2009年05月15日

穴に落ちる話 『f植物園の巣穴』梨木香歩

本屋の棚を見て歩いていたら、梨木さんの新刊『f植物園の巣穴』があったので買う。

最初の半分ぐらいを3、4日かけて少しずつ読む。夜寝る前に読むと、なにやらとてもいい感じ。この本に限っては、途中で眠くなったり、意識が混濁してきたりした方が、さらにおもしろさが増す。
最後の方を真夜中から読み始め、空が白々としてくるころ読み終わる。それから寝て、起きてからもまだ何か、読後のあたたかさが残っていた。
ここ数日は、なんとなく開いた箇所を読み直すのだが、どこを読んでも何度読んでも味わい深く、すぐにその世界に持っていかれる。

植物園の園丁が、椋(むく)の木のうろに落ちる話、と本の内容を説明しても、ほとんど意味を成さない。とてもストーリー性のあるリアルな夢を見て、でもその内容を説明できないのと似ている。あり得ない出来事がつぎつぎと起こるのに、物語は淡々と進んでいく。常にどこかに可笑しさがある。

主人公は幼い頃、芋虫を飼っていた。そして蛹(さなぎ)となったすぐのものを解剖したことがあった。蛹の中に芋虫はおらず液状化していた。芋虫は、蝶となる前に一旦分解され液状化し、そして新しく生まれ変わるのだという。

この本は、主人公が椋の木のうろに落ち、いままでの記憶が掘り返され、液状化し、新しく組み替えられるような話だった。
主人公は、その落ちた先の異界で、じたばたしながらずっと何かを探し求めていた。最初は何を探しているのかさえ分からず、手探りをしていた。それがいつの間にか「千代」という女性、あるいは「千代なるもの」を探し、そして「千代」に会いたいと強く思った。
この椋の木の巣穴には何が棲んでいるのだろう。この本を読むこと自体が、巣穴に落ちるような体験でもあった。

「穴に落ちる話」というのは、ある意味古典的で、だからこそ常に新しい。
穴に落ちたまま戻って来れないという危険もある。
しかし穴に落ちた先で、主人公はしなやかな生命力を発揮し、戻ってくる。
その「しなやかな生命力」とは、理性的に分かろうとすることを諦め、とにかく受け入れ前に進む力。あるいは、ひょうひょうとしたユーモア。穴の中では、「一般常識」や「論理的思考」は通用しない。そのような、硬い殻に入ったような考えを突き壊すようにそれでも前に進む生命力。そのような力が、埋もれていた記憶を掘り起こし、蓋をしていた感情を解放する。
そしてそれは、著者自身が、穴に落ちた先の世界で冒険し、危険を犯しながらもどうにか戻って来たということに他ならない。

新刊を待ちわびる著者がいるというのはとても嬉しい。
書き出しの、旅行中に歯が痛みだすくだりが、『ぐるりのこと』の「物語を」というエッセイを思い出させる。その古めかしい文体が『家守綺譚』を思い出させる。異界で冒険する感じが『裏庭』を思い出させ、水生植物園を作ろうとするあたりが『沼地のある森を抜けて』を思い出させる。

要するに、今まで読んだ梨木さんの本が、すべてこの一冊に流れ込んでいることを感じる。そのような流れの最先端に、この一冊があるのを感じる。
一人の著者を読み込んでいるということは、そういうことなのだろう。新刊以外にもう読む本がないというのはさみしいが、どこか、著者の川の流れを、その思索の歩行をたどるようで、黙々と進んでいくその足取りは、なにか、ほんとうに新しい場所へと向かっているようで、その足跡は、手さぐりしながら前に進むためのよき目印になる。
一冊も読んだことのない著者の本を読むと、こういうことは起こらない。初めて出会った著者だと、過去の作品へと遡るように読むことになる。そういう読み方もまた楽しいが。

『f植物園の巣穴』から一カ所だけ引用する。
乳歯がとれて、新しい歯の萌芽が見えたときに、「歯科医」が「私」に言う言葉。

——では、新しい歯の萌芽を励ましておきましょう。
訳が分からぬながら、励ますと言われてやめてくれとも言えず、
——頼みます。
そう言うと、歯科医は私の口中に向かい、
——自分が大きくなるときに、誰に遠慮がいるものか。ねたみひがみは蹴散らしてゆけ。
と怒鳴った。

投稿者 tsuyoshi : 01:43 | トラックバック

2007年03月07日

『アニミズムという希望』

山尾三省『アニミズムという希望』(野草社)

1999年の夏に琉球大学で5日間にわたって行われた講演録。
この本が出版されたのが2000年の夏。そして2001年の夏に山尾さんは亡くなられている。
そんなはずはないと思うのだが、読んでいると、もしかしたら彼は自分の死が近いと知っていたのではないかと思えてくる。
1938年に生まれ、37歳のときに屋久島に移住し、それから二十数年間、詩人として、百姓として、思想家として、耕し、詩作し、祈る暮らしの中で培われた知慧のすべてを、若い世代へ伝えよう、バトンを渡そう、順送りに繋げていこうという、静かな、けれど確かな力というものが、ことばのひとつひとつからにじみ出ている。

内容は非常に多岐に渡るのだが、根底にあるのは、個人として、人類としてどう生きるのかという普遍的な問い。
そしてその問いに対して、新しいアニミズムを現代に再構築するという方向、経済発展という神話にかわる「新しい自然神話」を探るという方向に希望を示している。
彼は、詩人・百姓として在野に生きた人だから、その言葉は、頭の中だけでは決してでてこない確かな質感がある。

読みはじめてすぐに、この本はぼくにとって決定的に大切なものになると思った。
世界中に星の数ほどある本の中に、今、一番読みたい本がたった一冊あるとして、その本がこれだと思った。タイミングがパーフェクトだった。こういう本との出会いは、人生でもっともしあわせなことの一つだ。

