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2008年01月13日

映画「いのちの食べかた」

おとといの夜、友人に誘われ、「いのちの食べかた」という映画を見に行った。
食べ物の生産と加工の現場を映し続けたドキュメンタリー映画。ナレーションもセリフもインタビューも音楽も一切なく、「意味」というものを極端に排除し、ただ淡々と映像が切り替わるだけの、ストイックすぎるほどストイックな映画だった。92分間、息を止めるように凝視して、見終わったあとは長い潜水をしていたような目眩を覚えた。

驚いた、というのが正直な感想。
あまりに何度も驚いたので、最後には何に驚いたのか分からなくなるぐらい、僕はずっと驚いていた。
そしてそれからずっと、なにかとても原初的な感情のなかにいる気がする。もしかしたらとんでもない作品を見てしまったのではないかと思いつつ、未分化の、名付けようのない感情の中にとどまりながら、分類して消化したり了解済みにしてしまったりしないで、この未分化の感情のなかにできるだけ長くとどまっていたいと思い続けている。誘われたからという理由で、なんの構えもなく見に行ったのだが、思いの外こたえた。ストンと落とし穴に落ちたような不意打ちだった。

この映画は、「現代の食糧生産事情を多くの人に知って欲しい」というパンフレットにあったニコラウス・ゲイハルター監督の言葉そのまま、ただ見て、ただ知るだけのものだった。ただ光景という素材を提供するだけで、それをどう受け取るかは完全に見る側にゆだねていた。何も批判しないし、告発しない。どこまでもただの凝視する目であり続けようとするカメラの視線が、安易な答えへと導くことなく、自分で考えろと突き放す厳しさと、受けとめ方はあなた次第だという寛容に満ちていた。その立ち位置がとても好ましかったから、映画を凝視し続けられたのだが、終わってみるとなぜだか逃げ場所のないところに追いやられている気がした。

「食べる」ということが、ほんとうはどういうことなのか、たぶん僕たちはそのほんとうのことを直視できるほど強い自我を持ち合わせてはいない。直視すると自我が破壊されてしまうのだと思う。「食べる」ということの真ん中には、あらゆる意味と言葉と行為とイメージを無限に創造し、同時に無化するような底が抜けたゼロ地点がぱっくりと口を開けていて、ドーナツの真ん中が食べられないように、僕たちは「食べる」ということの真ん中を直視できない。

でも、直視できないけれど、にじり寄ることはできる。この映画はぎりぎりまで、「食べる」ということの「ほんとうのこと」ににじり寄った映画だと思った。映画の原題は「OUR DAILY BREAD」。光景だけのこの映画において、唯一手がかりになりそうなのはこのタイトルだけだ。訳すと「日々の糧」となるそうだが、かなり宗教的な意味合いを持たせている言葉でもある。掴もうとしても手の中をするすると逃れていく光景たちだが、「OUR DAILY BREAD」という言葉を、記憶の中に釣り針のように垂らし、何かが釣り上がるのを辛抱強く待つしかないのだろう。
いまは、記憶の中で、映画の光景が、居場所を探すように移動し続けていて、やっかいだから考えることを留保していた別の事柄をつぎつぎと起こしてしまうような状態。だから今ちょっと頭の中が騒がしくなってる。しばらくはこの騒がしさに付き合うしかないみたい。おすすめです。

投稿者 tsuyoshi : 20:30 | トラックバック