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2007年01月16日

映画『もんしぇん』

日曜日に、ずうっとみたいなと思っていた『もんしぇん』という映画を、ポレポレ東中野という映画館へいき見てきた。

映画館を出てぶらぶらと歩き、自転車に乗って阿佐ヶ谷の自宅までもどり、それから夕ご飯を作って食べて、『もんしぇん』のパンフレットを眺め、すこしうたたねし、銭湯へ行き、もどってくるという時間のなかで、ずっと、なにかこんこんと溢れてくるような感想があった。いいものを観たり読んだりした後にだけ感じる“あの感情”にすっぽりと包まれていた。

それは泉のように溢れ出てくることばの連なりのようなもので、なにか恋にも似た感情で、そういうものを感じられた作品は、溢れ出てくるものを文字にして誰かに伝えたくなる。
でも、もともと言葉にならないものを言葉にするには、ある種の強引さが必要で、そうすることでその作品のよさが変形してしまうかもしれないと思うと、安易に文字にしたくないという気にもなる。言葉にならないものを、その伝えきれなさごとごっそりと写し取れればいいのにといつも思う。

それでもあえてこうやって感想を書こうとしているのは、ブログを読んでくれてる人に紹介したくなったから。ただただ「おすすめだよ」と言いたくて、具体的に何人かの友人を思い浮かべながら書いている。

中央線の東中野にあるポレポレ東中野という映画館で26日まで上映している。映画館で観たほうがいいに決まっているけれど、いまのところここでしか上映していないから首都圏に住むひと以外は足を運ぶのはむつかしいかもしれなく、その場合はダウンロードという手段もあるみたい。書きたいこと伝えたいことはそれだけで、以下の感想のようなものは蛇足でしかない。

映画を観ながらいろいろなことを想っていた。
映画の物語にさまざまなことが共鳴し、ああいいタイミングで観ているなと思っていた。だから映画そのものの感想というよりも、その共鳴していた僕の側のことを書いてみようと思う。

すこし前に読んだ『バスジャック』という三崎亜記さんの短篇集のなかに『送りの夏』という長めの短篇があるのだけど、その物語が不思議な具合に『もんしぇん』と響きあっていた。

どちらも不思議な共同体と、不思議な人形が登場し、海辺という場所が重要になっている。『送りの夏』が死者を送る喪の姿を描いているものだとしたら、『もんしぇん』は産まれてくる命を描いている。あるいはどちらも順送りに連なる命を描いている。

『送りの夏』には人形を小舟に載せて海へ送る場面があるのだが、『もんしぇん』の主人公はるや登場する老人たちは、それぞれ小舟に乗って島へやってきたらしい。海というきわまりのない異界と、陸地に住む人間たち。舟は生と死を仲立ちするものなのかもしれない。そしてこういう「順送りに連なる命」という壮大なモチーフは、梨木香歩さんの『沼地のある森をぬけて』という長編小説を思い出させた。

海とそこをただよう小舟のイメージがこの映画の通奏低音のようになっているのだけど、それは以前書いた「ひとりのりのこぶね」という詩を思い出させた。
この詩に書いた小舟のイメージはいつからか脳裏にあったもので、中島みゆきの「二隻の舟」という曲や谷川俊太郎さんの「はだか」という詩集や自分のさまざまな経験などから徐々に形作られていったものだと思うけれど、実際に書いてみようと思うまでは漠然としたイメージにすぎなかった。

小舟のイメージを詩にしてみようと思ったのは、ふとした偶然で友人を介してある人と会ったからだった。そのことは「伝わらなさをこそ」というエッセイにしたのだけれども、でもエッセイとして書くだけでは不十分すぎて、もっと湧きあがってくるイメージにピントを合わせ、詩の言葉に写し取ってみようと思って書いてみたものなのだ。

そのずっと抱いていた小舟のイメージが、『もんしぇん』では大きな命の連なりの物語になっていたのでとても嬉しかった。僕が抱いていたイメージは狭く限定されたものだったけど、同じようなイメージを、僕の知らない人と共有していたということを知れて嬉しかった。

