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2006年12月13日
芸術人類学研究所 青山分校! 神田出張所
今日、お茶の水にある明治大学の大教室で、「芸術人類学研究所 青山分校! 神田出張所」という中沢新一さんの講演を聴いてきた。
この講演は、「ほぼ日刊イトイ新聞」が主催したもので、東京のいくつかの書店で「三位一体モデル」という本を買った人がチケットをもらえるというもの。
僕はそのチケットが欲しくていそいそと新宿の紀伊国屋書店に行ったのだけど、もうチケットはなくなってて、がっくりしながら本だけ買って帰った。そのことをある日友人に言うと、友人が同じ本を買ってて、チケットも持ってて、自慢された。でも都合のいいことに友人はその日出張で行けないことになり、ありがたくチケットを受け取り行ってきたのだ。持つべきは出張の多い仕事をしている友人だ。
でも、「後でどんな講演だったか説明するように」と厳しく言われチケットを受け取ったので、以下復習の意味を込めて、その講演内容を思い出せるかぎり書いていこうと思う。まだ印象が鮮明なうちに、知的興奮がさめやらぬホカホカなうちに、一気に書こうと思う。
でもただ書くのではおもしろくないので、メモを元にして、中沢新一さんのペルソナ(仮面)をかぶって、中沢さんの話し口調で書いてみることにする。
というわけで、中沢新一先生の登場です。ペタ(仮面を装着する音)
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(大きな拍手)
こんにちは、中沢新一です。
今日はお集りいただきありがとうございます。
今日は僕がずーっと考えてきた、「三位一体モデル」について話そうと思います。
「3」という数字に興味を持ちはじめたのは、1980年代後半ぐらいからです。ある雑誌に記事を書くためスペインのバルセロナに行ったときに、多くのとても面白い人たちと話しました。市井の人や知識人たちだったりするのですが、バルセロナのいろいろな人たちと話していると、みんな、バルセロナという町を表現するときに「3」という数字をとても熱を込めて語っているのに気がついたのです。
バルセロナは、自由や芸術を大切にし、スペイン市民戦争のときはファシズムの支配に対抗した町です。そういう町が大切にする「3」という数字は、なにかそこに、生命の原理を表せるものを秘めているのではないかと思いました。
「3」の原理は、自由、生命力、よろこびなどに親和性があります。
一方で、現在世界で覇権を握りつつあるのは「2」の原理です。「2」の原理は、支配、管理、情報化に親和性があります。コンピューターを想像していただけると分かりやすいのですが、あれはすべてのものを「0と1」という二つの数字で表そうとする道具です。「2」の原理では、あらゆるものが計量化、数値化できるものに変わり、そしていったん数値化されるとすぐに「お金」に変換され、そして「商品」になります。「2」の原理は、あらゆるものを「商品」にしていく原理で、資本主義を加速させる原理でもあり、支配力があり、現代社会では圧倒的なパワーを持っています。
そういう「2」の原理に常に対抗しているのが「3」の原理です。「3」という数字は常に「2」と戦い続けています。「2」の原理は自由や生きる喜びのようなものを抑圧しているからです。「3」の原理は、生きる喜びや、生命の自然に即した原理は「3」なのだと主張するのです。「3」の原理は、自然に湧きあがる生命力や、地中から吹き上がる風のようなものを大切にする考え方でもあります。
このバルセロナでの体験を元にして「秘数3」という文章を書いたのですが、まだ不十分でした。
・二つの「三位一体モデル」
次に「3」という数字を強く意識したのはモスクワでした。そのころのモスクワは「ジーパン」や「コカコーラ」を旗印にして、西洋資本主義が入ってきていた時代なのですが、それは言い換えれば「2」の原理が入ってきた時代もありました。ちょうど東ヨーロッパに西ヨーロッパの考えが入り込んでいく時代だったのです。そしてそのことにロシアの人々は魅了されつつも不安を覚え、なかには反対するひともいました。
ロシアは、ロシア正教という古ーいキリスト教の流れの伝統がある国です。同じキリスト教でも、西ヨーロッパのカソリックと東ヨーロッパのロシア正教では、大きな違いがあります。そしてその違いは、「三位一体」に対する理解の仕方にあります。
「三位一体」とは神の三つのペルソナ、父、子、聖霊(スピリット)が、三つ巴の環になった図で説明されるのですが、この聖霊(スピリット)の扱いが、西ヨーロッパと東ヨーロッパでは違うのです。
