2009年05月15日

穴に落ちる話 『f植物園の巣穴』梨木香歩

本屋の棚を見て歩いていたら、梨木さんの新刊『f植物園の巣穴』があったので買う。

最初の半分ぐらいを3、4日かけて少しずつ読む。夜寝る前に読むと、なにやらとてもいい感じ。この本に限っては、途中で眠くなったり、意識が混濁してきたりした方が、さらにおもしろさが増す。
最後の方を真夜中から読み始め、空が白々としてくるころ読み終わる。それから寝て、起きてからもまだ何か、読後のあたたかさが残っていた。
ここ数日は、なんとなく開いた箇所を読み直すのだが、どこを読んでも何度読んでも味わい深く、すぐにその世界に持っていかれる。

植物園の園丁が、椋(むく)の木のうろに落ちる話、と本の内容を説明しても、ほとんど意味を成さない。とてもストーリー性のあるリアルな夢を見て、でもその内容を説明できないのと似ている。あり得ない出来事がつぎつぎと起こるのに、物語は淡々と進んでいく。常にどこかに可笑しさがある。

主人公は幼い頃、芋虫を飼っていた。そして蛹(さなぎ)となったすぐのものを解剖したことがあった。蛹の中に芋虫はおらず液状化していた。芋虫は、蝶となる前に一旦分解され液状化し、そして新しく生まれ変わるのだという。

この本は、主人公が椋の木のうろに落ち、いままでの記憶が掘り返され、液状化し、新しく組み替えられるような話だった。
主人公は、その落ちた先の異界で、じたばたしながらずっと何かを探し求めていた。最初は何を探しているのかさえ分からず、手探りをしていた。それがいつの間にか「千代」という女性、あるいは「千代なるもの」を探し、そして「千代」に会いたいと強く思った。
この椋の木の巣穴には何が棲んでいるのだろう。この本を読むこと自体が、巣穴に落ちるような体験でもあった。

「穴に落ちる話」というのは、ある意味古典的で、だからこそ常に新しい。
穴に落ちたまま戻って来れないという危険もある。
しかし穴に落ちた先で、主人公はしなやかな生命力を発揮し、戻ってくる。
その「しなやかな生命力」とは、理性的に分かろうとすることを諦め、とにかく受け入れ前に進む力。あるいは、ひょうひょうとしたユーモア。穴の中では、「一般常識」や「論理的思考」は通用しない。そのような、硬い殻に入ったような考えを突き壊すようにそれでも前に進む生命力。そのような力が、埋もれていた記憶を掘り起こし、蓋をしていた感情を解放する。
そしてそれは、著者自身が、穴に落ちた先の世界で冒険し、危険を犯しながらもどうにか戻って来たということに他ならない。

新刊を待ちわびる著者がいるというのはとても嬉しい。
書き出しの、旅行中に歯が痛みだすくだりが、『ぐるりのこと』の「物語を」というエッセイを思い出させる。その古めかしい文体が『家守綺譚』を思い出させる。異界で冒険する感じが『裏庭』を思い出させ、水生植物園を作ろうとするあたりが『沼地のある森を抜けて』を思い出させる。

要するに、今まで読んだ梨木さんの本が、すべてこの一冊に流れ込んでいることを感じる。そのような流れの最先端に、この一冊があるのを感じる。
一人の著者を読み込んでいるということは、そういうことなのだろう。新刊以外にもう読む本がないというのはさみしいが、どこか、著者の川の流れを、その思索の歩行をたどるようで、黙々と進んでいくその足取りは、なにか、ほんとうに新しい場所へと向かっているようで、その足跡は、手さぐりしながら前に進むためのよき目印になる。
一冊も読んだことのない著者の本を読むと、こういうことは起こらない。初めて出会った著者だと、過去の作品へと遡るように読むことになる。そういう読み方もまた楽しいが。

『f植物園の巣穴』から一カ所だけ引用する。
乳歯がとれて、新しい歯の萌芽が見えたときに、「歯科医」が「私」に言う言葉。

——では、新しい歯の萌芽を励ましておきましょう。
訳が分からぬながら、励ますと言われてやめてくれとも言えず、
——頼みます。
そう言うと、歯科医は私の口中に向かい、
——自分が大きくなるときに、誰に遠慮がいるものか。ねたみひがみは蹴散らしてゆけ。
と怒鳴った。

投稿者 tsuyoshi : 2009年05月15日 01:43

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