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2007年02月17日

『同じ年に生まれて』

同じ年に生まれて』大江健三郎 小澤征爾(中公文庫)

『「自分の木」の下で』『「新しい人」の方へ』に続きこの本を読んだ。
大江健三郎・小澤征爾という、世界的に活躍している二人が、芸術について語り、次の世代へのメッセージを語っているもの。

大江さんがいう「新しい人」という言葉が好きになりつつある。
この「新しい人」という言葉を、大江さんはかなり包括的な意味合いで使っているので、はっきりとどんな人なのかを言い表しにくいのだが、僕なりに理解しているイメージで言うと、

「新しい人」とは、難しい対立に橋をかけようとする人。
組織ではなく個人として、一本の木のようにまっすぐ立っている人。
個としての誇りを持っている人。
世界に向けて、他者に向けて、その個を開いていく人。
そして、「新しい人」へと自分を教育し続ける人。
「新しい人」というイメージを次の世代に手渡していく人。

読みながら、なんて若い二人なんだと思った。もう老年にさしかかっているのに、どこまでも若く、新しい人だ。こういう大人の言葉には、すごく注意深く耳を傾けたい。

芸術は、まっすぐ立つ樹木の根のように、個人を内面から支えているということ。
そして、文化の母胎のような、なにかもっとおおきなものへ、へその緒のように人を繋ぎとめていくということ。
社会の病を自分ごととして病む感受性の鋭さがある一方で、それを表現する個自体は健康でなければいけない、ということ。

対談の中でなんどか言及されてた、エドワード・サイードやアマルティア・センなどの学者の本も読んでみたくなった。

投稿者 tsuyoshi : 16:14 | トラックバック

『胎児の世界』

胎児の世界』三木成夫(中公新書)

茂木さんの『脳と仮想』の中に三木成夫さんのことが書いてあり、映画『もんしぇん』のパンフレットにあった文章の中にもこの本のことが言及されてたので読んだ。

なんかすごい本を読んじゃったという感想。
解剖学者というより、三木成夫という一人の思想家が書いた本だと思った。

生物の二大本能は「個体維持」と「種族保存」だということ。
それを僕たちヒトという種は普段、「食事と恋愛」、「食い気と色気」「グルメとポルノ」などと言ったりする。そういう日常的でポップな表現で蓋をしている事柄の奥に、「食」と「性」のどちらにも、正視すると発狂しかねないような深淵がぱっくりと口を開けている。
そういう根源的な場所へ、解剖学者が「比較形態学」という知見を携えて入って行った知的冒険の書だった。

胎児は母胎のなかでどんな夢をみているのか。
「食」と「性」が同時進行するヒトという種のなかにもなお残っている、その位相交替のリズムはどのようなものか。
植物と動物は、それぞれどのように宇宙と交流しているのか。

そういう、自然科学で扱う領域からはみ出してしまうようなことを、文学、民俗学へと領域を横断しながら考察している。
そしてそのような探求を、男という性の「代償行為」「遡行本能」だとあとがきで述べている。「遡行本能」という言葉を読み、沢登りのことを想ったりもした。

投稿者 tsuyoshi : 15:42 | トラックバック

2007年02月07日

このままずうっとあるいていくと

「このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう」
谷川俊太郎さんの「とおく」という詩のなかに、女の子がこう自問する一節があります。僕もこのごろ散歩をしているときなどに、同じように思ったりします。

昨日、南阿佐ヶ谷にある「書源」という本屋(すばらしい品揃えの本屋。週に4、5回は行ってるのに、いつ行っても10冊ぐらい欲しい本に出会ってしまう。)で、白川静さん著の『常用字解』という字書と『文字講話Ⅰ』という講演録を買いました。

今まで漢字に興味を持ったことは一度もありませんでした。すぐにど忘れするのでむしろ苦手でした。だから自分でも急に漢字の成り立ちに興味を抱いているのに驚いているのですが、正確にいうと漢字学に興味を抱いているというより、白川静さんに惹かれているのだと思います。

白川静さんのことは毎号買っている雑誌「風の旅人」の連載や、その雑誌の編集長のブログ(繰り返し語られているのですが、「ユーラシアの風景」と「風の旅人」白川静さん、信実の道を逝くのエントリーが最も情熱的に語られています)などで知りました。だからいつか読みたいとは思っていたけれど、漢字にはそれほど興味がなかったのでいままで手に取りませんでした。

読んでみようと思ったきっかけは友人が「取」や「最」のなりたちを教えてくれたからです。そして読んでみると「本当に面白い」と感じました。きっと出会うタイミングがとてもよかったのだと思います。

