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2007年04月18日

水源行計画の主旨

アラスカの写真を撮り続けた星野道夫は、その著書で繰り返し「近い自然」と「遠い自然」について述べている。
近い自然とは公園や裏山などの、人間の生活圏の中にあるような身近な自然。遠い自然とは、アラスカの原野のような、人間の生活とは無縁の自然。カリブーが千年二千年前と同じように季節移動しているような場所。

そして遠い自然には、僕たちが日常生活を送っているのとおなじ時間に、「もう一つの時間」が流れているという。それは鯨が海面をはね、クマが冬眠から目を覚まし、オオカミが歩き回っているような時間。数万年繰り返されてきた時間。

文明は常に進歩し、僕たちは不可逆的な時間のなかで生活している。
しかしそのような直線的な時間に生きる今この瞬間にも、遠い場所では数万年変わらない「もう一つの時間」が流れているということを彼の写真や文章から教わった気がする。

僕は彼の写真や文章に接し、アラスカの原野や狩猟民の心を想い、神話を語り継ぐ世界のことを想い、もう一つの時間のことを想いながら、直線的に変化し続ける東京やその郊外に暮らしてきた。

そしてずっと「遠い自然」と「もう一つの時間」のことを考えていた。それは回帰する時間が流れる場所のことを考えることでもあった。
波が打ち寄せ、太陽が昇っては沈み、季節が一巡し、神話が語り継がれるように、繰り返され、また元へ戻るように変化している場所に流れる時間は、常に回帰している。そういう時間が流れる遠い自然の光景を想像することは、なにか根源的に大切なことだと思っていた。

また、都市に住みながら僕は、ときおり沢登りへ行った。川辺で泊まり、焚き火を見ながら眠り、水源の森を遡行してきた。水源域はどこも本当にすばらしい場所で、沢を遡行することはなぜだか根源的に楽しいと思われる行為だった。

そうした日々を送りながらあるとき僕はふと、「遠い自然/近い自然」という自然の他にもう一つ、「奥にある自然」があるのではないかと思った。

水源域は、普段見ることのできない場所にあるという意味では遠い自然だが、日常的に使う水が来る場所としては、直接自分の生活につながっている場所であり、もっとも近い自然だともいえる。だから水源域は、近くも遠くもある両義的な場所なのではないかと思った。そしてそこに流れている時間はやはり回帰する時間だろうと思った。都市生活をし、文明の中で生き、とどまることを知らない変化に身を晒している都市生活者も、その体を支える水はやはり回帰する時間に属しているのではないかと思った。

東京の水道水は、多摩川、荒川、利根川の三つの川を水源としている。
東京にある水道の蛇口はすべてこの三つの川のどれかとつながっている。
だから僕は、「いま自分が住んでいる場所の奥」として、多摩川、荒川、利根川の三つの川の水源域を訪ね、撮影しようと計画した。

僕たちの体の三分の二は水分でできている。僕たちの体の中には日々絶えることなく水が流れている。水道の蛇口をひねれば当たり前に水が出る。
その当たり前にある水道の蛇口はどんな場所とつながっているのか、水源とはどんな場所なのか、ひとつひとつ丁寧に訪ねたいと思っている。

投稿者 tsuyoshi : 2007年04月18日 22:53

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