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2007年07月03日
「新しい神話」を探る
一人で水源域の森を歩いていると、ときどき「感情のかたまり」のようなものが込み上げてくることがある。
その込み上げてくる感情が、自分でも、嬉しさなのか、悲しさなのか、さみしさなのか、楽しさなのか、あるいは怒りなのか分からない。ただの、「感情のかたまり」が、光景に感応して込み上げてくることがある。そういう瞬間が大好きなので、僕は何度も水源域に行くのかもしれない。
水源域に行くことで何をしようとしているのか。森の中を歩いていても、帰ってきて都市に生活していても、常に自分に問いかけられている。そのことを本当に忘れられるのは、「感情のかたまり」が込み上げてきたときぐらいだろうか。
僕は、自分がやっていることを、執拗に言葉にしようとする人間なのだと思う。行動することと言葉にすることが常に競争している。行動することが先に行ってしまうと必ず言葉が追いつこうとする。そして追いついたかと思うとまた行動が先に行く。そうやって、行動と言葉を競争させることで、もっと遠くへ行けると思っているのかもしれない。
何をしようとしているのかという問いは、一つの正解を求める問いではなく、問うことで新たな問いが生まれ、深まってゆく種類の問いだ。数ヶ月前は「奥にある自然」「回帰する時間」などについて考えていた。そして「水源行計画の主旨」と題して言葉にした。
それらを踏まえて、僕はこのごろずっと、今やっていることは「新しい神話」を探るという多くの先人たちが取り組んでいるテーマの中の、僕なりのささやかな試みになっていくのかもしれないと感じている。それは、「人間」と「自然」との関係を探ることでもある。
人は「自分」という同一性を保つために、常に物語を必要とする生き物だ。
そしてある時代に生きる人々がひとつの物語に心を奪われ、その物語を多くの人が無意識に共有するようになると、その物語は共同幻想となり、神話となる。その物語が放つ光が強烈であると、数千年、数万年もの長きに渡って人々を魅了し続けることになる。
いま僕たちが生きている世界でももちろん神話は共有されている。
そのなかで比較的力を保っているのは、「経済」という神話と、「科学」という神話だろう。
でもその神話には、かつてあった強い光がもう宿っていないということに多くの人が気がついている。
「経済」は、その恩恵を被れる人々の暮らしを豊かにする一方で、必然的に貧富の格差を生み、環境を破壊する。
「科学」は、それを応用する技術が常に諸刃の剣であり、人類にとってものすごくいいことと、ものすごく悪いことを同時にもたらしてしまう。
だから僕たちは「経済の発展」や「科学の発展」に、もはや心から魅了されはしない。部分的な魅力は感じるのだが、必ず陰の部分が目についてしまう。陰が目につくようでは本当の意味での神話足り得ないのだ。
だから僕たちは、神話を見失っている時代に生きているのだと思う。
近代化により土着的なものから解放され「自由」な「個人」になった一人一人が、「ありあまる自由さの中で立ち往生している」という時代。「個人」として生き、情報の圧倒的な洪水の中で「自分」とは一体何なのか混乱している時代。先進国の都市生活者の多くはそんな時代に生きていると思う。
物語を抱けないと人は生きていけない。だから常に人は物語を抱き続ける。
しかし人間にとっての生命線である物語が、「個」という単位にばらばらになっている。
共同体の結び目がほどけ、「自由」な「個人」となった現代人は、大地から切り離された存在として、人類史上味わったことのない「孤独」の中に生きているのではないだろうか。
「自由」や「個」であることをどこまでも求めると、人は必然的に「個」に閉じ込められてしまう。「自由」を求め、「個人」であり続けようとすることで、大地から切り離され、「自分」に閉じ込められ、「自分」が牢獄のように感じられてしまう。そしてそうなってしまうと、根を切られた植物のように生命力が弱り、場合によっては自ら命を絶ちかねなくなってしまうのではないか。
僕は「自由」を最も大切にしたいと願う人間だが、一方でこのごろ、人間は本当には自由になれないとも感じている。それは、たとえあらゆる組織から解放され、どこまでも自由になったとしても、「自分」は「自分の身体」に属していると思うからだ。そして「自分の身体」は、食べ物、飲み物、呼吸する空気に属していると思うからだ。だから人間は、必然的に「自分が生きている場所」に属していると思うのだ。
人間は、どれだけ自由になり、どれだけ個人になったと思っても、なお自由ではなく、個人でもなく、それゆえ根源的には孤独になれないと思うのだ。
僕は何かに所属することを嫌う者でもあるが、「自分」が「自分の身体」に属していることを受け入れられる。そして「自分の身体」が、水や空気や食べ物からできていることは納得できるし、それらがどこから来ているのかを考えれば、「自分」が「大地」に属していることも抵抗なく受け入れられる。受け入れられるどころか、そのことに気がついて「自分」が牢獄などではないと思うことができ、とても嬉しかった。このような場なら所属できると思った。
このことは、あまりに当たり前で、それゆえあまり気づかれていないことなのではないだろうか。
人間もまた、一本の樹のように、その根は大地に食い込んでいるということ。自由な個人になった現代人は、その寄る辺なさの真っ只中でもなお、大地との関係だけは切ることが出来ないということ。圧倒的な孤独の中にあってもなお属しているものがあるということ。自然とは、意識しようがしまいが、常にそこに属しているものなのではないか。
そして、僕たちの食べるものが世界中から運ばれてくることを考えると、「自分」とは、ある限定された組織や国に属するのではなく、直接「世界」につながり、「世界全体」に属しているのだと実感できる時代になってきている。
宮澤賢治の「農民芸術概論綱要・序論」という文章に、こんな言葉がある。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
特に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ということばは、宮澤賢治の思想の根幹をなすものとしてよく知られている。
自分だけ、自分の属している組織だけ、自分の国だけの発展成長を欲するのではなく、「世界ぜんたい」や「銀河系」を直接「自分」とつなげ、それをよすがとするこの思想は、賢治が生きた時代よりもますます必要とされてきている気がする。
次の十年、次の百年、次の千年を生き延びて行くための、新しい神話。
きっと「新しい神話」とは、すでに語られていた神話を再構築することで形作られるものだと思う。
いま僕が惹かれているのは、狩猟民が抱いていたであろう世界観だ。
狩猟民は、自分の身体が、身体感覚として、「自然」に属しているということを知り尽くしていた人たちだ。そしてその世界観から多くの神話が語り継がれていった。
狩猟民の神話をぼくたちはもう、自分ごととして、光あるものとしてそのまま受け入れられはしないけれど、そこには「人間」と「自然」の関係について今必要とされているものがたくさんあると思う。
かつて語られていた神話を現代に有効なものとして再構築するということ。狩猟民の心や身体感覚を自分ごととして思い出すこと。それが「新しい神話」を探るということだろうと思う。
屋久島に生きた詩人山尾三省に「水が流れている その三」と題された短い詩がある。
僕がいま取り組んでいることと呼応する詩なので、その詩を紹介して筆をおくことにする。
水が流れている その三
山が在って
その山のもとを
水が 流れている
その水は うたがいもなく わたくしである
水が 流れている
水が 真実に 流れている
『びろう葉帽子の下で
』(野草社)より
投稿者 tsuyoshi : 2007年07月03日 21:36
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