« 次の旅 ここから奥へ | メイン | 水越武写真展 大地への想い »
2007年05月20日
それ自身の存在のため/解釈を拒絶して動じないもの
多摩川の源流部へ11日間行き、水干沢、竜喰谷、大黒茂谷、雨降川長久保沢、大雲取谷小雲取谷と、沢を連続して五つ遡行し撮影してきた。
沢を歩いている間、ことあるごとに、ひとつの言葉が繰り返し脳裏をよぎっていた。それは、「人間のためでも誰のためでもない、ただそれ自身の存在のために息づく自然」という言葉。
多摩川の源流部で、ひっそりと咲いているヤマツツジを見つけたとき、シカの立派な角が落ちているのを発見したとき、ミズナラの巨木を見上げたとき、滝壺に水が落下する様にみとれていたとき、しきりに「人間のためでも誰のためでもない」「ただそれ自身の存在のため」という言葉が思い出された。星野道夫の本のどこかにあった言葉だということは分かるのだが、それがどの本かは忘れてしまっていたので戻ってきてから探したら、『長い旅の途上』の中の一節だった。
白い雪の原野に、小さな黒い点が見えてきた。
「クマかもしれない」
パイロットがつぶやくと、上空からまっすぐ近づいていった。
一頭のハイイログマが、生命のかけらさえも見えない白い世界で、何かを考えているかのように、ポツンと座っている。獲物を狙っているのでも、歩いているのでもない。ただそこに、ポツンと腰をおろしている。
どんなにドラマチックなシーンより、こういう風景が強く記憶に残ってゆく。アラスカの広さを知るのは、この時である。
人間のためでも、誰のためでもなく、それ自身の存在のために自然が息づいている。そのあたりまえのことを知ることが、いつも驚きだった。
それは同時に、僕たちが誰であるかを、常に意識させてくれた。
多摩川の源流域から帰ってきて、世界一周中のあすかさんのブログを覗いてみると、イグアス滝の文章と写真がアップされていた。奥多摩の小滝ばかり見てきたぼくの目に、イグアスの滝はあまりに巨大で、スケールが違いすぎ、圧倒された。
ブログに小林秀雄のこんな言葉が紹介されていた。
「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。これが宜長が抱いた最も強い思想だ。解釈だらけの現代ではもっとも理解されにくい思想だ。」小林秀雄
解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。ああ本当にそうだと、深く腑に落ちる言葉だった。そしてこの言葉を読んで、「それ自身の存在のために息づく自然」には、そのスケールに関係なく、解釈を拒絶して動じない美しさがあると思った。
解釈を拒絶して動じない美しさ。それは確かに奥多摩の数メートルの小滝にもあった。その小滝が、誰かに見られようが見られまいが関係なく、山奥でずっと滝壺に水を落下させている様には、静かに込み上げる驚きがあった。圧倒的なスケールで飲み込まれる美しさではないけれど、ロウソクの炎をじっと眺めるような、純粋な驚きに打たれながらいつまでも眺めていられる光景だった。
解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。
なんていい言葉なんだろう。こういうすばらしい言葉にはある種の感染力が宿っていて、僕はすぐに感染してしまった。そして今度は、街を歩いていても、電車から外を見ていても、ことあるごとに「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という言葉が脳裏をよぎるようになり、その小林秀雄の張りつめた弦のような美しい美意識を、いくばくかなりとも身につけたいと切実に思うようになった。
ps.
肝心な写真の出来は、技術不足、勉強不足が露呈し、納得できるものではなかった。現像したものを確認したあと大反省した。光景への対峙の仕方も、写真への姿勢も、なにもかもが中途半端で未熟だと自覚できたことが最大の収穫だった。
投稿者 tsuyoshi : 2007年05月20日 10:49
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://hanamote.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/178