東ヨーロッパでは、聖霊(スピリット)の力は、「外から吹き出してくる力」として認識されています。人間の世界の「外」から、大地の奥底から、宇宙の根源から、人間が認識できない領域から、目に見えないエネルギーとして、「吹き出してくる」のです。だから、東ヨーロッパでは、三位一体モデルにおける父、子、聖霊は、「同格」なのです。
一方西ヨーロッパでは、同じ三位一体モデルでも、聖霊の扱いが違うのです。この分裂は、325年の二ケア公会議から明確になっていったのですが、西ヨーロッパでは聖霊の力は、人間の理解できる「内部」から、父と子から、「流れ出てくる」と捉えているのです。つまり、聖霊を父と子の「中」にセットし、聖霊を抑圧してしまい、聖霊を父と子に従属させてしまったのです。だから、父と子と聖霊は同格ではなく、三位一体モデルも歪んだものになっているのです。
そして、資本主義は、西ヨーロッパのこの歪んだ三位一体モデルから起こりました。この三位一体モデルは、一見「3」の原理のようで、実は「2」の原理でできています。外からわき出す聖霊の力を抑圧することで、「3」を「2」に変えてしまったのです。そしてそこから、経済合理性が生まれ、資本主義という形に発展し、いまや世界を覆い尽くそうとしています。つまり資本主義は、三位一体モデルを喰い破るように出てきた鬼っ子のようなもので、その「2」の原理の鬼っ子が、いまや世界を圧倒的に支配しつつあるのです。
・心の本質、流動的知性
この三位一体モデルは、なにもキリスト教だけの専売特許ではありません。日本の奈良にある三輪神社なども、この三つの輪が重なった図をシンボルマークとしています。むかしの日本人は、心の奥底でこの「3」の原理をよく理解していたのだと思います。
人類の歴史はおよそ200〜300万年あります。しかし、現在の私たちと同じ脳の構造をもつ現生人類ホモサピエンスの歴史は9〜10万年ほどで、それほど長いわけではありません。
約10万年まえに現生人類の脳に革命的な構造的変化が起こりました。脳の中に「流動的知性」が発生したのです。このことについては、『カイエ・ソバージュ』という本でくりかえし述べたので、よろしければそちらを読んでいただけたらと思います。
流動的知性とは、領域を横断する知性です。それまでの人類は、脳の中で、領域ごとに別々に思考していました。比喩のような、領域を横断する知性はありませんでした。しかし現生人類はどういうわけか、領域を横断する知性を持ちました。そしてこの流動的知性が発生することにより、現生人類に「心」が発生しました。そして同時に心の中に、心を越えたものも発生しました。
私たちの中にあるこの流動的知性は、常に動いていて捉えることができません。流動的知性は、思考することでは理解できません。人間は動いているものをピンで止めるようにしてしか理解することができないのですが、流動的知性は、決してピンで止めることはできないのです。
つまり人間の心は、非常に不思議な成り立ちをしていることになります。人間の心は流動的知性がないと発生しないのに、流動的知性自体は、人間の心ではとらえられないのです。
このことが何を意味するかというと、人間は常に心の中に「過剰」を抱えているということです。あふれかえるような過剰な力が、流動的知性の働きにより湧き出てくるのです。その過剰な力をどうにか捉えようとし、芸術や宗教が生まれました。
・流動的知性、イメージ、言葉
この流動的知性が、人間の知性のおおもとを形作っています。人間の心の本質の部分には、この、どこにも所属しない、あらゆる領域を横断する、色も形もない流動的知性があるのです。
このように流動的知性は、人間の知覚ではとらえることができないのですが、それをどうにか捉えようとし、人間はまずそれに色と形を与えた「イメージ」の力を発展させました。この「イメージ」は、夢を思い浮かべていただくと分かりやすいのですが、不確かで、あいまいで、移ろいやすいものです。
そして次に人間は「言葉」を使い、できるだけ矛盾のない形で世界を表そうとしました。言葉ですべてを矛盾なく表せるわけではないのですが、できるだけ合理的に、イメージを言葉に移し替えて世界を理解しようとしたのです。
このように、人間の知性は、おおもとに「流動的知性」があり、この流動的知性は、通常の思考の「外」にある、とらえられないものです。そしてその「外」と「言葉」とをつなぐ通路として「イメージ」があります。「イメージ」は曖昧で揺れ動くものですが、どうにか知覚できます。その「イメージ」を「言葉」できっちりとピンで止めるようにして、人間は世界を認識しようとするのです。
この「流動的知性」「イメージ」「言葉」の三位一体モデルはそれぞれ、「聖霊」「子」「父」に相当します。だから、人間の心の全体性を見失わないためには、「3」を意識することが大切なのです。
しかし、この「3」の原理は、すぐに「2」へと作り替えられてしまいます。流動的知性が抑圧され、カットされることで、「3」は「2」へと容易に作り替えられてしまうのです。
