ましいと思います。
これからも読書の感想文載せてくださいね。楽しみにしています。
投稿者 bun : 2006年12月23日 19:23
僕はわりと雑食で、古典からベストセラー新書まで、だいたいなんでも読んでます。読みたい本はたくさんあるけれど、その中から、その時の自分の心をのぞきこむようにして、これ!と決めて読んでます。でも、これ!と決めて読んでいるときに限って、他のが魅力的に思えたりして、かなりしばしば浮気し、何冊も並行してよむ状態になってしまい、すごく困ります。自業自得なんだけど…。
古典的な作品は読むのがしんどいので、エネルギーが溜まったときに、えい!と気合いを入れて読んでます。
現役で、とくにまだ数作しか出してない作家は、玉石混淆だけど、自分で発見していくようなよろこびがあって楽しいです。(最近『ウェブ人間論』(新潮新書)をよみました。『ウェブ進化論』の梅田さんと作家の平野啓一郎さんの対談で面白かったです。それで平野さんの本を読んでみようかなと思い、『高瀬川』(講談社文庫)を買いました。まだ読んでないけどなにやら官能的な本のようで楽しみです。)
ではでは。
投稿者 tsuyoshi : 2006年12月24日 21:40