だから、できるだけゆっくり、ことばを体に染み込ませるように読んだ。
一回90分の授業を一日三回、それを5日間連続で全15話の集中講演だったので、僕も一日3話だけ読み、きっちり5日間で読んだ。
もちろん読もうと思えば一気に読むこともできるのだが、それはあまりにもったいないと思ったのだ。だから、赤鉛筆で何十カ所も線を引き、ページの端を折り、丁寧にその日の分を読み、次を読みたいのを我慢し、何度も以前の部分を読み直した。実際の授業では自作の詩の朗読がたくさんあるのだが、その箇所はその詩を朗読した。

それぐらい僕にとっては丁寧に読みたい本だった。
決して難しい内容ではない。押し付けがましいところも一切ない。学生に「眠くなったらねてもいい」と言うぐらいなのだから。そしてそれでいて、もっとも大切なことを、もっとも根源的なことを語っている。何十回もはっと気づかされ、何度かは涙が伴った。

個人として、共同体の一員として、人類として、「自分はどう生きるのか」「何を心から願うのか」という問いへは、ただ言葉にするだけでは答えたことにならず、自分の人生で、実際に生きることで答えていく他ないのだが、もし、「ありあまる自由さのなかで立ち往生している」ということばに、自分ごととして胸の中に痛みを感じるならば、この本の中に共鳴することばがあると思う。

実は長らく山尾さんを敬遠していた。
屋久島の山奥にこもり、社会から背を向けている人という印象があったからだ。それがどれだけ偏見に満ちたものだったかをこの本で知り、いま深く恥じている。

ここ数ヶ月間、ある種の危機意識をもって、アンバランスなまでに読書に傾倒していたのだが、この本を読むことで、どうやら一つ峠を越えたなと思っている。あとは実際に、具体的な行為にしていくしかないと思っている。

3月になり、日ごと暖かくなり、もう春がきていることを感じながら、ヒトもまた、植物ほどではないが、季節に大きく左右される生き物なのだと実感している。春にはやはり希望を抱く生き物なのだと実感している。

投稿者 tsuyoshi : 02:07 | トラックバック

2007年02月17日

『同じ年に生まれて』

同じ年に生まれて』大江健三郎 小澤征爾(中公文庫)

『「自分の木」の下で』『「新しい人」の方へ』に続きこの本を読んだ。
大江健三郎・小澤征爾という、世界的に活躍している二人が、芸術について語り、次の世代へのメッセージを語っているもの。

大江さんがいう「新しい人」という言葉が好きになりつつある。
この「新しい人」という言葉を、大江さんはかなり包括的な意味合いで使っているので、はっきりとどんな人なのかを言い表しにくいのだが、僕なりに理解しているイメージで言うと、

「新しい人」とは、難しい対立に橋をかけようとする人。
組織ではなく個人として、一本の木のようにまっすぐ立っている人。
個としての誇りを持っている人。
世界に向けて、他者に向けて、その個を開いていく人。
そして、「新しい人」へと自分を教育し続ける人。
「新しい人」というイメージを次の世代に手渡していく人。

読みながら、なんて若い二人なんだと思った。もう老年にさしかかっているのに、どこまでも若く、新しい人だ。こういう大人の言葉には、すごく注意深く耳を傾けたい。

芸術は、まっすぐ立つ樹木の根のように、個人を内面から支えているということ。
そして、文化の母胎のような、なにかもっとおおきなものへ、へその緒のように人を繋ぎとめていくということ。
社会の病を自分ごととして病む感受性の鋭さがある一方で、それを表現する個自体は健康でなければいけない、ということ。

対談の中でなんどか言及されてた、エドワード・サイードやアマルティア・センなどの学者の本も読んでみたくなった。

投稿者 tsuyoshi : 16:14 | トラックバック

『胎児の世界』

胎児の世界』三木成夫(中公新書)

茂木さんの『脳と仮想』の中に三木成夫さんのことが書いてあり、映画『もんしぇん』のパンフレットにあった文章の中にもこの本のことが言及されてたので読んだ。

なんかすごい本を読んじゃったという感想。
解剖学者というより、三木成夫という一人の思想家が書いた本だと思った。

生物の二大本能は「個体維持」と「種族保存」だということ。
それを僕たちヒトという種は普段、「食事と恋愛」、「食い気と色気」「グルメとポルノ」などと言ったりする。そういう日常的でポップな表現で蓋をしている事柄の奥に、「食」と「性」のどちらにも、正視すると発狂しかねないような深淵がぱっくりと口を開けている。
そういう根源的な場所へ、解剖学者が「比較形態学」という知見を携えて入って行った知的冒険の書だった。

胎児は母胎のなかでどんな夢をみているのか。
「食」と「性」が同時進行するヒトという種のなかにもなお残っている、その位相交替のリズムはどのようなものか。
植物と動物は、それぞれどのように宇宙と交流しているのか。

そういう、自然科学で扱う領域からはみ出してしまうようなことを、文学、民俗学へと領域を横断しながら考察している。
そしてそのような探求を、男という性の「代償行為」「遡行本能」だとあとがきで述べている。「遡行本能」という言葉を読み、沢登りのことを想ったりもした。

投稿者 tsuyoshi : 15:42 | トラックバック

2007年02月04日

最近読んだ本から

最近読んだ本のなかからよかったものの感想を書きます。
読んだ直後に感想を書けばよかったのだけど、ちょっとタイミングを逃してしまったのでまとめてごく簡単に。

・『西瓜糖の日々』リチャード・ブローティガン

小川洋子さん、村上春樹さんが好きだというブローティガン、読みたいなとずっと思っててやっと読めました。小説というより散文の長編詩のようでした。読んでいるときは幻想的で捉えどころがない話だと思っていたけれど、読み終えてから反芻すると徐々にリアリティが立ち上がってきました。こんな不思議な感触の小説は始めてでした。

・『高瀬川』平野啓一郎

『ウェブ人間論』を読んで平野さんに興味を持ったので読んでみた一冊。短篇集です。表題作の「高瀬川」がなんか官能的な小説みたいで、それに惹かれて読んでみようと思ったのだけど、官能小説以上の濃密な描き込みで、それでいて流れるように読める美しさで、すごい!と思いました。「氷塊」という短篇は、どうやって読めばいいんだと混乱するような実験的なレイアウトで面白かったです。どれも、新しい表現を模索する挑戦的なものばかりでした。

