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2007年03月22日

風景という「出来事」

先日読んだ『アニミズムという希望』山尾三省(野草社)の中に

風景は風景としてあるのではなく「出来事」としてある

という言葉があった。アメリカインディアンの言葉として紹介されていたのだが、この言葉がずうっと気になっている。

昨日、茂木健一郎さんのクオリア日記を読むと、「レディ・メイド作品 募集」という記事がアップされていた。ブログに自分の作品を載せて、トラックバックすればいいらしい。
レディ・メイドとは既製品のこと。反対語はオーダー・メイド。
マルセル・デュシャンが既製品の男性用便器に「R.Mutt」とサインして「泉」という作品にしたことで提出された概念らしい。すでにあるものをそのまま作品にすること。

それで、僕も応募してみようと思い、昨日今日と「レディ・メイド」について考えていたのだが、それがいつしか、「出来事としての風景」を考えることになっていた。
そして、風景が「出来事」になることと、既製品が「作品」になることは、似ているなと思った。

ぼくの応募作品は、チベット・アクサイチンの空の写真。
チベットの新蔵公路を自転車で数十日間走り続けてたときに撮った一枚。


(クリックすると拡大します)

旅の途中に撮ったたくさんの写真の中で、最も気に入っているものの一つ。
この写真の中の雲も、空も、湖も、当然ながらすでにそこにあったもの。僕が作ったわけではない。僕はただシャッターを押したにすぎない。シャッターを押させるという「出来事」があっただけだ。

写真は(特に風景やドキュメントなどは)、すでにあるものをそのまま作品にすることだなと思う。
撮影者は、すでにあるものの中の「出来事」に忠実になってシャッターを押すだけだなと思う。

投稿者 tsuyoshi : 22:13 | トラックバック

2007年03月19日

ファミレスの奇跡

最近はよく、「これはいいな」「すばらしいな」と思ったことをブログに書いている。
僕の性格からして、自分の中で発火が起きるぐらい「いいな」と思ったことは、誰かに「あれはよかった」と伝えたくなるからだ。(これはなかなかおすすめのブログの使い方です。おおげさに言えば、「世界を肯定する方へ」と意識を向けていけるから)

先日もそんな書きたくなるようなことがあった。
ぼくはよくカフェやファミレスで書き物をする。自宅と違って集中できることが多いからなのだが、周りの話し声が興味深すぎて、おもわず聞き入ってしまい、まったくはかどらなくなることもままある。

大抵の話し声ならばイヤホンで音楽をきくことでシャットアウトできるのだが、先日は違った。ファミレスで音楽を聞きながら書き物をしていたのだが、音楽の合間に話し声が聞こえてきて、その声のトーンになにかはっとするものがあり、ボリュームを大きくしたりして若干抵抗を試みたが、やがて、行儀が悪いとは思いつつも話に引きずり込まれてしまった。

右前方で二人の女の子が話していた。
一人は私服で一人は制服。おそらくは二人とも高校生だろう。
私服の女の子は茶色系統のカジュアルな服で、落ち着いた感じだが表情がすこし暗い。制服の女の子は、ひかえめで幼さが残っている素朴な感じ。

私服の女の子が、自分を抑制したトーンでとつとつと話していた。断片的にしか聞こえてこないのだが、明らかに、自分の心の危機ついて話していた。学校での人間関係のこと、部活のこと、受験のこと、そして学校に行けなくなったこと、カウンセリングのこと、等々。感情をなるべく抑え、絡まった糸をほぐすように丁寧に言葉を探し、行きつ戻りつしながら話していた。制服の女の子は、ときおりうなずくだけでじいっと聞き入っていた。

私服の女の子が、自分の心の軌跡を丁寧にたどり、涙声になりながらも感情に流されずに言葉にして、そのたどっていた細い糸が現在の彼女にまでたどり着いたところで、聞いていた女の子は堪えきれずに泣いた。顔をおおい、肩を震わせて、しばらく泣いていた。
やがて泣き止むと、なにか深い水をくぐった後のように、二人の顔が急に晴れ晴れとした。そしてそれからは明るい表情で、二人が同じぐらい話し、僕は彼女らから注意を外した。

注意を外してからも、しばらく僕は言葉にできないぐらい驚いていた。
心の危機について、自分を客観視してどうにか言葉を探して話す私服の女の子のクールさに驚き、その非常に深刻な話しに寄り添い、完全に感情移入して聞いていた、制服の女の子の感性のやわらかさに驚いていた。
話す方も聞く方も、そうすることでお互いがお互いに救われているような関係に感じ入ってしまった。
話す方は、共感に後押しされながら自分の心の軌跡をたどり、現在にまでつながっている一つの物語とすることで、聞く方は友人の物語をありありと自分ごととして聞くことで、二人で深い水をくぐるような劇が起こっていた。すごいなあ、うつくしいなあと感じ入ってしまった。話し終えたあとは、奇跡と言いたくなるぐらい劇的に表情が変化していた。

「劇」とか「物語」などと言われるものの原初的なもの、非常にプリミティブな形のものが目の前でありありと起こっていた。なにか問題が具体的に解決したわけではないが、深く共感し/されることで、問題そのものが内側から氷解していくようだった。

