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2006年12月30日
『黄泉の犬』
先のエントリーで今年の更新はおしまいにしようと思っていたのだけど、
昨日『黄泉の犬』という本を読んでそれがあまりにすばらしくて、
感想を書きたくなってきたので書いてみる。
藤原新也さんの『黄泉の犬』(文藝春秋)を買ったのは一カ月ほど前。でも、見るからに噛みごたえのありそうな本だったので、そのときすぐには読めなかった。
昨日の夜に、ふと手に取って最初の一章を読んでみようと思って読みはじめたらとまらなくなり、7、8時間かけ一気に読了、もう外は朝になってた。
僕は、かつて藤原さんの熱心な読者だった。『印度放浪』『西蔵放浪』『全東洋街道』『メメント・モリ』等々に魅了され、多くの旅人同様、僕にとっても彼はヒーローのような存在だった。旅の途中は、藤原さんの写真を真似たりもしていた。
でも、長い旅を終えたあと彼の写真展に行ってから、なんだか急に冷めていった。なぜだか分からないが、もうかつてのようには魅了されなくなっていた。いつからか彼の写真やことばが、自分にとってそれほど切実なものとは感じられなくなっていた。
だから、『黄泉の犬』は、それほど期待していたわけではなかったのだが、これが、稀にみる傑作だった。
この本は、彼の旅行記でもあり、オウム事件を追う本当の意味でのジャーナリズムの本でもあり、1995年を論じ、現代の日本社会のメンタリティを論じるものでもあるという、多角的なノンフィクション作品。しかし、多くの題材を扱っていながら、それが底流で一つになっていくような興奮を感じさせてくれる。藤原さんの、表現者としての覚悟が痛いほど伝わってくる。
これを読むと、個人の意志というものがいかに時代と密接に連動しているかがよく分かる。ぼくたちがどういう時代に生きているかがよく分かる。
旅立つなどという行為は、極めて個人的な出来事のように思われるが、それがまさに深く個人的で内面的な出来事であるがゆえに、色濃く「社会」の映し鏡になっているのだなと思った。
藤原さんは、ちょうど僕の親と同じぐらいの世代。藤原さんは大学に入ってからしばらくして中退し、インドに旅立った。そのときのことを「動物的な危機回避行動」だったと回顧している。
60年代の学生運動やヒッピー・ムーブメントに象徴されるような、世界に同時多発的に発生した青年による体制への異議申し立てのベースには、そういったやがて訪れる身体や環境の閉塞をいち早く察した、ある意味で動物的な危機回避行動があったのではないかと今の私は回顧している。そのような日本の中における青年の私にとって当面のいらだちというのは“自身の身体が消えて”いくといったフィジカルなものだった。
僕は、この「動物的な危機回避行動」ということばが、自分ごととして非常に深く共感できる。(実は僕の両親も二十代前半に長期の旅をしている。その旅立ちの深層の部分には、やはり藤原さんのようないらだちがあったのだろうか?)
そして藤原さんがそうであったように、僕も自分の身体に対するリアリティの回復がどうしても必要だった。だからこそ、身体を酷使する自転車を旅の手段とし、身体にとって過酷そうなアフリカを出発地としたのかもしれない。
あのときの自分を、90年代後半を生きる思い詰めた一人の青年のサンプル(N=1)としていま思い返すと、やはり自分がいかにその時代のコードに飲み込まれていたか、多少なりとも見えてくる。団塊ジュニア、核家族、テレビゲーム、マンガ、受験勉強、携帯電話の出現、メール、インターネットの出現、等々。
藤原さんの姿勢で徹底しているのは、既成の価値観へ所属することへの嫌悪と、社会的属性を剥ぎ取った、ただの一人の人間として接する態度。
旅とは本来そういうものであるはずだが、それを徹底できるひとはまずいない。あるコミュニティやある価値観からドロップアウトしても、すぐに、もうひとつ別のコミュニティや別の価値観に回収されていくからだ。(日本から脱出したはずなのに日本人宿に沈没し、旅の記憶のほとんどが日本人宿やそこで出会った日本人の記憶に占められている人は多い。もちろん僕も例外ではない。)
そういう意味で、藤原さんの徹底ぶりにはほんとうに驚いてしまう。
インドを旅行すること自体は、今では珍しくもなんともないし、藤原さんの時代でもそれほど珍しい行為ではなかったのではないかと思う。(ちなみに、ぼくがやったような自転車旅行も別に珍しくはない)
でも、彼のように徹底して「異物」であり続ける態度は、よほどの覚悟がないとできないこと。そして、そのようなぎりぎりの立ち位置で書かれたことばには、感染力がある。
憎まれ口のような、皮肉をたっぷり含んだ、シニカルな語り口なのだが、それを裏側から支える言葉はすべて自分の身体で紡ぎだしたものであることがありありと分かるから、信頼して読むことができる。毒のあることばでも虚心に読める。
この本は彼の宗教観を掘り下げているものでもあるのだが、宗教観などという極めてナーバスな問題を、自己陶酔的にならずに掘り下げられている力量は圧巻だった。
表紙は、藤原新也さんのファンなら誰もが知っている「人間は犬に食われるほど自由だ」の写真。ガンジス川の中州に漂着した人間の死体が犬に食われている写真なのだが、この写真を表紙に使うということに、藤原さんのこの本への思い入れや覚悟を感じる。
30年以上書きたくてもおそらく筆力が追いつかなくて書けなかった内容を、満を持してようやく書いたというような本だったのだと思う。
オウム真理教事件を論じる本(特に水俣病と松本被告の関連など)としてもマスターピースだし、
心と身体が引き裂かれていく危うい現代の時代批評としても圧巻だし、
一人の青年の内面の危機を描く、率直な自伝としてもすばらしい。
藤原さんから興味が薄れていた時期もあったけれど、そういう時期に読みのがしていた本も含め、もう一度彼の著作を読んでみたいと思った。
投稿者 tsuyoshi : 2006年12月30日 20:12
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コメント
あけましておめでとう。最近は漫画しか買って読んでなかったけど、黄泉の犬は久しぶりに面白い本だった。俺も購入してからほぼ徹夜で読んでしまった。近年の彼の本だと「何も願わない手を合わせる」も良かったです。(文庫あり、写真も良い)
投稿者 やまずみけい : 2007年01月01日 08:56
ケイさん、あけましておめでとう。
『黄泉の犬』よかったよね!
さいきん彼のブログで新風舎の賞を取り上げてるけど、藤原節顕在でさすがだなと思いました。
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php
『何も願わない手を合わせる』ぼくも読んでました。
次は『渋谷』を読んでみたい。
今年もよろしく。
投稿者 tsuyoshi : 2007年01月02日 18:46