・『神さまがくれた漢字たち』白川静、山本史也
・『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』白川静、小山鉄郎

漢字の成り立ちの話。
友人ごうくんが白川さんの本を読んで、「取」と「最」という漢字の成り立ちを教えてくれて、それでほんとうにびっくりしてしまい、それからこの本を読んで、白川文字学に魅了されました。世界観ががらりと変わるぐらいの興奮がありました。学問の分野でこれぐらい魅了されるのは中沢新一さんの『カイエ・ソバージュ』以来です。これからたっぷり時間をかけて白川さんのもっと本格的な本を読んでいきたいと思いました。

興味のとっかかりとなった「取」と「最」がどんな成り立ちなのかだけ、ごく簡単に紹介します。
「取」という漢字の左側は「耳」、右側の「又」は「手」を意味するそうです。そして「取」という漢字は、「左耳を切り取っている図」なのです。かつて戦争のときに敵を討ち取った証拠に左耳を切り取ったことに由来しているそうです。
そして、だれが最も多く敵を討ち取ったか数えるために、「殺して切り取った敵の左耳をたくさん袋に入れた図」が「最」だそうです。

「取」や「最」はよく使う漢字だけど、こういうことぜんぜん知りませんでした。
そして、成り立ちを知ってから「取」や「最」をじーっと眺めると、切り取られた耳から血が滴る様子や、左耳だけいくつも袋に入れ袋の底に血が溜まっているグロテスクな図が目に浮かび、なんて恐ろしい字なんだと本当にびっくりしました。
どの漢字にも呪術的な成り立ちがあって、古代中国の神話的物語に満ちていて、いままで無意識に使っていた漢字が一変しました。


・『「自分の木」の下で』大江健三郎
・『「新しい人」の方へ』大江健三郎

大江さんの、子供に向けて語りかけるように書かれたエッセイ。
誠実な人柄がにじみでていて、とても素直に読めました。そして読後にふつふつと奥の方から力が湧いてくる気がしました。

ちょっと前に『個人的な体験』を読んで、とてもよかったのだけど読むのが大変で、大江さんの小説は苦手だと思っていたけれど、やっぱりこういうすばらしいエッセイを読むとまた彼の小説も読んでみたくなります。それから彼が勧める作家、ナボコフやガルシア=マルケスやドストエフスキーも読んでみたいと思いました。

あと、大江さんが外国語を一つ実用的に使えるぐらいにマスターすることを勧めていて、英語の本を原書で読めるぐらいになりたいなと思い、『ポール・オースターが朗読する ナショナル・ストーリー・プロジェクト』という本を買いました。オースターのダンディーな声の朗読CD付きの本で、なかなか楽しいです。

外国語を学ぶということは、日本語を相対化するということで、自分のしゃべっている言葉を客観視することでもあり、日本語で何かを書いたり考えたりするうえでも大切だということを、大江さんに説得されたのでした。

思えば、大江さんも、村上さんも、梨木さんも、複数の言語が混じりあう混沌とした場を滋養として、新しいものを打ち立てています。言語の混沌とした状況と、そこから生まれる新しい表現は、なぜだかは分からないけどかなり密接な関係にあるみたいです。

以上、とりとめもない感じの紹介になりました。

投稿者 tsuyoshi : 03:22 | トラックバック

2006年12月30日

『黄泉の犬』

先のエントリーで今年の更新はおしまいにしようと思っていたのだけど、
昨日『黄泉の犬』という本を読んでそれがあまりにすばらしくて、
感想を書きたくなってきたので書いてみる。

藤原新也さんの『黄泉の犬』(文藝春秋)を買ったのは一カ月ほど前。でも、見るからに噛みごたえのありそうな本だったので、そのときすぐには読めなかった。
昨日の夜に、ふと手に取って最初の一章を読んでみようと思って読みはじめたらとまらなくなり、7、8時間かけ一気に読了、もう外は朝になってた。

僕は、かつて藤原さんの熱心な読者だった。『印度放浪』『西蔵放浪』『全東洋街道』『メメント・モリ』等々に魅了され、多くの旅人同様、僕にとっても彼はヒーローのような存在だった。旅の途中は、藤原さんの写真を真似たりもしていた。

でも、長い旅を終えたあと彼の写真展に行ってから、なんだか急に冷めていった。なぜだか分からないが、もうかつてのようには魅了されなくなっていた。いつからか彼の写真やことばが、自分にとってそれほど切実なものとは感じられなくなっていた。

だから、『黄泉の犬』は、それほど期待していたわけではなかったのだが、これが、稀にみる傑作だった。

この本は、彼の旅行記でもあり、オウム事件を追う本当の意味でのジャーナリズムの本でもあり、1995年を論じ、現代の日本社会のメンタリティを論じるものでもあるという、多角的なノンフィクション作品。しかし、多くの題材を扱っていながら、それが底流で一つになっていくような興奮を感じさせてくれる。藤原さんの、表現者としての覚悟が痛いほど伝わってくる。

これを読むと、個人の意志というものがいかに時代と密接に連動しているかがよく分かる。ぼくたちがどういう時代に生きているかがよく分かる。

旅立つなどという行為は、極めて個人的な出来事のように思われるが、それがまさに深く個人的で内面的な出来事であるがゆえに、色濃く「社会」の映し鏡になっているのだなと思った。
藤原さんは、ちょうど僕の親と同じぐらいの世代。藤原さんは大学に入ってからしばらくして中退し、インドに旅立った。そのときのことを「動物的な危機回避行動」だったと回顧している。

60年代の学生運動やヒッピー・ムーブメントに象徴されるような、世界に同時多発的に発生した青年による体制への異議申し立てのベースには、そういったやがて訪れる身体や環境の閉塞をいち早く察した、ある意味で動物的な危機回避行動があったのではないかと今の私は回顧している。そのような日本の中における青年の私にとって当面のいらだちというのは“自身の身体が消えて”いくといったフィジカルなものだった。

僕は、この「動物的な危機回避行動」ということばが、自分ごととして非常に深く共感できる。(実は僕の両親も二十代前半に長期の旅をしている。その旅立ちの深層の部分には、やはり藤原さんのようないらだちがあったのだろうか?)

