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2007年04月22日

次の旅 ここから奥へ

これからやろうとしている水源行計画は、喜望峰から日本まで自転車で走った旅の「次の旅」になると思っている。

あの旅は、言わば「一番遠い場所」から「ここ」へ帰るという旅だった。
とにかくまずは自分を「一番遠い場所」へと強引に放り投げてしまい、そこからどうするのかを、自分を実験台にして試すような旅だった。本人は冷静なつもりだったが、今振り返ると、ただただ情熱に突き動かされるに任せて出発していたなと思う。自分の中にある過剰なエネルギーに翻弄されつつ、自我を無限に拡大させようとしていた。端的に僕は若かったわけだが、若いときにちゃんと若い旅をして、有り余るエネルギーに行き場を与えてやれたことはよかったと思っている。

これから取り掛かろうとしている水源行は、「ここ」から「奥へ」行くものになると思っている。いまいる場所の奥へ、根がある場所へ行くというもので、起源へと遡行する方向だから、一番遠い場所から帰った前回の旅と同じベクトルを持ち、さらにその先へ、その奥へ行こうとしている。だから「次の旅」だと思っているのだ。

つまり僕はこの計画を、前回の旅のように全面展開するべきものだと思っている。
そのことは思いついたときからはっきりと自覚しているはずなのに、具体的に計画を立てていると、いつの間にか何かに遠慮したようなものになっていた。そしてこういう腰が引けた計画を立てている内はだめだと思った。もっとできるはずなのにいろいろ言い訳をして最善を尽くしていない。

それでもう一度、意識してリミッターを外し、考えられるかぎり一番思い切った計画、精一杯とんがった計画を立てることにした。計画段階でどれだけ大風呂敷を拡げられるかは大切だと思う。実現の可能性と理想との間でぎりぎりのせめぎ合いをしないといいものにはならないと思う。

以前は、今住んでいる阿佐ヶ谷から水源域へ数日間行っては帰るということを繰り返そうと思っていたけど、計画を改めた。
いま考えている計画は、自転車に荷物を積んで対象の山域へ行き、自転車を置いて遡行し、下山したらまた次の沢へ自転車で移動し、二三週間かけてその山域の沢を登り込むというもの。いくつもの沢を連続して遡行し、その山域と自分とを同化させるぐらいに浸りたい。長い期間その山域にい続けることをしたいのだ。沢登りは日帰りで行っても満身創痍になるぐらい疲れるのだが、そんなことを二三週間もできるかな?と思うのだけど、きっとできると思う。かなりとんがった計画ではあります。

5月になったら始めます。これから半年間ぐらい、その月の上旬中旬は水源域へ行き、下旬は次の沢の用意や写真の現像、文章を書くことなどをしたいと思っています。

つまり、ふたたび自転車にまたがることになります。そういう意味でも「次の旅」のようです。本当は車の方がいろいろ都合がいいのだけど、あいにく免許すら持っていないので自転車にします。
いまは、かつて使った装備を取り出して、足りない装備は買い足して、せっせと準備しています。こういう文章を書くことも、これから自分はなにをやろうとしているかをはっきりさせるという意味で準備の一つです。理屈っぽいことをたくさん書いているけれど、本当のことを言ってしまうと、ただ好きな場所に行けるのが嬉しいだけです。原点に水源の森にいるときの幸福感があり、そういう幸福な場所へ行き、写真を撮ったり、ひたひたと深く考え、想いを透過させるように言葉にしていきたいだけなのです。

(というわけで冬が訪れるまでは、その月の上旬中旬は山の中にいるはずです。水源行を最優先させ、他の予定や何かを断ってしまうかもしれないですが、そういうわけなのでよろしくお願いします。)

投稿者 tsuyoshi : 11:42 | トラックバック

2007年04月20日

展覧会「ashes and snow」

友人を誘い、お台場にあるノマディック美術館へ行き、グレゴリー・コルベールの展覧会「ashes and snow」を見てきた。

ノマディック美術館は、この展覧会のために建てられた移動美術館らしく、コンテナを積み上げた不思議な空間だった。
グレゴリー・コルベールの写真や映像は、人間と動物がとても近い距離にいて、踊ったり、遊んだり、じっと同じ方向を見たりしているもので、まずはその人間と動物の近さに驚いた。でも写真も映像もすべて、CGやレタッチは施されていないのだという。

名付けようのない印象を喚起されるものばかりだった。
人間が動物の皮をかぶり、動物が皮を脱いで人間になっているような、動物と人間の境界があいまいになるような、神話的で不思議な写真と映像だった。
そういう詩的な作品がコンテナを積み上げた異空間の中にあり、多くの人がそれにぼーっと見入っている姿もかなり不思議な光景だった。
見終わってからも、女性が象と一緒に踊っている映像がずっと頭から離れなかった。一切の抑圧を解除したような、命そのものが発露しているような、美しく力強い映像だった。そして「魔法のことば」という詩の世界と似ているなと思った。

