« それ自身の存在のため/解釈を拒絶して動じないもの | メイン | 幼稚園で話をする »

2007年05月22日

水越武写真展 大地への想い

日曜日に恵比寿ガーデンプレイスにある東京都写真美術館へ行き、「水越武写真展 大地への想い」を見てきた。

小説家の小川洋子さんが「いい小説を読んでいると、自分も、今すぐにでも机に向かって小説を書きたくなる。そういう気持ちにさせてくれる小説が私にとっていい小説だ。」というようなことをエッセイに書いていたが、それと全く同じ想いを、水越さんの写真を見ながら思っていた。いますぐ家に帰り、カメラをザックに入れて、また水源域の撮影に行きたくて、ため息をつきながら、一点一点に見入った。こんな突き動かされるような強い想いを抱かされた写真展は初めてだった。本当にすばらしいものに接すると、魂を鼓舞されるような喜びがあり、それが何か訳の分からない力となり、地底から吹き上がる風のように、ふつふつと、ああ僕ももっといいものが撮りたい、もっと深く知りたい、そしてもっともっと深く考えたいと、一歩も二歩も突き動かされ、その写真に、高峰を仰ぎ見るような憧れを抱いた。

その日は水越さん本人のギャラリートークがあり、会場を廻りながら写真の解説を聞いたのだが、どの写真に対しても水越さんは口ぐせのように「どうしても○○が撮りたかったんです」と、言っていた。例えばギアナ高地のエンゼルフォールズの写真を前に「どうしても熱帯雨林に滝が吸い込まれていく様子が撮りたかった」と言い、大雪山の稜線がシルエットになっている写真をまえに「どうしても本州にはないなだらかな稜線を撮りたかった」と言っていた。だからこう撮り、だから不要なものを排除したと言っていた。

どの写真も、その写真はそう撮られなければならないという確固たる内的必然性があり、「どうしても」という言葉の背後には、生態系に対する透徹した哲学や生命観が流れていた。ただきれいなだけの風景ではない、「どうしても」という必然性に裏打ちされた写真には、張りつめた緊張感が漂い、テーマが要求するものから一歩も引かないという覚悟がみなぎっており、美しかった。

水越さんの40年間の写真家としての歩みは、二十代後半から取り組んだ穂高の山岳写真から始まっている。研ぎ澄まされたナイフのようなストイックな穂高の岩と雪のモノクロームの写真からはじまり、日本の原生林やヒマラヤの高峰、熱帯雨林など世界中に広がっている。
初期の穂高に取り組んだ日々について、水越さんはこう回想している。

テントや雪洞で暮らし、いつ果てるとも知れぬ猛吹雪の中で、ゴーゴーと渡って行く風を一人で聞きながら、自分の理想とする写真が1枚できたら命と替えてもよい、などと真剣に考えていた。当時は1カ月も2カ月も下山せず、死に物狂いで自然と向き合っていた。思い出すだけで今でも胸が熱くなる。山と写真のことだけを考えていた。(展覧会のカタログより)

その二十代後半から10年間取り組んだ穂高の写真が原点にあるからだろうか、テーマが地球全体にまで広がった以後の作品にも、カラーなのにモノクロームのような写真が多く、ぎりぎりまで削ぎ落とし、単純化し、テーマを明確に浮き彫りにしている写真が印象深かった。その孤独でストイックな色調がこの上なく美しく感じられた。特に、黒と青の深さが美しかった。

好奇心のおもむくまま、少しでも高く、遠くへとひたすら自分の足で歩き、私は夢や憧れの軌跡となる写真を持ち帰った。 遠くには地平線があり、高くには山があった。どこを歩いていても頭の隅には大地への想いが常にあった。地球はなんと美しく、無限の表情を持ち、多様性に富んだ不思議な生き物を抱え込んでいることか。(展覧会のカタログより)

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という小林秀雄の言葉を思い出す。
水越さんは「「地球」を視野に入れた自然観、新しい地球観を持つべき時代がやって来ている」と書いているが、「新しい地球観」はきっと、僕たちの一人一人が何を心から美しいと思うのか、どんなものに心を奪われるのかによって形作られていくのだと思う。僕は水越さんの写真に魅了された。水越さんが向かっている方へ僕も体を立てたいと思った。魅了されるとはそういうことなのだと思う。

投稿者 tsuyoshi : 2007年05月22日 07:46

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://hanamote.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/179