そして藤原さんがそうであったように、僕も自分の身体に対するリアリティの回復がどうしても必要だった。だからこそ、身体を酷使する自転車を旅の手段とし、身体にとって過酷そうなアフリカを出発地としたのかもしれない。

あのときの自分を、90年代後半を生きる思い詰めた一人の青年のサンプル(N=1)としていま思い返すと、やはり自分がいかにその時代のコードに飲み込まれていたか、多少なりとも見えてくる。団塊ジュニア、核家族、テレビゲーム、マンガ、受験勉強、携帯電話の出現、メール、インターネットの出現、等々。

藤原さんの姿勢で徹底しているのは、既成の価値観へ所属することへの嫌悪と、社会的属性を剥ぎ取った、ただの一人の人間として接する態度。
旅とは本来そういうものであるはずだが、それを徹底できるひとはまずいない。あるコミュニティやある価値観からドロップアウトしても、すぐに、もうひとつ別のコミュニティや別の価値観に回収されていくからだ。(日本から脱出したはずなのに日本人宿に沈没し、旅の記憶のほとんどが日本人宿やそこで出会った日本人の記憶に占められている人は多い。もちろん僕も例外ではない。)

そういう意味で、藤原さんの徹底ぶりにはほんとうに驚いてしまう。
インドを旅行すること自体は、今では珍しくもなんともないし、藤原さんの時代でもそれほど珍しい行為ではなかったのではないかと思う。(ちなみに、ぼくがやったような自転車旅行も別に珍しくはない)
でも、彼のように徹底して「異物」であり続ける態度は、よほどの覚悟がないとできないこと。そして、そのようなぎりぎりの立ち位置で書かれたことばには、感染力がある。

憎まれ口のような、皮肉をたっぷり含んだ、シニカルな語り口なのだが、それを裏側から支える言葉はすべて自分の身体で紡ぎだしたものであることがありありと分かるから、信頼して読むことができる。毒のあることばでも虚心に読める。
この本は彼の宗教観を掘り下げているものでもあるのだが、宗教観などという極めてナーバスな問題を、自己陶酔的にならずに掘り下げられている力量は圧巻だった。

表紙は、藤原新也さんのファンなら誰もが知っている「人間は犬に食われるほど自由だ」の写真。ガンジス川の中州に漂着した人間の死体が犬に食われている写真なのだが、この写真を表紙に使うということに、藤原さんのこの本への思い入れや覚悟を感じる。
30年以上書きたくてもおそらく筆力が追いつかなくて書けなかった内容を、満を持してようやく書いたというような本だったのだと思う。

オウム真理教事件を論じる本(特に水俣病と松本被告の関連など)としてもマスターピースだし、
心と身体が引き裂かれていく危うい現代の時代批評としても圧巻だし、
一人の青年の内面の危機を描く、率直な自伝としてもすばらしい。

藤原さんから興味が薄れていた時期もあったけれど、そういう時期に読みのがしていた本も含め、もう一度彼の著作を読んでみたいと思った。

投稿者 tsuyoshi : 20:12 | コメント (2) | トラックバック

2006年12月12日

感想文を書くことについて

ここにちょくちょく読書感想文のようなものを書いているのは、本を読みっぱなしにしないよう、自分にブレーキをかけるため。
結果的によかった本を紹介するということになるかもしれないけれど、どちらかというと自分のために書いてる。

ほんとうは感想文なんて書かないで、次の本を読んだり、別の映画を観たりしたい。なぜなら感想文に費やす時間が場合によってはその本を読んだ時間より多くなったりして、じれったいのだ。

それでも我慢して感想文を書くのは、そうしないとせっかく読んだすばらしい本が右から左に特急列車のように通り過ぎてしまい、ほとんど何の痕跡も残さないような気がしてしまうから。そういうむなしさは、だらだらテレビを見続けたりネットサーフィンをし続けた後に感じる、なんともいえない嫌な疲労感と似ていると思う。

つたない言葉でもいいから何か書いた方が、そのような嫌な徒労感を感じないですむ気がする。次へ次へと読み飛ばしたい欲求は強く、いつもアクセルは踏み込まれてる気がするけれど、読み終わったときに「なにか書くことがある気がする」と思えた作品は、ブレーキを踏んでなにか書くようにしてる。

読んだ本についてなにか書くことは、読み終わった本をすぐにもう一回読み返すようなもの。大切な言葉が指の間からぽろぽろこぼれ落ちるのがもったいないので、ちょっと立ち止まって、あれこれ書こうとするのだ。


でも、素晴らしい作品であればあるほど、安易に言葉にしたりしないで、ただずっと言葉にならないものを抱えたままでいたいと思ったりもするからやっかいだ。どうやって書いてもその作品の素晴らしさ自体は伝えられない気がするし、何かを書いてしまうことで別の大切な何かを失ってしまうような気がするのだ。

梨木香歩さんの『沼地のある森を抜けて』を読んでから感想を書いた時にそのことを痛感した。あのときに「この本は、「境界を越える」という方向を持った物語なのかもしれない。」と書いたけれど、そう書いてしまうことでこぼれ落ちたものがあまりに多かった気がする。

言葉にしたい、言葉にすることで作品をしっかり繋ぎ止めたいという想いと、言葉にしたくない、言葉にならないものをずっと抱えていたいという想いがいつも拮抗している。とくに小説の場合はそれが顕著で、三崎亜記さんの『バスジャック』については、何時間も感想を書こうとした挙げ句、結局ただ「すごくよかった」というようなことしか書けなかった。これでは何も書いていないに等しいとは分かっているのだけれど。

『ねじまき鳥クロニクル』についても、感想を書こうとしたけれど、結局作品自体には踏み込めずにいつの間にかちょっと別のことを書いていた。本当は「ものすごくよかった」ということを書きたかったのだけど。

小説は、作品の内容に立ち入りたくないという想いがどうしても強くなってしまう。作品を解釈したり評価したりしたくないのだ。「すごくよかった」と書くことすらおこがましいことのような気がしてしまうのだ。(まあそれぐらいは書かせてもらうけれど)

