2008年07月20日

垂直に大地と繋がっている 「エミリー・ウングワレー展」

複数の友人からすごくよかったと感想を聞いていて、ずっと行こうと思っていたエミリー・ウングワレー展に行ってきた。

エミリー・ウングワレーは、オーストラリア中央の砂漠地帯でアボリジニの伝統的な生活を送った女性。80近くなってから絵筆を取り、亡くなるまでの8年間で3、4千点の作品を描いたのだという。

会場に入ってすぐ、まず作品が視野に入ってきて、紹介文や挨拶文などは後回しで、一気にその作品の世界に吸い込まれていった。画面を点や線や色彩が埋め尽くしている。どれも生命のエネルギーそのものというような、抽象的なもの。何時間もかけて一つずつじっと見て、終わりまで見たらまた始めに戻り、また同じぐらいの集中でじっとみて、どれだけ見ても見終わることなんてないと途方に暮れ、ついにはもうくたくた、お腹がすいた、足が痛いと会場を後にした。

そして、家に戻り、いったいあんなに夢中になって、何を見たのか思い出そうとするのだが、ただすばらしい時間があったということだけが思い出される。それは、目覚めたときに、内容は思い出せないけれどとにかくすばらしいものだったということだけ憶えている夢を見たときのよう。

ほんとうにどれだけ見続けても、見飽きるということがなかった。こんなに長い時間ひとつの絵をじっと見ていられるということがとても不思議だった。きっとまた同じ絵を見ても、同じぐらい時間をかけてじっと見て、見終わることがないと思うのだろう。

どの作品も、圧倒されるほど美しかった。点が異様なまでの密度で画面を覆い尽くす作品も、病的なものを感じさせることはなく、底抜けに健康的だった。きっと、彼女が暮らす大地が、人が必然的に持ってしまう過剰なものを、受けとめているからだろうなと思った。

エミリーはその生涯をほとんど同じ場所で過ごしたのだという。そして彼女の作品はすべて、アルハルクラという土地を描いている。そうやってたった一つの場所に垂直に繋がることで描かれた作品が、エミリーが住んでいた環境とはかけ離れた、日本の、東京の、六本木の、美術館で展示され、その土地とまったく関係のない人々に驚きと喜びをもって迎えられているということが、彼女がいかに深く土地に根ざし、その土地の奥にある数万年という時間のスケールまでたどれる深さにまで根ざしていたことを、端的に現しているように思う。エミリーは、一つの場所に深く繋がることで、普遍的な場所にまで繋がっているのだと思った。

垂直に大地と繋がり、数万年という時間の流れに繋がっていると、これほどまでのエネルギーが、まっすぐ流れ込んでくるということ。そのことが驚きだった。
このような作品を見ると、歳をとることに対する固定観念も打ち砕かれる。高齢なのに、このようなエネルギーに満ちたものが描ける、のではない。高齢だから、このようなエネルギーに満ちている。そんな気がしてならなかった。
一般に若いほどエネルギーがあり、歳をとるほど衰えてくると思われているが、エミリーの作品を見ていると、その自由奔放さ、そのイメージの豊かさとほとばしるエネルギーにとにかく圧倒され、なにか僕は年齢に関することで、とても大きな勘違いをしている気がしてならなかった。

若い木がひょろひょろと頼りなく、ちょっとの嵐でも倒れてしまうのに対し、年を経た大木が圧倒的な存在感で聳え立つように、長い年月をかけてその根を地中深く延ばし続け、その幹を垂直に天に延ばし続けていると、歳をとればとるほど、世界に満ちているエネルギーが、その人に流れ込んでくるようになるのではないか。足腰などはたしかに歳をとると衰えてくるのかもしれないけれど、内面的にはむしろ、樹のあり方のほうがあてはまるのではないか、と思った。

一つの場所から垂直に大地に繋がるという方向。そのようなエミリーのありかたは、憧れ願いながらもかなわない世界だ。水平方向に移動を繰り返し、止み難い流離感を抱き、大地から切り離され、自分の身体がまるで独房のようになっていると感じることのある身にとって、エミリーのその土地との繋がり方は、一つの理想として僕の目に映る。

でも、ばらばらな個人になって都会に住んでいても、エミリーの絵に見入っている間だけは、自我という独房がなくなり、エミリーの世界と溶け合い、数万年という時間の流れの一部になることができていた。
ほんとうは、いま生きているどの一人にも、数千、数万年(あるいはもっと彼方から)の時間が流れ込んでいて、その流れのいちばん先にその人は存在している。「歴史」は一人一人の「身体」に流れ込んでいる。でも、かなしいことに、そのことを感じられる機会はめったにない。彼方からの声に耳をすまそうとしても、周囲は雑音に満ちており、よほど意識的にならない限りかき消されてしまう。

高いビルをつくったり、騒々しい広告をつくったり、憎しみあい、殺しあったり、おぞましい欲望のまま行動したり、人間の行為に下らないことは数限りなく、自分もまたその渦に飲み込まれていて、自分が人間であるということに、なにか汚れた、呪われた思いを抱くことさえあるけれど、このようなすばらしい作品に接すると、これが同じ人間の行為なのだということに、救われる思いがする。人は(あるいは人の中にある自然は)、ときどき美しいとしか言いようのないものを生み出す。そういうものに出会うと、ほんとうに嬉しくなる。そのよろこびは、自分もまた、壮大ないのちの連なりの一部であるということを感じられたよろこびなのだと思う。切り離されているけれど、完全には切り離されていないということを感じられたよろこびなのだと思う。

もともとアボリジニの人々は絵を「作品」として「残す」などという文化とは無縁で、だからエミリーにふんだんにキャンバスと絵の具を与え、その世界を「作品」にして「残す」ということ自体、そしてそれがこのような美術館に展示されるということ自体が、とてもおおきな矛盾をはらんでいることはやはり感じないわけにはいかない。「残す」ということ、「所有する」ということ。そういうことを全然しなかった人々だから、あのような絵が描けたのだろうなと思うと、無邪気にすばらしかったとよろこんでもいられない気もしてくるが、でも、やはり、すばらしかった。このようなすばらしいものが生まれてくる世界観、考え方を、もっと丁寧にたどりたいと思った。きっとそのような世界観をたどっていった先に、新しい風景が開けてくると思うから。

展覧会のHP
(会期は7月28日まで。もうすぐ終わってしまいます。)

投稿者 tsuyoshi : 2008年07月20日 06:18

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