2006年12月10日
物語の集中豪雪
ここ5日間ぐらい、すっぽりと『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹(新潮文庫)の物語の中に入り込んでいた。文庫本3冊、計約1200ページの大長編小説を夢中になりかかりっきりで読んでいた。
失業中の「僕」が朝の十時半にスバゲッティーをゆでていたら、聞き覚えのない女から電話がかかってくる。
こんな設定からはじまる物語なのだが、そこから様々な物語が複雑にからみ合っていき、夢も現実も時間も空間も複雑に絡まっていき、巨大な迷宮のようになっていく物語。
無意識の領域に、「闇」の領域に、大量のことばが降り積もったような体験だった。7、8年ぐらい前に一度読んだはずなのだが、真っ暗な井戸の中に座る場面や、壁をすりぬける場面をかすかに覚えていただけで、それ以外はほとんどすべて嘘のように忘れていた。だからはじめて読むかのようにはらはらしながら読めた。怖いぐらい深く潜っていくような物語だった。いまはようやく読み終えちょっとぼーっとしている。
そして、物語の内容とは別に、こんなにたくさんの言葉も時間が経てば忘れていくんだなあというのが、ちょっと驚きでもあった。
たいていの小説はなにかの知識や情報を伝えるものではないから、降り積もった言葉は、春になれば融ける雪のようにどんどん融けて忘れていってしまう。
このごろたくさんの本を読んでいるのだけれど、かなりがんばって読んだ本もどうせそのうち忘れ思い出せなくなるのだと思うと、ときどき読んでいる途中にふと深い徒労感におそわれ、何をやっているんだろう?こんなことをやって何になるのだろう?と思ってしまったりすることがある。そして急に心臓の音がばくばくと聞こえてきたりする。活字がまったく頭に入ってこなくなったりする。
そんなときは走ったり、延々と散歩したり、銭湯にいったり、眠ったりしている。
そして、意識の器はとても小さくすぐにあふれるけれど、それは無意識のプールの水を満たしていくのだというイメージを持つようにしている。そうすると徐々に回復し、不思議とまた読みたくなってくるのだ。
いま僕はちょっと自分でも驚くほど片っ端から本を読み続けている。いい作品を、とにかく大量に読みたいと思い続けている。ことばを豪雪のように自分の中に降らせたいのだ。あまり解釈も判断もせず、いま自分に切実に必要だと思われる物語を、片っ端から集中豪雪のように降らせたいのだ。
こんな極端にバランスの悪い生活がいつまでも続くとは思っていないけれど、いまは多少のバランスを犠牲にしてでももっと本を読みたい。いい本をたくさん読みたい。きっとそのうちもうちょっと節度ある距離を保って本を読めるようになると思うけれど(そうじゃなくちゃ困る。あるいは時期が来たらぱたりと読むのを止めるかもしれない)、いまは伸び盛りの子どもがご飯をばくばく食べるように本を読んでる。ブログに感想を書いているのは読んだ本の一部だけで、次の本にとりかかるまえに区切りをはっきりさせたいなと思ったときに、句読点を打つ感じで書いている。
読みたい本はパニックになるぐらいたくさん机の上に並んでいるので、最近は本屋に行くのを自制するようにしている。行けば必ず、運命の恋人に出会うように「これは絶対読みたい」という本に同時に二冊も三冊も出会ってしまい、買わずにはいられなくなり、とてもじゃないが読むのが追いつかないのだ。この津波のような読書欲がぼくをどこへ連れて行くのかは知らないけれど、浮き沈みの激しい、大冒険の、すばらしい日々ではある。
投稿者 tsuyoshi : 2006年12月10日 07:01
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コメント
ねじまき鳥クロニクル、私も大学3年か4年の時に読んで以来読んでいなくて、面白い!と思ってはまったことは覚えているけど、内容は全然忘れていることに気づきました…
スパゲッティをゆでているときに電話がかかってくる?
そんなこと全く覚えていません(^^;
井戸の底が境界線になっていたことだけは、
同じく記憶にあるんですが。
久しぶりに読みたいけど、図書館で借りて読んだから手元にないっ!
投稿者 のぞみ : 2006年12月18日 20:37
ねじまき鳥クロニクルは、内容を忘れやすい小説なのかもしれないね。どんどん無意識の闇に溶けていってしまう話なのかもしれない。村上さんの小説はどれも、消化吸収に優れ、無意識の領域を豊かにしてくれる感じがする。でも最後に残ってたのが同じく井戸というのは不思議だね。
再読って、あのころの自分との変化が感じられて楽しいよ。
ねじまき鳥クロニクルは、初めて読んだとき以上によかったと感じられたので、ちょっと嬉しかったです。
投稿者 tsuyoshi : 2006年12月19日 20:31