だからどんな作品だったかを書くよりも、読後に自分の内面に起こった余韻や波や反響のようなものを書くのがいいのかもしれないな。その本を読むという体験が自分にとってどのようなものだったかを書けたらいいなと思う。

ps.批判的に書きたくなるような本や映画もちょくちょくあり、でもそのほとんどが書き途中で止めている。批判的に書くことは、よかったと書くよりも遥かに難しいし、労が多いわりに不毛感がつきまとうのだ。わざわざくだらなかったと書いてなんになるという思いと、そんなことを書くお前は誰なんだという思いでストップしてしまう。負の感情は連鎖させない方がいいのかもしれないと思ったりする。時にはきっちりと批判的に書くことも大切なのかもしれないけど。

投稿者 tsuyoshi : 12:38 | トラックバック

2006年12月10日

物語の集中豪雪

ここ5日間ぐらい、すっぽりと『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹(新潮文庫)の物語の中に入り込んでいた。文庫本3冊、計約1200ページの大長編小説を夢中になりかかりっきりで読んでいた。

失業中の「僕」が朝の十時半にスバゲッティーをゆでていたら、聞き覚えのない女から電話がかかってくる。
こんな設定からはじまる物語なのだが、そこから様々な物語が複雑にからみ合っていき、夢も現実も時間も空間も複雑に絡まっていき、巨大な迷宮のようになっていく物語。

無意識の領域に、「闇」の領域に、大量のことばが降り積もったような体験だった。7、8年ぐらい前に一度読んだはずなのだが、真っ暗な井戸の中に座る場面や、壁をすりぬける場面をかすかに覚えていただけで、それ以外はほとんどすべて嘘のように忘れていた。だからはじめて読むかのようにはらはらしながら読めた。怖いぐらい深く潜っていくような物語だった。いまはようやく読み終えちょっとぼーっとしている。

そして、物語の内容とは別に、こんなにたくさんの言葉も時間が経てば忘れていくんだなあというのが、ちょっと驚きでもあった。
たいていの小説はなにかの知識や情報を伝えるものではないから、降り積もった言葉は、春になれば融ける雪のようにどんどん融けて忘れていってしまう。

このごろたくさんの本を読んでいるのだけれど、かなりがんばって読んだ本もどうせそのうち忘れ思い出せなくなるのだと思うと、ときどき読んでいる途中にふと深い徒労感におそわれ、何をやっているんだろう?こんなことをやって何になるのだろう?と思ってしまったりすることがある。そして急に心臓の音がばくばくと聞こえてきたりする。活字がまったく頭に入ってこなくなったりする。

そんなときは走ったり、延々と散歩したり、銭湯にいったり、眠ったりしている。
そして、意識の器はとても小さくすぐにあふれるけれど、それは無意識のプールの水を満たしていくのだというイメージを持つようにしている。そうすると徐々に回復し、不思議とまた読みたくなってくるのだ。

いま僕はちょっと自分でも驚くほど片っ端から本を読み続けている。いい作品を、とにかく大量に読みたいと思い続けている。ことばを豪雪のように自分の中に降らせたいのだ。あまり解釈も判断もせず、いま自分に切実に必要だと思われる物語を、片っ端から集中豪雪のように降らせたいのだ。

こんな極端にバランスの悪い生活がいつまでも続くとは思っていないけれど、いまは多少のバランスを犠牲にしてでももっと本を読みたい。いい本をたくさん読みたい。きっとそのうちもうちょっと節度ある距離を保って本を読めるようになると思うけれど(そうじゃなくちゃ困る。あるいは時期が来たらぱたりと読むのを止めるかもしれない)、いまは伸び盛りの子どもがご飯をばくばく食べるように本を読んでる。ブログに感想を書いているのは読んだ本の一部だけで、次の本にとりかかるまえに区切りをはっきりさせたいなと思ったときに、句読点を打つ感じで書いている。

読みたい本はパニックになるぐらいたくさん机の上に並んでいるので、最近は本屋に行くのを自制するようにしている。行けば必ず、運命の恋人に出会うように「これは絶対読みたい」という本に同時に二冊も三冊も出会ってしまい、買わずにはいられなくなり、とてもじゃないが読むのが追いつかないのだ。この津波のような読書欲がぼくをどこへ連れて行くのかは知らないけれど、浮き沈みの激しい、大冒険の、すばらしい日々ではある。

投稿者 tsuyoshi : 07:01 | コメント (2) | トラックバック

2006年12月05日

『個人的な体験』

『個人的な体験』大江健三郎(新潮文庫)を読んだ。

27歳の、アフリカへの冒険旅行を夢見ていた主人公が、頭部に異常のある新生児が産まれてきたと知り絶望し、我が子の死を願いながらかつての女との快楽に溺れ、職を失い、人間の弱さを剥き出しにしながら背徳の日々を送り、そして最後に旅を諦め運命を受け入れていく物語。ノーベル文学賞作家大江さんの代表作。

大江さん独特の、細かく執拗な描写が続き、正直読むのにくたびれた。
非常に重いテーマだから、こちらもめいっぱい気を張らなくてはいけなく、とても負荷の大きい本なのだ。最初の50ページぐらいを読んだときに、あんまりくたびれるから投げ出そうかと真剣に思った。でも、実は先日同じく大江さんの『われらの時代』を最初の30ページで投げ出しており、二度投げ出すのはくやしいので、かなり意地になって読み進め、読了した。
だから感想うんぬんよりも、読み終えたことでほっとしているのが正直なところ。

濃密に描き込まれた絶望の日々を読みすすめることは、その絶望を追体験することでもある。だから、読みはじめてしばらくしてから、ああこんな本読み始めるんじゃなかったと思い、でもムキになって読み進め、読み終えたときは深い水をくぐってようやく水面に出れたような気になれた。