今日、グローバリズムが問題にされているのですが、グローバリズムは長い歴史の結果として現れてきた現象で、現代に特有の問題というわけではありません。今日グローバリズムがこれほど問題になるのは、「2」の原理が世界的に覇権を持とうとしているからです。流動的知性が抑圧され、「2」の原理が世界を覆い尽くそうとしている現代において、人間の心の全体性を失わないためには「3」の原理を意識することが大切なのです。
・「1」の原理、「2」の原理、「3」の原理
ここで、いままで触れていなかったもう一つの原理に少しだけ触れます。それは「1」の原理です。「1」の原理は、流動的知性にのみ焦点を合わせた原理で、言うまでもなく一神教の原理です。ユダヤ教、イスラームの神は、唯一絶対で、色も形もない、全能の存在です。(この「1」の原理については今月号の群像に「映画としての宗教」という題で書いたのでよかったら読んでください)
つまり、現代には、「1」の原理、「2」の原理、「3」の原理と、三つの原理があるのです。
「1」の原理は、ユダヤ教、イスラム教の、一神教の原理です。
「2」の原理は、情報化、商品化にすぐれ、資本主義を押し進める原理です。論理的で合理的な原理です。
そして「3」の原理は、人間の心の成り立ち方にごく自然によりそった原理です。「ごく自然に」というところが重要です。人間の心は、不合理で、パラドックスに満ちていて、多くの矛盾をはらんでいます。しかし、そういう不合理なものに自然によりそい、内側に不合理なもの、矛盾しているものをセットした思考モデルが「3」の原理なのです。そしてこの心の成り立ちに忠実な「3」の原理は、無理なく人間が幸福に近づける思考モデルになるうるのではないかと思っています。
・現代における「3」の原理の役割
ご承知のように、現代では「2」が優勢です。そして「1」が強烈に反発して、世界に大きな緊張関係が生まれています。「1」の人たちは、「2」のやり方では人間は幸福になれないと思っています。
日本という国は、古来より「3」の原理で成り立ってきた国です。多神教の宗教である神道は、スピリットたちが活躍し、流動的知性が内部にセットされた「3」の原理で成り立っている宗教です。
ここで注意していただきたいのは「3」と「1」の類似性です。
流動的知性をおおもとにするという心の本質にたいする共通認識は「1」も「3」も同じなのです。両者とも、人間の「外」から無限にあふれかえってくるものを心の本質としてセットしているのです。だから、「1」の原理も、人間が幸福になれる思考モデルとして、十分ありだと私は思います。
しかしながら、私たちがとっている「3」の原理は、それを「1」に還元しようとはしません。そして「3」の原理は「2」に容易に作り替えられてしまいます。しかし私たちは、「2」の原理だけでは不十分だということを知っています。「2」の原理は確かに力があり、論理的な正しさがあるのですが、人間の心の成り立ちからいって不自然なのです。
「2」と「1」の原理とのあいだに強い緊張関係が生まれている現代において、私たちが立っている「3」の原理を、もっと有効な思考モデルとして鍛え上げていくことは私は可能だと思っています。「三位一体モデル」は、非常に原初的な思考モデルです。しかし、この「3」の原理で世界を再構築していくことが、現代において大きな意味をもってくると私は思っています。
ちょうど1時間になりますので、これで私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。(大きな拍手)
(糸井さん登場。二人で椅子に座り話し合う)
ーーーなにか三位一体モデルを日常生活で意識するのに有効な「コツ」のようなものはありますか?
「言いまつがい」なんていいですよね。言いまつがいは、本質的なことがふっと無意識に出てきてしまうことです。そういう言いまつがいを意識したり、あるいは夢を意識したり。だじゃれ? いいですね。だじゃれとか、散歩してるときにふっとよぎるものとか。そういう無意識のものをイメージとして捉えるといいんじゃないかと思います。
だいたい場違いなものにスピリットはいるんです。お呼びじゃないもの、お呼びじゃないのに出てきちゃったもの、ふと思いついたこと、そういう異物が出てきたときに、それを排除するのではなく、出てきた瞬間に、お、おもしろいと思い、すぐに捕まえるのです。真実は後頭部がはげています。後ろからではつかもうとしても捕まりません。すぐに前に回って、前髪をぎゅっと掴まないといけません。
ーーーこの三位一体の図、これを私たちは家に帰ってから、それぞれ自分のおかれている状況にあてはめて「父」とか「子」とか「聖霊」とかは自分にとってなんなんだろうと考えるとおもうのですが、なにかこのみっつの環が書かれた図の、日常生活でのあてはめかたみたいなものはありますか?
