2006年12月12日
感想文を書くことについて
ここにちょくちょく読書感想文のようなものを書いているのは、本を読みっぱなしにしないよう、自分にブレーキをかけるため。
結果的によかった本を紹介するということになるかもしれないけれど、どちらかというと自分のために書いてる。
ほんとうは感想文なんて書かないで、次の本を読んだり、別の映画を観たりしたい。なぜなら感想文に費やす時間が場合によってはその本を読んだ時間より多くなったりして、じれったいのだ。
それでも我慢して感想文を書くのは、そうしないとせっかく読んだすばらしい本が右から左に特急列車のように通り過ぎてしまい、ほとんど何の痕跡も残さないような気がしてしまうから。そういうむなしさは、だらだらテレビを見続けたりネットサーフィンをし続けた後に感じる、なんともいえない嫌な疲労感と似ていると思う。
つたない言葉でもいいから何か書いた方が、そのような嫌な徒労感を感じないですむ気がする。次へ次へと読み飛ばしたい欲求は強く、いつもアクセルは踏み込まれてる気がするけれど、読み終わったときに「なにか書くことがある気がする」と思えた作品は、ブレーキを踏んでなにか書くようにしてる。
読んだ本についてなにか書くことは、読み終わった本をすぐにもう一回読み返すようなもの。大切な言葉が指の間からぽろぽろこぼれ落ちるのがもったいないので、ちょっと立ち止まって、あれこれ書こうとするのだ。
でも、素晴らしい作品であればあるほど、安易に言葉にしたりしないで、ただずっと言葉にならないものを抱えたままでいたいと思ったりもするからやっかいだ。どうやって書いてもその作品の素晴らしさ自体は伝えられない気がするし、何かを書いてしまうことで別の大切な何かを失ってしまうような気がするのだ。
梨木香歩さんの『沼地のある森を抜けて』を読んでから感想を書いた時にそのことを痛感した。あのときに「この本は、「境界を越える」という方向を持った物語なのかもしれない。」と書いたけれど、そう書いてしまうことでこぼれ落ちたものがあまりに多かった気がする。
言葉にしたい、言葉にすることで作品をしっかり繋ぎ止めたいという想いと、言葉にしたくない、言葉にならないものをずっと抱えていたいという想いがいつも拮抗している。とくに小説の場合はそれが顕著で、三崎亜記さんの『バスジャック』については、何時間も感想を書こうとした挙げ句、結局ただ「すごくよかった」というようなことしか書けなかった。これでは何も書いていないに等しいとは分かっているのだけれど。
『ねじまき鳥クロニクル』についても、感想を書こうとしたけれど、結局作品自体には踏み込めずにいつの間にかちょっと別のことを書いていた。本当は「ものすごくよかった」ということを書きたかったのだけど。
小説は、作品の内容に立ち入りたくないという想いがどうしても強くなってしまう。作品を解釈したり評価したりしたくないのだ。「すごくよかった」と書くことすらおこがましいことのような気がしてしまうのだ。(まあそれぐらいは書かせてもらうけれど)
だからどんな作品だったかを書くよりも、読後に自分の内面に起こった余韻や波や反響のようなものを書くのがいいのかもしれないな。その本を読むという体験が自分にとってどのようなものだったかを書けたらいいなと思う。
ps.批判的に書きたくなるような本や映画もちょくちょくあり、でもそのほとんどが書き途中で止めている。批判的に書くことは、よかったと書くよりも遥かに難しいし、労が多いわりに不毛感がつきまとうのだ。わざわざくだらなかったと書いてなんになるという思いと、そんなことを書くお前は誰なんだという思いでストップしてしまう。負の感情は連鎖させない方がいいのかもしれないと思ったりする。時にはきっちりと批判的に書くことも大切なのかもしれないけど。
投稿者 tsuyoshi : 2006年12月12日 12:38
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