投稿者 tsuyoshi : 21:27 | トラックバック

2007年03月07日

『アニミズムという希望』

山尾三省『アニミズムという希望』(野草社)

1999年の夏に琉球大学で5日間にわたって行われた講演録。
この本が出版されたのが2000年の夏。そして2001年の夏に山尾さんは亡くなられている。
そんなはずはないと思うのだが、読んでいると、もしかしたら彼は自分の死が近いと知っていたのではないかと思えてくる。
1938年に生まれ、37歳のときに屋久島に移住し、それから二十数年間、詩人として、百姓として、思想家として、耕し、詩作し、祈る暮らしの中で培われた知慧のすべてを、若い世代へ伝えよう、バトンを渡そう、順送りに繋げていこうという、静かな、けれど確かな力というものが、ことばのひとつひとつからにじみ出ている。

内容は非常に多岐に渡るのだが、根底にあるのは、個人として、人類としてどう生きるのかという普遍的な問い。
そしてその問いに対して、新しいアニミズムを現代に再構築するという方向、経済発展という神話にかわる「新しい自然神話」を探るという方向に希望を示している。
彼は、詩人・百姓として在野に生きた人だから、その言葉は、頭の中だけでは決してでてこない確かな質感がある。

読みはじめてすぐに、この本はぼくにとって決定的に大切なものになると思った。
世界中に星の数ほどある本の中に、今、一番読みたい本がたった一冊あるとして、その本がこれだと思った。タイミングがパーフェクトだった。こういう本との出会いは、人生でもっともしあわせなことの一つだ。

だから、できるだけゆっくり、ことばを体に染み込ませるように読んだ。
一回90分の授業を一日三回、それを5日間連続で全15話の集中講演だったので、僕も一日3話だけ読み、きっちり5日間で読んだ。
もちろん読もうと思えば一気に読むこともできるのだが、それはあまりにもったいないと思ったのだ。だから、赤鉛筆で何十カ所も線を引き、ページの端を折り、丁寧にその日の分を読み、次を読みたいのを我慢し、何度も以前の部分を読み直した。実際の授業では自作の詩の朗読がたくさんあるのだが、その箇所はその詩を朗読した。

それぐらい僕にとっては丁寧に読みたい本だった。
決して難しい内容ではない。押し付けがましいところも一切ない。学生に「眠くなったらねてもいい」と言うぐらいなのだから。そしてそれでいて、もっとも大切なことを、もっとも根源的なことを語っている。何十回もはっと気づかされ、何度かは涙が伴った。

個人として、共同体の一員として、人類として、「自分はどう生きるのか」「何を心から願うのか」という問いへは、ただ言葉にするだけでは答えたことにならず、自分の人生で、実際に生きることで答えていく他ないのだが、もし、「ありあまる自由さのなかで立ち往生している」ということばに、自分ごととして胸の中に痛みを感じるならば、この本の中に共鳴することばがあると思う。

実は長らく山尾さんを敬遠していた。
屋久島の山奥にこもり、社会から背を向けている人という印象があったからだ。それがどれだけ偏見に満ちたものだったかをこの本で知り、いま深く恥じている。

ここ数ヶ月間、ある種の危機意識をもって、アンバランスなまでに読書に傾倒していたのだが、この本を読むことで、どうやら一つ峠を越えたなと思っている。あとは実際に、具体的な行為にしていくしかないと思っている。

3月になり、日ごと暖かくなり、もう春がきていることを感じながら、ヒトもまた、植物ほどではないが、季節に大きく左右される生き物なのだと実感している。春にはやはり希望を抱く生き物なのだと実感している。

投稿者 tsuyoshi : 02:07 | トラックバック

2007年03月04日

キース・ジャレット「ザ・ケルン・コンサート」

キース・ジャレット「ザ・ケルン・コンサート

すこし前に友人が遊びに来て、そのとき勧められて聞いたCD。
僕はジャズにはまったく疎く、友人は詳しかったので、なにかおすすめない?と聞いたら何枚か勧めてくれたのだけど、そのなかの一枚にこれがあった。

それ以来、ちょっと中毒になったようにこればかり聴いている。
ソロピアノのライブ即興演奏というとんでもないもの。
観客の目の前でたった一人、なにかが乗移ったように弾いている光景が目に浮かぶ。
弾きながら彼の唸るような声も聞こえてくる。
あまりにも深く、激しく、美しい。
とくにpart1と題された一曲目は、出だしから一気に引きずり込まれる。
満月に煌煌と照らされるような精神の高まりを感じ、油断すると泪が出そうになる。
26分という長さなのにまったく飽きることがない。
何度聴いても、おおきくうねるような音の波に連れ去られていく。

ぼくにとっては、ジャズとよばれる音楽のなかで、
はじめてほんとうに深く心をうばわれた記念すべき一枚になった。
とはいえこれがジャズかどうかは重要ではないだろう。
キース・ジャレットのほかのCDも聴いてみたい。
勧めてくれた友人に感謝している。

投稿者 tsuyoshi : 03:14 | トラックバック