2007年08月15日
「ゴミ」についてのやや長い考察
先々月、荒川の真の沢本谷を遡行していたときのこと。
ようやく辿り着いた初めの一滴がしみ出ている場所に、プラスチックゴミが一つ落ちていた。
真の沢本谷は荒川の水源で、そこはコメツガやトウヒなどからなる亜高山帯の針葉樹林になっていた。
ぼくはとっさに拾おうとして、でもやめた。
ゴミをフレームから外して写真を撮りその場を離れた。
でも、しばらく歩いていると怒りが込み上げてきて立ち止まってしまった。立ち止まり、しばらく逡巡したのちに諦めて水源に戻り、ゴミを拾いザックに押し込んでまた歩き出した。そのとき、このことは誰にも言うまい、どこにも書くまいと思った。なぜか悪事を働いてしまったかのようにも思っていた。
今までもゴミはたくさん目にしてきた。
国道沿いの沢には、車から投げ捨てられたのだろうペットボトルや空き缶が至る所にあったし、テレビが不法投棄されていたりもした。かなり山深い場所でも、釣り師か、林業の人か、あるいは沢登りをする者が残したゴミをときどき目にした。道路沿いに不法投棄を禁ずる看板がたくさん立てられていた。
ゴミを見るたびに僕は、気持ちを殺がれエネルギーが奪われていくように感じたが、いちいち拾っていたらキリがないし、荷物は一グラムでも軽くしたいから、まず拾わなかった。
…というよりむしろ、意識的に拾わないと決めていた。
ゴミを拾うというような、「社会的に善いとされていること」はとてもできないと思っていたからだ。
僕には、「社会的に善いとされていること」に対する、抜き差しならない警戒心がある。
世界を善と悪とに二分し、自分は善の側に属しているのだと思うことにたいする警戒心と嫌悪がある。ゴミを拾うというようなささいなことにも、それを「善いことをしている」という自覚を伴って拾うことは絶対にしたくない。善意は油断すると暴走するから。
光があれば必然的に影が発生するように、善いことを行うと必然的に敵が生まれる。ゴミを善意で拾うと、ゴミを捨てた人を悪としなければならなくなる。悪を想定しない純粋な善意はありえないのだから。
アウシュビッツもヒロシマもオウムも、無邪気な善意が暴走した結果起こってしまったことだと思う。「善いことをしている」という自覚が人をどこまでも残酷にするのだということを、歴史が、多量の血と涙を流しながら教えてくれている。
世界を敵と味方に二分する考えから血は流れ始めるのだ。だから、善いことだと思っている内はゴミは拾えない。でも本当は、こんなやっかいなことなんか考えないで、拾いたいときにただ拾いたいのだ。
沢でゴミを見るたびに僕はイライラし、拾いたいと思いながらでも拾えず、ずっとジレンマを抱えていた。「ゴミ」っていったい何だろう? なぜ「ゴミ」が落ちていると頭に来るのだろう? そんなことをずっと考えていた。
どの川も無数に枝分かれしているから、一つの川には無数の水源があるのだが、河口から一番水量の多い流れをたどった先を一般に水源としている。荒川にとっては甲武信ヶ岳に突き上げる真の沢本谷の水源が、荒川の水源だった。だからここは、流域にすむ900万人の人々にとっても大切な場所なはずだった。
僕は、この東京の水源域の撮影を、自分の身体と大地との関係を思い出すこと、自分の身体のルーツを探ることだという思いで行っている。だから、荒川の水源は言わば象徴的な場所で、ゴミなど絶対にあってはならない場所だった。ゴミを見つけてしまったときは、自分の身体の一番奥にプラスチックが引っかかっている気がし、すごく嫌な気がした。
でもやはり理性が勝り、すぐには拾えなかった。
やや行き過ぎてから怒りが込み上げてきて、また戻り拾ったのだが、それから東京に戻ってからもずっと、このときのことが喉に刺さった小骨のように気になって仕方がなかった。
あのとき、このことは他言はするまいと思ったのだが、それからの日々で自分の中で小骨が溶けるような変化が起こり書けるようになった。
変化のきっかけはCoccoのYouTubeでの映像(Cocco - 沖縄ゴミゼロライブ - Love)を見たことから。荒川から東京にもどってきてすぐのときにたまたま目にした。「ゴミ」についてずっと考えていたときだったので、なにかとても重要なことを彼女が言っている気がして、何度も何度も見た。
この中で彼女は
みんなにそれぞれの「ゴミゼロ」があると思います。
みんなにとっての「ゴミゼロ」を探して欲しいと思います。
という、何か禅問答にも似た問いを発している。
ただゴミを拾って欲しいと言っているのではない。もっと根源的な世界観の変化を彼女は訴えているのだと思った。そしてそれは、「自分」と「自然(自分の立っている場所)」に関する、世界観の変化なのではないかと思った。
彼女は2001年に歌手活動を停止したのだが、「ゴミゼロ大作戦」を通して、もういちど歌っていく決心が育っていったということが、言葉の端々から伝わってくる。
彼女は「自分のやり方で、自分の立っている場所を、ちゃんと愛していこうと思っています。」とも言っている。「自分の立っている場所」との関係を回復することで、歌を取り戻している。
そしてその取り戻した歌は、活動停止前と比べ、何かをくぐり抜けたような開放感のあるものになっている。以前の曲はどれも、歌わなければ死んでしまうような切迫したものがあった。「自分」に閉じ込められまいとするエネルギー、「死にたくない」というエネルギーが歌に結晶していた。それらの曲を僕は強く共感しながら聴いていたのだが、活動再開後の、もう一度歌いはじめた曲は、共感よりももっと普遍的な広がりがあるものになっていた。
「ゴミゼロ」という言葉を、彼女は「愛してる」という言葉で言い換えている。