ずっと ずっと 大昔
人と動物がともにこの世に住んでいたとき
なりたいと思えば 人が動物になれたし
動物が人になれた
だから時には人だったり 時には動物だったり
互いに区別はなかったのだ
そしてみんながおなじことばをしゃべっていた
(金関寿夫『アメリカ・インディアンの口承詩』より)

グレゴリー・コルベールの作品は、この詩の世界にあるような、人間と動物のあいだに対称性があった大昔の写真や映像のようだった。彼は大昔の世界を現代に再構築しようとしているのだろうか。

見終わってから友人とお茶を飲んだのだが、それがお台場のいかにも人工的な場所だったので、落差に頭がくらくらした。お茶を飲みながらなにか感想を述べようとするのだが、さっき見た作品に言葉が吸い込まれていくようで、ふたりともちょっと感想を言ってはうーむと口をつぐみ、またちょっと感想を言ってはうーむと黙ってを繰り返してた。どうにもこうにも言葉にならないのだ。

展覧会のタイトル「ashes and snow」は訳すと「灰と雪」とでもなるのだろうが、かなり抽象的な意味合いを持たせているのだと思う。なぜ「灰と雪」なのか、見終わってからもときおりふと考え込んでしまう。

両者とも白い。「火と水」に関係している。そこから想像をふくらませて、「太陽と海」や「光と結晶」などを思い、命あるものが光を発しながら燃え、最後には灰になることを思い、水が蒸発し結晶することを思い、海から発生した生命進化のことを思い、なんだかわけが分からなくなる。きっとこうやって自由にあれこれ連想させるのを促すタイトルなのだろう。

友人はしきりに「象ってふしぎ」と言っていた。その鼻の長いこと、その足のつめのおっきいこと。改めてまじまじと象の写真を見ると、僕も本当になんでこんなふしぎな生き物がいるのかと驚いてしまう。かつて知っていたけれど思い出せないもの、そこにあるのに見過ごしているものにあらためて気づかされるような、不思議な懐かしさすら感じさせる展覧会だった。

ps.
展覧会は数十枚の大型写真と、二つの短篇映像、一つの長編映像です。長編映像は一時間ぐらいありました。僕が行った日は寒く、館内も外気温と同じぐらいなので、じっと映画を見てたら冷えました。寒い日は一枚羽織るものがあるといいと思いました。


投稿者 tsuyoshi : 20:46 | トラックバック

2007年04月18日

水源行計画の主旨

アラスカの写真を撮り続けた星野道夫は、その著書で繰り返し「近い自然」と「遠い自然」について述べている。
近い自然とは公園や裏山などの、人間の生活圏の中にあるような身近な自然。遠い自然とは、アラスカの原野のような、人間の生活とは無縁の自然。カリブーが千年二千年前と同じように季節移動しているような場所。

そして遠い自然には、僕たちが日常生活を送っているのとおなじ時間に、「もう一つの時間」が流れているという。それは鯨が海面をはね、クマが冬眠から目を覚まし、オオカミが歩き回っているような時間。数万年繰り返されてきた時間。

文明は常に進歩し、僕たちは不可逆的な時間のなかで生活している。
しかしそのような直線的な時間に生きる今この瞬間にも、遠い場所では数万年変わらない「もう一つの時間」が流れているということを彼の写真や文章から教わった気がする。

僕は彼の写真や文章に接し、アラスカの原野や狩猟民の心を想い、神話を語り継ぐ世界のことを想い、もう一つの時間のことを想いながら、直線的に変化し続ける東京やその郊外に暮らしてきた。

そしてずっと「遠い自然」と「もう一つの時間」のことを考えていた。それは回帰する時間が流れる場所のことを考えることでもあった。
波が打ち寄せ、太陽が昇っては沈み、季節が一巡し、神話が語り継がれるように、繰り返され、また元へ戻るように変化している場所に流れる時間は、常に回帰している。そういう時間が流れる遠い自然の光景を想像することは、なにか根源的に大切なことだと思っていた。

また、都市に住みながら僕は、ときおり沢登りへ行った。川辺で泊まり、焚き火を見ながら眠り、水源の森を遡行してきた。水源域はどこも本当にすばらしい場所で、沢を遡行することはなぜだか根源的に楽しいと思われる行為だった。

そうした日々を送りながらあるとき僕はふと、「遠い自然/近い自然」という自然の他にもう一つ、「奥にある自然」があるのではないかと思った。

水源域は、普段見ることのできない場所にあるという意味では遠い自然だが、日常的に使う水が来る場所としては、直接自分の生活につながっている場所であり、もっとも近い自然だともいえる。だから水源域は、近くも遠くもある両義的な場所なのではないかと思った。そしてそこに流れている時間はやはり回帰する時間だろうと思った。都市生活をし、文明の中で生き、とどまることを知らない変化に身を晒している都市生活者も、その体を支える水はやはり回帰する時間に属しているのではないかと思った。

東京の水道水は、多摩川、荒川、利根川の三つの川を水源としている。
東京にある水道の蛇口はすべてこの三つの川のどれかとつながっている。
だから僕は、「いま自分が住んでいる場所の奥」として、多摩川、荒川、利根川の三つの川の水源域を訪ね、撮影しようと計画した。