『もんしぇん』は九州の天草を舞台としている。
映画の中にちょっとだけ教会があらわれて印象に残り、パンフレットにその教会の名前が崎津天主堂と書かれていた。それで、数ヶ月前ある大切な友人から天草を旅行した様子をメールで教えてもらったことがあり、そこに教会の名前があったことを思い出し、そのメールを読み返してみたらやっぱり崎津天主堂だった。こういうささやかな偶然の一致は、ぼくがもっとも嬉しく感じることのひとつだ。

『もんしぇん』を観てもっとも印象に残ったのは主人公はるの目。
大きな、意志の強そうな、魅力的な光が宿っている目だった。迷いや矛盾を抱えながらも卑屈にならず、媚びることもなく、しっかりと両足で立とうとしている人の目。
僕はこういう目をした女性にほとんど理不尽なまでに惹かれる。現実生活でもごくたまにそういう目をした女性に会うことがあるけれど(そしてときどき理不尽な想いに陥ったりするけれど)、彼女らは歳をとることでどんどん素敵になっていくから不思議だ。こういう目の美しさは、二十代後半ぐらいから徐々に獲得していくものなのかもしれないなとも思う。それまでの生き方が怖いぐらい現れてしまう。

主人公のはるを演じる玉井夕海さんは、『千と千尋の神隠し』でリン役の声優もつとめた人らしい。
パンフレットによると僕とおなじ1977年生まれ。
主人公の他に、映画の脚本と音楽も担当している。そしてこの映画の生みの親でもあるそうだ。
16歳のときに、天草の崎津の入り江で、この映画の核のようなものが芽生えたのだという。

「いつか、天草で映画を作りたいのです。」 16歳のあの日以来、何処かで誰かと出会う度、まるで呪文のように同じ言葉を繰り返し、繰り返し、私は歩いてきた。理由を聞かれればいつも、よくわからないけれど海を見ていたらそんな気がしました、と根拠のない自信でもって答えたけれど、「…なんでだろう」と自分で自分を疑い始めると、突然何もかもが不安になって、見えていたはずの絵も聞こえていたはずの音も聞こえなくなって、結局なにがやりたいのかもよくわからなくなった。(パンフレットの玉井さんの言葉の抜粋)

実際に映画として世に出すまでに12年もの歳月がかかっている。
そんなに長い期間、よく作品をたぐりよせる糸が切れなかったなと思う。
孕むように作品のアイデアが彼女に宿ってから、ちょうど子宮で胎児が育つように、
彼女のなかで作品が成長していったのだろうな。

作品を妊娠し、それを出産するということ。
そんな比喩がこの映画ではそれほど大げさに感じられないからすごい。
主人公のはるは妊娠した身体に自分の中の海を感じているが、
玉井さんは16歳のときに作品を孕み、不知火海が子宮となり映画になっている。

この、いちばん内側が外側とつながっているような「海」のありかたには、
男である僕にとっては、不思議な心地よさの中に、根源的な畏れのようなものを感じさせる。
ゆっくりとしたリズムの、穏やかな時間が流れている映画だけど、
聞こえるか聞こえないかのちいさな声に耳をすますと、
そのかすかに聞こえてくる産声のようなものはそれほど安全でも無害でもない。

主題歌である「脈動変光星」と「Psalm of the sea」は、インターネットからダウンロードできるようになっている。
玉井夕海さんが作詞作曲して歌っている曲で、このところずっとリピートさせながら聴いている。

玉井さんと脚本・イメージ設計の海津さんは1977年生まれだし、監督の山本さんは1976年生まれ。これが初監督作品らしい。ぼくと同い年の人たちががんばっているんだと思うと俄然応援したくなるし、ぼくもがんばらなくちゃと思う。そういう気にさせてくれる作品は人生でそう何度も出会える訳ではないと思う。おすすめです。

投稿者 tsuyoshi : 2007年01月16日 01:33

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