読みながら、開高健の『夏の闇』を思い出していた。
『夏の闇』では、ベトナム戦争で九死に一生を得た主人公が、ヨーロッパのある都市でかつての女と再会し、惰眠と快楽の絶望的な日々を送り、やがてまたベトナムの戦場へ向かうことで再生を予感させて終わる。こちらも、主人公はかなり開高健自身と重なる。両方とも泥沼のような絶望に沈んでいき、最後に底を蹴って浮上するような物語だ。(両方とも改行が少ない黒々としたページなのだが、開高さんの文は苦もなく読める。きっと文体やリズムが自分と合うかどうかは、生理的なものがおおきいのだと思う。)

違いは、最後の再生の仕方だ。
『個人的な体験』では、アフリカ行きを諦め、我が子の父親になるという覚悟で終わる。『夏の闇』では、再びベトナムの戦場へ行くことで嫌悪と倦怠の日々から脱出する。
「ここにい続ける」か「あそこへ行く」かという場所の違いがある。

でも、やはり同じ物語だなと思う。
欺瞞に欺瞞を重ね、性の快楽へ逃げ込みながら絶望し、最終的にトンネルを抜け、一番負荷のある、本当ははじめから分かっていた、それしかない解決策へ立ち返る物語だ。負荷のある人生を受け入れていく物語とも言えるかもしれない。

『個人的な体験』は1964年、『夏の闇』は1972年に書かれている。
これを読んで、もしかしたら現代の多くの人の抱える焦燥と閉塞は、負荷の少なさそのものの中にあるのかもしれないと思った。

劇的なことがなにも起こらない日常の中で、あるいは思考停止せざるをえないような忙しさの中で、それでも何かに追いつめられていくようなおそろしさ。このままでは姿の見えない何かに追いつめられ狭い場所に押し込まれてしまうのではないかという、捉えどころのないおそろしさ。そのような得体の知れなさは、『個人的な体験』や『夏の闇』が書かれた時代と比べ、いよいよ強まっている気がする。

姿が見えるのならば、やはり若者は今だって全力で戦うのだと思う。でも一体何に対してシュプレヒコールをあげ、どんな言葉をプラカードに書けばいいのかまるで分からないから困るのだ。自転車を必死で漕いでもタイヤが地面と接触せずに空回りするばかりだから、ばかばかしくて漕ぐのを辞めてしまうようなものだろう。

全身を賭して取り組むべき本質的ななにかが見当たらずに繰り返される日常の中の、徐々に募る焦燥感と閉塞感。そういう日常を直視した上で、一人称の「僕、私」が引き受けていく物語とはなんなのだろう。きっと、それでもとにかく思考停止だけはせず、全力でジタバタし続け、ぎりぎりでバランスを保ち、その運動の軌跡の中から見つけ出していくしかないのだろうな。

投稿者 tsuyoshi : 20:31 | コメント (4) | トラックバック

2006年12月03日

『バスジャック』

三崎亜記さんの短篇集『バスジャック』(集英社)を読んだ。
デビュー作の『となり町戦争』もそうだったけれど、シュールなのにそこはかとないユーモアに満ちていて、ありえない設定なのに奇妙な説得力がある、すばらしい作品だった。七つの短篇がおさめられていて、どれもそれぞれよかったけれど、その中でも特に「二人の記憶」「動物園」「送りの夏」の三篇は、ずーっと余韻が残るほどすばらしかった。これから彼の出す本は全部読んでいきたいなと思った。

いい小説を読んだときの常で、内容に立ち入った具体的な感想は書けそうにない。
ただただじわっとした共感があるばかりなのだ。
読み終わった人と、どれが一番面白かったか話し合いたくなるような短篇集だった。
どの物語も、読む人によって感じ方がいろいろだろうなと思えるものばかりなのだ。
そして、なにを感じたかなどを語り合えたら、きっとすごく楽しいだろうなと思った。

投稿者 tsuyoshi : 01:27 | トラックバック

2006年11月24日

『憲法九条を世界遺産へ』『日本という国』

なんか、喉が渇いているときに飲んだ水がこれ以上ないぐらいおいしく感じられるのと同じように、このごろ、読む本がことごとくとてもおもしろく感じられ、ごくごくと飲むように読んでいる。きっとものすごく喉が渇いているのだろう。

『憲法九条を世界遺産へ』太田光・中沢新一(集英社新書)と『日本という国』小熊英二(理論社)を読んだ。

旅を終えて大学に復学してからも、ぼくはあまり学ぶことに身を入れていなかったけれど、例外的に面白かった本や授業がいくつかあって、中沢新一さんの本(『カイエ・ソバージュ』等)や小熊先生の授業はその例外。

だから、九条問題を考えたいと思って読んだというよりは、中沢さんの本だからできるだけフォローしていきたいと思って、『憲法九条を世界遺産へ』を読んだのだ。
そんな軽い気持ちで読みはじめたのだが、これがまれにみる白熱した対談で、一気に引き込まれ読了した。九条問題ってこんなに深かったんだ!と驚きだった。

宮沢賢治と日本国憲法、一万年規模の環太平洋の思想の流れと憲法など、ただの法律と政治の話だと思っていた九条問題が、あらゆる領域とつながる全体性の話へとつながっていき、発見の連続だった。
このごろはテレビをほとんど見ないので、爆笑問題の太田さんがテレビでどんな発言をしているのかは知らないけれど、この本を読み一気に好きになってしまった。

『憲法九条を世界遺産に』を読むまえの僕は、九条問題について、はっきりいってそれほど積極的な関心も意見もなかった。
古い時代に作られた法律で、現状と合わなくなってきたから、改憲派はバージョンアップしたがっていて、護憲派はいいものだから守りたいと思ってるのだろうなぐらいの認識だった。

でも、『憲法九条を世界遺産に』を読んだ後は、九条についてどう考えるかという問題が、死刑制度についてどういう態度をとるかということと同じぐらい、自分の人生観、価値観ときわめて密接に関係してくる、もっとも個人的で切実な問題であることがよく分かった。

