2008年02月27日

古人骨掃除夫ツヨシ

去年の十一月から、ある国立の博物館の、人類研究部というところでアルバイトをしています。何をしているかというと、遺跡などから発掘された古人骨のクリーニングをしています。
働いている標本資料室には、縄文時代から江戸時代までの古人骨が数千体保管されています。その部屋の一角で、まだ土が付いたままの人骨から、丁寧に土を落とし、きれいにする作業をしています。ときどきはばらばらになっている頭骨を組み立てる作業などもやりますが、だいたいの時間は掃除をしています。仕事は友だちから紹介してもらいました。

この仕事、とっても気に入っています。
骨を一つ持ち、はけや竹串などでこびりついている土などを落とし、きれいに掃除する。きれいになったらその骨を置き、次の骨を一つ手に持ち、またはけや竹串などできれいにする。その作業を延々と繰り返すだけなのですが、こういうシンプルな手作業に、どうも僕は向いているようです。

同じことを繰り返すのですが、工業製品ではないので、当然ながらひとつとして同じ骨はありません。脆いものやしっかりしたものなど、状態がいろいろで、形もいろいろなので、力のかけ具合もいろいろです。使う道具もいろいろ違ってきます。でも慣れてくると、そういうことは考えなくてもよくなります。状況に応じて、ただ手を動かすだけです。
普段ずっと言葉を組み合わせたりほぐしたりしているせいか、頭を使わないシンプルな手作業だということがなにより嬉しいです。とても単調で、それなのに集中を要する手作業なのですが、そういう淡々としたリズムがいいのです。

「どんなひげ剃りにも哲学がある」という言葉を思い出します。どんなことでも、それをずっと続けると、何かしらの観照のようなものを得られると、村上春樹さんは、『走ることについて語るときに僕の語ること』という本で、この言葉を紹介しながら言っていました。(この本はかれの走ることに関するエッセイで、とても面白かったです)骨を掃除することにも、ひげを剃ることや走ることと同じように、それをずっと続けていると、何かしらの観照のようなものが得られるように思われます。

人骨にこれだけ日常的に接するのは、やはり特殊な環境です。でも作業しているときは、それを人骨だとはあまり意識していなく、むしろただのモノでしかなくなっています。そしてときどきふと、これは人骨なんだよなと思います。でもそれはほんの一瞬のことで、普段はやはりただのモノと感じています。人骨の触感は枯れた木に似ています。

ときどき標本資料室を歩き回り、縄文から江戸までの、ずらりと並んだ頭骨を眺めます。それはなかなかシュールな眺めなのですが、決して不気味でも気味悪いものでもありません。むしろ何か、静かで清潔な気配があります。生きている間に感じたであろうどんな強い想いも、骨からはあまり感じられません。きっと骨がからからに乾いているからでしょう。水分がないと、情のようなものも宿りにくいのかもしれません。

作業していると、ときどきとても深く集中していることがあります。ゆっくり、丁寧に作業していると、いつのまにか深い海にどんどん潜っていくような感覚になることがあります。そういうときは時間を忘れています。そして、こんなに深く集中してしまって大丈夫だろうかとふと思い、息継ぎをするように集中を解き、あたりを見回します。

見回すと、いつもの見慣れた頭骨がずらっと並んでいます。標本資料室はだいたいいつも静まり返っており、空調の音しか聞こえません。こういう環境に一定期間身を置くことが、なにかとても好ましいことに思えるので、この仕事を楽しんでやっています。きっと瞑想することにとても似ているのでしょう。瞑想することに似ているなと思うから、なるべく足を組んだりしないで、なるべく背筋を延ばして椅子に座ります。ときどきは姿勢を崩してしまいますが。

掃除し、きれいな状態にする、ということにも得難い充実感があります。
掃除することは、精神衛生上何かしら好ましいものがあります。そしてそれが、日常的には接する機会のない人骨であることが、より効果を増すように思います。ずいぶん土などがこびりついて汚れていた骨が、せっせと掃除することできれいになると、なんだか自分の骨もきれいになったようで、ああいい仕事をしたなと思います。標本資料室には世界中から研究者が来て、ここの骨をあれこれ研究しています。だから人類学に何かしら貢献しているという気持ちもない訳ではないですが、正直に言うとそのような気持ちは薄く、むしろ自分のためにやっています。ぼくは古人骨を掃除したいのです。

でも、集中して没頭しているばかりではありません。とても単調な作業なので、とくに昼食後などはとても眠くなります。眠くなると時間が一向に進まなくなります。そういうときは、眠気のピークを越すまでがすこし大変です。そしてそういうときに、これから掃除する骨が積み上がっている箱を見上げると、スコップでヒマラヤ山脈を切り崩しているような、サハラ砂漠の砂を一粒ずつ数えているような、なにかぐったりとした疲れを覚えます。シーシュポスの神話のように、ぼくは岩を山の上に運ぶことを繰り返しているのではないかという気がしてくることもあります。
でも、眠気のピークを越えてしまえば、ふたたび深い海に潜るような集中が訪れ、充実した時間になります。

ミヒャエル・エンデの『モモ』に、道路掃除夫ベッポという魅力的なおじいさんが登場します。古人骨を掃除しているとき、よくかれのことばを思い出します。

「なあ、モモ」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひと休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」

古人骨掃除夫ツヨシも(いい肩書きだ)、このベッポさんのことばに、おおきくうなずきます。丁寧に、没頭しながらひとつひとつ掃除をしていると、あんなにたくさんあった骨が、知らぬ間にぜんぶ掃除し終わっています。そして自分の向かいたい方に、またほんの少しだけ、舵を切れたような気がするのです。

投稿者 tsuyoshi : 2008年02月27日 01:20

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