なにがそんなに面白いのかというと、たとえば就職や成就などに使う「就」という字です。「白川静さんに学ぶ 漢字は面白い」にはこう書いてあります。

この字は「京」と「尤」でできています。「京」は出入り口がアーチ形をした都の城門の形です。(中略)「尤」は死んでいる犬の形。城門の落成式の際、犠牲の犬の血を振りかけて清めることを「就」というのです。これで城門の築造が成就するので、「なる」の意味となり、成就することによって、ことが始まるので「つく」(地位や状態に身を置くこと)の意味となりました。

「就」は「城門に犬の血を振りかける図」だということ。
この説明を読んで僕は、すぐさま村上さんの『スプートニクの恋人』を思い出しました。

『スプートニクの恋人』のはじめの方で、小説家志望の「すみれ」という女性が、「小説家になるために持っていなくちゃいけない、何かすごく大事なものが」欠けているのではないかと悩み、「ぼく」に相談する場面があります。

相談された「ぼく」は、昔の中国の門の話をします。昔中国では、城門を作るときに、古戦場へ行き散らばっている骨を拾い、それらの骨を門に塗り込めたのだと話します。

「(…)でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあい、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ」
すみれは黙って話のつづきを待っていた。
「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」
「つまり、わたしもどこかから自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない、ということ ?」
ぼくはうなずいた。
「そして温かい血が流されなくてはならない」
「たぶん」
すみれは唇を嚙んでひとしきり考えていた。気の毒な小石をまたいくつか池の中に投げ込んだ。「できたら動物は殺したくないな」
「もちろん比喩的な意味でだよ」とぼくは言った。「ほんとに犬を殺すわけじゃない」
(『スプートニクの恋人』講談社文庫より)


白川静さんの本を読んでいると、漢字の成り立ちがいかに「呪術的な洗礼」を経ているかがよく分かります。「道」という字になぜ「首」があるのか。「道」の解説にはこうかいてあります「切った首を持って、道を行く字形。道を行くとき異族の人の首を刎ねて、道に潜む邪霊を、その首の呪力で祓った」

『スプートニクの恋人』にはこの後、「血は流されなくてはならない」という意味のことが非常に重要なモチーフとして繰り返し登場し、もっとも強く印象に残りました。(だからこそ、「就」の成り立ちを知ったときにすぐにこの小説を思い出されたのです。)

ある話が「小説」になるということと、ある図が「文字」になることには、本質的なところで同じものがあるのだと感じられます。このような相似には、そこに秘められた「何か」があることが感じられます。しかしいまはその「何か」がなんなのかうまく分かりません。きっとそれが分かるためは、僕も「自前の犬を一匹見つけてこなくちゃいけない」のでしょう。

白川さんと村上さんとは、もともと全く違う興味の方向から読んでいました。こういった、異なる領域にあるものが急接近するということはとても嬉しい経験です。

起源問題に敏感になること。
その大切さを茂木さんはブログや本や講演などでしきりに触れています。
白川静さんを学ぶことは、自分の話している言葉の起源を知ることです。無意識に、当たり前に使っている言葉の起源を知るということです。

梨木さんの『沼地のある森を抜けて』や映画『もんしぇん』の影響で、進化生物学にも興味を抱きつつあります。脳科学や進化生物学は、科学の方面から起源問題を探ることなのだと思います。

その科学の方面からの興味として今読んでいる本が、『胎児の世界 人類の生命記憶』三木成夫著です。まだ読みはじめたばかりなのですが、今日その本に「『説文解字』によると…」というくだりを見つけ、驚きました。『説文解字』は、白川さんの本にさんざん出てくるのです。(この『説文解字』という本は1900年ほど前の中国の大学者の書いた漢字の成り立ちを記した本で、長らく字源辞典の聖典だったのですが、白川静さんがその聖典を覆し新たな体系を打ち立てた、というものなのです。だから白川さんは世紀の大学者なのです)

このように、興味がある分野の本をそれぞれ読んでいると、違う分野だと思っていたことが急接近することはよくあります。そしてそういうことが連続すると、なにか、精神の全域を使っているような気がして、とても嬉しくなります。窮屈な入れ物のなかに押し込まれた状態から、広い場所に出ていけるような気がするのです。
精神の全域を使い、心の全体性を回復していくという方向。ぼくはそっちの方向に、ぐんぐんと歩いていきたいと思っています。

うしろを振り返ると、すいぶんとおくに来たと思うこともあるし、まだまだ歩きはじめたばかりだと思うこともあります。でも、「このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう」という気持ちは常にあります。自分を実験台のようにして、このままずんずん歩いて行くと、いったいどうなっちゃうんだろうと、わくわくもするし、怯えもします。

わたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもう
ただしくんよりもとおくへきたとおもう
ごろーよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもう
もしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりも
ごろーはいつかすいようびにいえをでていって
にちようびのよるおそくかえってきた
やせこけてどろだらけで
いつまでもぴちゃぴちゃみずをのんでいた
ごろーがどこへいったのかだれにもわからない
このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう
しらないうちにわたしはおばあさんになるのかしら
きょうのこともわすれてしまっておちゃをのんでいるのかしら
ここよりももっととおいところで
そのときひとりでいいからすきなひとがいるといいな
そのひとはもうしんでてもいいから
どうしてもわすれられないおもいでがあるといいな
どこからかうみのにおいがしてくる
でもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける

ーー詩集『はだか』谷川俊太郎より、「とおく」

投稿者 tsuyoshi : 02:02 | トラックバック

2007年02月04日

最近読んだ本から

最近読んだ本のなかからよかったものの感想を書きます。
読んだ直後に感想を書けばよかったのだけど、ちょっとタイミングを逃してしまったのでまとめてごく簡単に。

・『西瓜糖の日々』リチャード・ブローティガン

小川洋子さん、村上春樹さんが好きだというブローティガン、読みたいなとずっと思っててやっと読めました。小説というより散文の長編詩のようでした。読んでいるときは幻想的で捉えどころがない話だと思っていたけれど、読み終えてから反芻すると徐々にリアリティが立ち上がってきました。こんな不思議な感触の小説は始めてでした。

・『高瀬川』平野啓一郎

『ウェブ人間論』を読んで平野さんに興味を持ったので読んでみた一冊。短篇集です。表題作の「高瀬川」がなんか官能的な小説みたいで、それに惹かれて読んでみようと思ったのだけど、官能小説以上の濃密な描き込みで、それでいて流れるように読める美しさで、すごい!と思いました。「氷塊」という短篇は、どうやって読めばいいんだと混乱するような実験的なレイアウトで面白かったです。どれも、新しい表現を模索する挑戦的なものばかりでした。

・『神さまがくれた漢字たち』白川静、山本史也
・『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』白川静、小山鉄郎

漢字の成り立ちの話。
友人ごうくんが白川さんの本を読んで、「取」と「最」という漢字の成り立ちを教えてくれて、それでほんとうにびっくりしてしまい、それからこの本を読んで、白川文字学に魅了されました。世界観ががらりと変わるぐらいの興奮がありました。学問の分野でこれぐらい魅了されるのは中沢新一さんの『カイエ・ソバージュ』以来です。これからたっぷり時間をかけて白川さんのもっと本格的な本を読んでいきたいと思いました。

興味のとっかかりとなった「取」と「最」がどんな成り立ちなのかだけ、ごく簡単に紹介します。
「取」という漢字の左側は「耳」、右側の「又」は「手」を意味するそうです。そして「取」という漢字は、「左耳を切り取っている図」なのです。かつて戦争のときに敵を討ち取った証拠に左耳を切り取ったことに由来しているそうです。
そして、だれが最も多く敵を討ち取ったか数えるために、「殺して切り取った敵の左耳をたくさん袋に入れた図」が「最」だそうです。

「取」や「最」はよく使う漢字だけど、こういうことぜんぜん知りませんでした。
そして、成り立ちを知ってから「取」や「最」をじーっと眺めると、切り取られた耳から血が滴る様子や、左耳だけいくつも袋に入れ袋の底に血が溜まっているグロテスクな図が目に浮かび、なんて恐ろしい字なんだと本当にびっくりしました。
どの漢字にも呪術的な成り立ちがあって、古代中国の神話的物語に満ちていて、いままで無意識に使っていた漢字が一変しました。


・『「自分の木」の下で』大江健三郎
・『「新しい人」の方へ』大江健三郎

大江さんの、子供に向けて語りかけるように書かれたエッセイ。
誠実な人柄がにじみでていて、とても素直に読めました。そして読後にふつふつと奥の方から力が湧いてくる気がしました。

ちょっと前に『個人的な体験』を読んで、とてもよかったのだけど読むのが大変で、大江さんの小説は苦手だと思っていたけれど、やっぱりこういうすばらしいエッセイを読むとまた彼の小説も読んでみたくなります。それから彼が勧める作家、ナボコフやガルシア=マルケスやドストエフスキーも読んでみたいと思いました。

あと、大江さんが外国語を一つ実用的に使えるぐらいにマスターすることを勧めていて、英語の本を原書で読めるぐらいになりたいなと思い、『ポール・オースターが朗読する ナショナル・ストーリー・プロジェクト』という本を買いました。オースターのダンディーな声の朗読CD付きの本で、なかなか楽しいです。

外国語を学ぶということは、日本語を相対化するということで、自分のしゃべっている言葉を客観視することでもあり、日本語で何かを書いたり考えたりするうえでも大切だということを、大江さんに説得されたのでした。

思えば、大江さんも、村上さんも、梨木さんも、複数の言語が混じりあう混沌とした場を滋養として、新しいものを打ち立てています。言語の混沌とした状況と、そこから生まれる新しい表現は、なぜだかは分からないけどかなり密接な関係にあるみたいです。

以上、とりとめもない感じの紹介になりました。

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