九条問題は、理想を抱きつづけ、矛盾を抱えつづけるか、ということだった。
そしてまた、悪について、内面にある闇についてのどう捉えるのか、ということだった。

戦争はしない、軍隊はもたない、そうはっきり憲法に盛り込むことは、無邪気なまでの理想主義だ。そんな無邪気な理想を憲法にして掲げることは、普通は出来ないことだけれど、どういうわけか敗戦時に、偶然といっていいぐらい奇跡的に成立した。こんな理想、本当に実現できた国はいままでないし、これから先あるかも分からない。

だから、九条を変えようとするということは、「現実に合わせる」ということで、「バージョンアップ」というのではニュアンスが違ってくる。九条はすでに窮極の理想を語っていて、あれ以上の「バージョンアップ」はありえないからだ。

国家という共同体の擬人化がどれぐらい有効なのかは分からないけれど、理想と現実とのギャップは、自分の人生を見つめれば、きっと誰にだって切実な問題だと思う。

若く無邪気な時期に、なにかのきっかけで「宇宙飛行士になる」「プロ野球選手になる」などと理想を掲げても、ある時期に現実の厳しさに直面し、とてもじゃないけどやっていけないと追いつめられるのが普通だ。そんなときでも、どうにかして「解釈」でしのぎつづけられるか、なのだろう。

理想を掲げるということは、同時に矛盾を抱えるということでもある。
その矛盾を抱えつづける覇気がまだ自分の中にあるのか、もう本当にとてもじゃないけどこれではやっていけないのか。
自分の人生に関して言えば、内心びくびくしながらも、まだやっていけると断言しちゃうけれど、九条についての態度は、これから長い時間をかけて鍛え上げていかねばならないなと思った。


それで、僕は日本の歴史について、基本的なことすら何も知らないと思い、『日本という国』を読んだ。
この本は「歴史」という漢字に「れきし」とルビがふってあるぐらい低年齢の読者を意識した本。これぐらいが分かりやすくていい。(理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの中の一冊)

著者の小熊先生は、僕が行ってた大学で先生をしていた人。
僕は彼の授業をかなり熱心に授業を聞いていた。カリスマ性がある先生で、毎回ポイントだけを箇条書きしたA3の紙を一枚配り、パワーポイントも使わず、視聴覚資料も使わず、板書もほとんどせず、ずっと座って淡々と話すだけというスタイルのストイックな授業だったが、三百人ぐらい入る広い教室はいつも満員だった。

『日本という国』は、考える土台となる基礎知識をわかりやすく解説してくれる本。
知らなければ、考えることすらできないのだから、基礎知識をきっちり知るということは大切だ。さくっと読めたけれど、必要最小限をバランスよくという感じで、いい復習になった。

小熊先生は、常にモノゴトを外から醒めた目でみているという印象がある。
日本という国のナショナリティなど、ナイーブな問題を専門としている先生だからなのかもしれない。

九条問題などナイーブで感情的になりやすい問題を考える時はきっと、小熊先生ぐらい醒めた目で見ることを忘れないようにしないと、ただの感情的な水掛け論になってしまう危険がある。
お笑い芸人が観客が爆笑しているなか表情一つ変えないのと同じように、自分を客観視すること、自分からちょっと外にでてしまうということ。ニュートラルな場所に自分を置くということ。思考停止することなく考え続け、表現し続けていくための態度として、とても大切なことだと思った。

投稿者 tsuyoshi : 10:25 | トラックバック

2006年11月23日

『さよなら、サイレント・ネイビー』

本屋で目にした瞬間に、「これは読もう」と思う本がたまにあるけれど、この本がそうだった。
第4回開高健ノンフィクション賞受賞作『さよなら、サイレント・ネイビー

実はこの賞の第3回に僕の書いたものが最終選考まで残ったことがあり、この賞にはちょっとした縁があったのだが、読み始めると賞のことは遥か後方へ遠ざかっていった。そしてかなり興奮しながら読み終えた。
選考会では4人が満点で、1人が拒否権発動寸前だったらしい。(僕の書いたのは、一人満点二人最低点)僕のときと比べると、はっきり言って県大会と全日本選手権ぐらいのレベルの違いがあった。スケールと視野が違いすぎるのだ。受賞するに決まってる。

地下鉄サリン事件の実行犯豊田亨被告と東大で同級生だった著者が書いた本。
著者の伊藤乾氏は、東大で物理を研究し博士号まで取る一方で、音楽の分野でも活躍しているらしく、現在は東大助教授でもあり、作曲家・指揮者でもあるらしい。

親友だった二人が、ほんのちょっとの違いで、一方は死刑判決を受ける身になり、一方は東大助教授になっている。そういう「偶然のちいさな分岐点」が何だったのか、この社会の構造へと著者が執拗に追う物語。著者には、自分が親友と入れ替わっていないのは「たまたまでしかない」という思いが強くあるから、筆圧はかなり強い。

著者の伊藤氏は、理系の専門的な教育を経ている一方で、音楽家でもあるというキャリアが示すとおり、知性が専門性をどんどん横断し越境していくようなロゴス(全体性)の人。茂木健一郎さんとも似ている知性のあり方で、僕はこういうロゴスの知性のあり方が好きだ。

この本で著者は、脳科学、メディア論、法律、戦争、教育、物理学などを総合し、「オウム的」なものと「日本的」なものの相似を示し、そしてその物語を完全に一人称の自分に引き寄せて語るという、とんでもない知の力技を成し遂げている。この本を書かせる動機の強さ、書かねばならないという危機感に圧倒される。


僕はいままでオウム関連の本では村上春樹さんのインタビュー集『アンダーグラウンド』『約束された場所で』を読み、森達也監督のドキュメンタリー映画『A』『A2』を観、それぞれ非常に強く揺さぶられるようなものを感じてきた。

オウムに対して「異常」「狂気」というレッテルを張り、ひたすら思考停止しようとする人こそが、もっとも「オウム的」(=日本的)なのではないかということを示す、非常に勇気ある仕事だった。

でも、村上さんにせよ、森さんにせよ、立ち位置をニュートラルなものにしようと強く自制していた。いい換えれば、静かに深くコミットしているような態度で事件に接しているのだ。きっとそうでなければ作品にならないからだろう。