僕たちの体の三分の二は水分でできている。僕たちの体の中には日々絶えることなく水が流れている。水道の蛇口をひねれば当たり前に水が出る。
その当たり前にある水道の蛇口はどんな場所とつながっているのか、水源とはどんな場所なのか、ひとつひとつ丁寧に訪ねたいと思っている。

投稿者 tsuyoshi : 22:53 | トラックバック

2007年04月14日

水源へ

春になったから外へ出る。
まずは多摩川源流域へ沢登りへ行く。それから荒川の源流域、利根川の源流域へ沢登りに行く。春から秋にかけて、今年はずっとこの三つの川の源流域を何度も遡行し、水源の光景を撮る。基本的に単独で、日帰りで行けるところを二三日かけて、一泊で行けるところを三四日かそれ以上かけて、ゆっくり遡行して写真を撮りたい。山菜を食べたりたくさん焚き火をしたりしたい。難しめの沢は経験ある友人と一緒に行きたい。

なぜ多摩川、荒川、利根川かというと、この三つの川が東京の水源だからだ。東京にある水道の蛇口はぜんぶこの三つの川とつながっている。僕はいま住んでいる町の水源の光景を撮影をしたいのだ。

いままでもさんざん沢登りはやってきて、多摩川も荒川も利根川もその源流部を何度も遡行したことがあり、写真だってそれなりには撮ってきたけど、今年ははっきりと撮影を目的に沢へ行く。

二月下旬のある朝、とうとうという感じで、ボッと発火するように思いついた計画なのだけど、はっきし言ってすごくいい計画だと思う。良すぎて、ワクワクして夜眠れなくなってしまい困ります。

約10年ほど前にも確か「喜望峰から日本まで自転車で旅したら楽しそうだ」と思いついたらわくわくして夜眠れなくなって困ったけれど、だいたい同じようなものです。10年経っても大して変わっていないようです。ああとうとうまた始まってしまったぞ。



(多摩川・逆川)



(荒川・和名倉沢)



(利根川・ナルミズ沢)


(写真は昨年の秋に撮ったもの)
camera : NikonFM3A
film : Provia

投稿者 tsuyoshi : 00:58 | トラックバック

2007年04月02日

映画「デック 子どもたちは海を見る」

ドキュメンタリー映画「デック 子どもたちは海を見る

先月の中旬に見に行った映画。
前日の真夜中に突然友人から電話が来て、明日この映画を見に行かないかと誘われた。それで、リンクした映画紹介ページを覗いたのだけど、正直興味をそそられなかった。でも、せっかく誘ってくれたのだからと観に行ったのだ。

そしたらすごくいいドキュメンタリー映画だった。
僕はその日徹夜していて、ものすごく眠い状態で見に行って、これは絶対に途中で寝てしまうと思っていたのだけど、とんでもなかった。すぐに映画に引き込まれて、全く眠くならないどころか、見終わったあと眠気がまったくなくなってた。

タイの山の中の学校に通う子どもたちを撮ったドキュメンタリー映画。
見る前は、JICAでの上映だし、途上国支援の話らしいし、先入観からなんとなく「いかに悲惨な状況か」「いかに僕たちが傲慢な生活をしているか」を見せられるような気がして、なんだかなあと思いながら見に行ったのだけど、そういう分かりやすいテーマやメッセージがあるような映画ではなかった。もっと喜びに満ちた映画だった。

海を見たことのない子どもが、ずっと海を見たいと思っていて、そして中学校の修学旅行ではじめて海を見に行く。そういうとてもシンプルな話。シンプルだけど深みのあるシンプルな話。子どもたちはほんとうによく笑い、よく泣いていた。感情を抑圧していなかった。海を見たときの子どもたちの嬉しそうな表情が、あらゆるムツカシイ問題を逆照射するかのようだった。川の源流部に住む子どもたちが、その川の流れる先を見に行くという話は、なんかずるいって思ってしまうぐらい詩的だと思った。

海を見ることをあれだけ心待ちにできる、海を見ることをあれだけ喜べるということ。あのような、大喜びではじめて海をみるような体験は、心の中にたまってしまうものを大津波のような力で一掃するようで、見ていてとても清々しかった。

憧れを持ち続けること、憧れを溜めて、待ち続けて、一気にひっくり返すようなシンプルな生き方。いいなあと思った。ああいう心を根こそぎなぎ倒されるような喜びを体験することは、その後の原体験になるだろうなと思った。

監督は二人のタイ人の女性。一年間その村に住み込んで撮影したらしい。深い信頼関係が築けているのが見ていて伝わってくる。そういうのは見ていて安心するし、ほんとうにいい場面をしっかり撮っている。

自主上映のようにしか上映していなくて、関東では4月6、7日に広尾のJICAでまた上映会があるらしい。タダで見れるのでお得です。タダだから見てみようと気軽にいくのがいいと思われます。ポレポレ東中野などのドキュメンタリーをよく上映してる映画館で上映してもぜんぜんおかしくない、すばらしい映画でした。

投稿者 tsuyoshi : 13:27 | トラックバック