そうですね。「父」は「ことば」や「社会的な法」や「おさえつけるもの」、「子」は「イメージ」「あいまいなもの」、「スピリット」は「およびじゃないもの」「場違いなもの」「揺さぶりかけてくるもの」です。
大学? うーん、現在の大学という組織は、三位一体になっていません。歪んでいます。スピリットがないのです。教師という「父」と生徒という「子」がいるだけで、一方的に情報を伝達するだけで、一番大切なスピリットが抑圧されています。だからつまらないのです。青山分校のように、社会人の、実際に社会に出ているひとたちを相手にしたほうが、はるかに面白いです。
キングコングという映画で三位一体モデルを説明してみましょう。まずキングコングが「聖霊」です。どっちつかずの、わけわからない存在です。そして「子」に相当するのが、恋や美女です。恋というのはイメージがなければできません。美女もプリプリとした存在でなければ映画が成り立ちません。ぺたっとした女性では、聖霊と父との間に立つことができないのです。そして「父」は、都会や映画会社などです。あの映画は都会を舞台としなければ成り立たない映画です。キングコングと美女と都会という存在が三位一体となり、「キングコング」という映画は成り立っているのです。
日常生活でこの三位一体モデルをあてはめようとするとき、一番分かりやすいのは「父」です。その状況で支配的ななにかをあてはめてみればいいのです。
でも私は、三位一体の図をある状況にあてはめるとき、まずスピリットが何なのかから考えます。その場を奥底から動かしているもの、なにか得体の知れないもの、ちょっと普通に考えたのでは捉えられないわけの分からないエネルギーのようなものが大切だと思うからです。
ーーー今日はありがとうございました。また来年、なにか新しい形でイベントをやろうと企画しています。
ありがとうございました。
(大きな拍手、退場)
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ベリ(仮面をはがす音)
というわけで、中沢さんのペルソナをはがして、地の「僕」に戻りました。
ここに長々と書いた文章は、すべて講演の最中にせっせとメモをした言葉を元に再現しています。録音ではありません。なので当然、「中沢さんが話したそのまま」ではありません。なるべく中沢さんが話したことに忠実に書いたつもりだけど、でも、「僕」が書いた文章です。なるべく「僕」は透明になるよう努めたつもりだけど、すべての言葉は「僕」を一度通過したものです。そのことに十分注意してください。
(読みやすくするため勝手に文章を区切り、勝手に章題を付けました。また、最後の糸井さんとの対談部分は、大幅に編集しました。本来は糸井さんと中沢さんが半々でしゃべっておられました。)
というわけで、大きな勘違いや、誤解や、理解不足の箇所もあるかもしれません。しかしながら、そういう「勘違い」や「誤解」にこそスピリットが生き生きと活躍する場があるのだと思い、あえて再現してみたのです。
この講演の模様は「ほぼ日刊イトイ新聞」にも掲載されるそうです。
そちらと合わせて読まれると、どのような「誤解」や「勘違い」があったかが分かっておもしろいかもしれません。
ps.講演はすごくおもしろかった。でも『三位一体モデル』という本は、タモリさんは帯に「おもしろかったわ!」と書いてるけど、ぼくは……。中沢さん自身があとがきに書いているように、「説明不足」の感が否めない。薄くて、すぐ読めるのは事実だけど。
もし中沢さんの本をはじめて読んでみようかなという方がいるならば、僕は『カイエ・ソバージュ』シリーズの第一巻、『人類最古の哲学』(講談社選書メチエ)を強く、強くお勧めする。ほとんど何の前提知識もない学部生を対象にした講義を本にしたもので、話し口調なので臨場感もあり、すごく分かりやすい。ぼくはこの本をきっかけにして中沢新一さんが好きになった。赤鉛筆で線を引いたりページの端を折ったりしながら、ちょっとずつでもいいから読み進めてみたらいいと思う。
投稿者 tsuyoshi : 2006年12月13日 21:26
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