そして彼女の愛は、「自分の立っている場所」に向いている。
きっと彼女にとって「自分の立っている場所」とは、那覇や沖縄本島やそこに住んでいる人々であると同時に、日本や東アジア地域でもあり、環太平洋地域でもあり、そして地球や宇宙全部にまで広がり、大地母神的な存在にまでゆるやかにつながる、あらゆる段階を含んだものとして意識されているのではないかと思う。「自分の立っている場所」を愛することによって、「世界ぜんたい」とつながっていこうという方向なんじゃないかと思う。(宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福でないうちは個人の幸福はありえない」という言葉を思い出す。)僕は、そんな彼女の想いの方向がとてもうれしかった。
「ゴミ」ってなんだろう、という思い。
数日間山に行き、持ち帰るゴミはほとんどすべてプラスチックゴミだ。
きっと「ゴミ」の本質は、分解の速度、大地からの距離感なのだと思う。
分解の速度が早く、すぐに大地に溶け込むものを、僕はゴミだと思わない。
アスファルトの上に落ちている枯れ葉は、容易に大地に溶け込まないから残念ながらゴミになる。
でも森の中にある枯れ葉は、地上に落ちたときから大地そのものになっている。(山深い森の中の、枯れ葉が厚く降り積もった場所を歩くと、足が数センチほど沈み込んでびっくりすることがある。枯れ葉が大地とつながっていることがありありと感じられて心地よい)
そしてプラスチックは、種類にもよるのだろうが、森の中で完全に分解するのに数十年から数百年、あるいはそれ以上かかる。
「ゴミ」の本質は、大地から切り離されているかどうか、なのだと思う。
プラスチックが分解する速度は、人間の寿命と比べてあまりにも長い。
森の中で「ゴミ」を見つけたときに感じる嫌悪感は、自分もまた大地から切り離された存在なのだということを思い出してしまうからではないか。
「人間は死ねばゴミになる」という考えもある。
かつてある検事総長がこのような発言をして話題になったことがあるのだという。
これも一つの価値観、一つの死生観だと思う。
人間を完全に大地から切り離されたものとして、その存在を徹底的に「孤独」なものとして捉える世界観は、いかにも検事総長らしい、法に殉死するかのような強い覚悟が伺える。
あるいは、「ゴミ」という概念がない、という世界観もある。
アフリカやチベットやインドや中国の小さな村で、そこら中にビニールが捨てられている光景を何度も見た。そこに住んでいる人が、日常的に、何の悪意もなく行っていることだった。
おそらく都会に住む者が「ゴミ」だと思うものが、そこでは「ゴミ」だと思われていないだけなのだろう。あるいは「ゴミ」という概念すらないのかもしれない。
そのような光景を僕は汚いと思い、がっかりするのだが、おそらく住んでいる人は、なぜ汚いのか、なぜがっかりするのか、理解に苦しむだけなのだと思う。「自然」というものに都会人の抱く幻想を、その人たちは抱いていないのだと思う。
「人間は死ねばゴミになる」という世界観も、「ゴミ」という概念が存在しないという世界観も、それぞれにその環境から導かれた価値観だ。善し悪しなどない。
僕は上記の両極端な考えを自分ごととして受け入れられはしないけれど、そういう考えがあるということはしっかりと心に留めておきたいと思う。そしてその上で、自分はどういう価値観の上に立っているのかを考えていきたいのだ。
僕は荒川の水源で、込み上げるような怒りを抱き、理性は止めているにも関わらずゴミを拾った。ただただ純粋に嫌だったのだ。
なにが「世界を善と悪とに二分したくないだ」、なにが「社会的に善いとされていることをしたくないだ」と、怒りの矛先は自分の理性にも向けられていた。ゴミの存在と同じぐらい、賢(さか)しく分別している理性にも頭に来て、さっさと拾えばいいじゃないかと思った。そこにゴミがあることと、理性がじゃまをして拾えないことがものすごく嫌だった。
ぼくはそのとききっと、本当に自分の奥にゴミが引っかかっていると思ったのだった。
だから、あの場面で強い怒りが込み上げてきたということは喜ばしい変化だった。
理性の壁を喰い破って立ち現れる感情は、善悪や正邪の区別などない、もっと深い場所から湧き上がるものだ。ぼくはこのような、無意識の深層から立ち現れるものが示す方向に正直でありたいと思う。
あのとき、このことは書くまいと思ったことをいまこうして書いているのは、あのときの行為は決して「社会的に善いこと」だと思って行ったことじゃないと、ようやく深く納得できたから。そして、何を嫌だと思うのか、何を好きだと思うのかを、遠慮せずにはっきりと口にしていこうと思ったから。
何を美しいと思うのか、何に心を奪われるのかが、世界を変えていくのだと思う。それを形にしていきたいという強い願望があるが、それが善いことかどうかは誰にも分からないこと。
光が粒子であると同時に波動でもあるように、「自分」は境界を持った「個」であると同時に、大地と不可分につながっている「全体」でもある両義的な存在だという考えの糸をもっと辿り、もっと鍛え上げ、ちゃんと届く形に結晶化させていきたい。
(でも力不足で途方に暮れているというのがいまの正直なところ。)
おまけ:
Cocco - Dugong no Mieru Oka (Live Earth)
名曲です。(この曲の背景について、毎日新聞に記事がありました。)
投稿者 tsuyoshi : 2007年08月15日 02:16
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