一方で、この『さよなら、サイレント・ネイビー』は、被告が友人だという点で、著者の立ち位置がだいぶ違っている。「どうしてあの豊田が?」という極私的な疑問を出発点にしているので、ニュートラルな立ち位置にはなっていない。豊田被告に起こったことを自分ごととして引き寄せながら、「豊田探し」をしているような立ち位置だ。

たいていそのような極私的な立ち位置でノンフィクションを書くと、独りよがりなもの(「私の○○滞在記」などの類いのもの)になる危険があるのだが、そうはなっていないのがすごい。一人称で語る極私的な立ち位置に、深く同時代性があるのだ。そして、同種のことがまだ自分の身にも起こっていないのは偶然でしかないと思えてくる作品なのだ。

キーワードは「局所最適 全体崩壊」という言葉。
オウムを論じることが、日本の病んだ社会の構造を論じることにつながり、「局所最適 全体崩壊」という言葉が、個人の内面においても、この社会の構造においても、切実に響いてくるように思われた。

メディア・マインドコントロール、太平洋戦争時の軍部の稚拙さ、サリン事件以後も続く気の滅入る事件、テレビ、週刊誌等が煽り続けるレッテルの数々、そういうものを全部ひっくるめ、著者は「自分が沈黙を守ることで、これ以上人を不快にしないように」している豊田被告に「豊さんでしか語れない、また豊さんだからこそ語りうることを語ってくれないか」と呼びかけている。

「一人称で語ることの力」と「ノンフィクションの力」をまざまざと感じさせる、すばらしい作品だった。

投稿者 tsuyoshi : 02:35 | トラックバック

2006年11月22日

『地下室の手記』

本を読むことって、こんなに危険なことだとは知らなかった。
『地下室の手記』ドストエフスキー(新潮文庫)を読んだ。
それで、一日中ものすごくいらいらむかむかして、あったま来ていた。

『地下室の手記』は、極端に自意識過剰な主人公の手記の形の小説。
一般社会からドロップアウトし、地下室へ引きこもった者の、終わりのない自己嫌悪の手記。
インテリで、本をたくさん読んでいる主人公が、世の中すべてへ不満をぶちまけている。
とにかく、自嘲と、自己嫌悪と、呪詛と、劣等感と、その裏返しの優越感の無限地獄にいる、ルサンチマンの塊のようなやつだ。ずっと恨みつらみを叫び続けてる。こんな嫌なやつはいない。

この小説が恐ろしいのは、この最悪の主人公が、僕自身の嫌な部分を反映していると感じられてしまうことだ。だから、もっとも読みたくない小説で、もっとも頭に来る小説なのだ。
このインテリめ!この頭でっかちめ!と読みながらずーっと主人公に腹を立ててたけれど、それが自分に対しても腹を立てることにもなるから、嫌になってしまう。

でも、もし学生時代の、大学の居心地の悪さを強烈に感じてたころにこの本を読んだとしたら、「嫌になってしまう」どころではなかったかもしれない。
きっと感想を書けるような余裕などなく、身動きが取れなくなったと思う。自己嫌悪のナイフで、心の中に多量の血が流れたに違いない。まったく、猛毒の小説だ。

主人公は、ひたすら「地下室」にひきこもって手記を書いている。合わせ鏡の中に映る自分の姿を、一人づつ順番に嫌悪しているような手記だ。あるいは、たまねぎの皮をむくようにいつまでも自分を探し続けているようだ。そんなふうにしても、どこにも辿り着けないのに。

合わせ鏡を覗き込んでも、自分はどこにも見つからない。
たまねぎは全部皮からできている。自分の「中身」をみつけようと、自分を覆っている皮を痛い想いをしてはがしても、剥がした先に現れるのはまた皮だ。
「地下室」からは、いつかは出なくてはいけない。「地下室」から出て、他者との関係性の中に入り込まないと、逃げ場であったはずの地下室が、牢獄になってしまう。

思想的には、この小説は理性万能主義を否定し、インテリによる暴力的な社会主義革命を批判しているものらしい。
でも、そのよう思想的、政治的な背景とは関係なく、僕はこの小説を、本をたくさん読んで頭でっかちになりすぎた者の引きこもり小説として読んだ。

そしてそう読むと、嫌になるぐらい同時代的な作品なのだ。
現代に生きる僕にも、十分すぎるほどの切実さを感じさせるのだ。
実はドストエフスキーを読むのは初めてだったのだけど、
おそろしいまでの生命力のある作品を書く人だと思った。

もう『地下室の手記』は読み返さないと思う。
こういう本は、服用に注意しないと、毒が強すぎて危ない。
毒にも薬にもならない本は読んだあとあっさり消化してしまうが、
毒が強すぎる作品は、精神のバランスを著しく崩す可能性がある。

投稿者 tsuyoshi : 06:25 | トラックバック

2006年11月20日

『やわらか脳』『わが悲しき娼婦たちの思い出』

茂木健一郎さんの『やわらか脳』(徳間書店)を徹夜で一気に読んだ。
彼のブログ「クオリア日記」を整理したもの。
なんか、ふつふつとエネルギーが湧いてくる感じで、ああいいものを読んだなあ!という興奮を感じつつ、どうにかその興奮を制御しこれを書いている。

僕は茂木さんの本を結構読んでいる。読書記録を見直すと、いままでに9冊も読んでいた。(『脳とコンピューターはどう違うか』『脳内現象』『「脳」整理法』『脳と創造性』『脳の中の人生』『ひらめき脳』『食のクオリア』『クオリア降臨』『脳と仮想』)

どれもそれぞれとてもおもしろかったが、もし誰かに彼の本で一番最初に何を読んだらいいか尋ねられたら、僕は今回読んだ『やわらか脳』を勧めると思う。なぜならブログが元になっているからか、茂木さんの真骨頂である即興性が生き生きと現れているからだ。茂木さんのユニークなクオリア(質感)がダイレクトに感じられるのだ。

『脳と仮想』の中に、小林秀雄の講演テープを聴いた衝撃を受けて、「話し言葉の生々しい臨場感、肉声を通して伝わってくる小林秀雄という人物の塊のようなもの」に強く惹かれたことが書いてあった。

『やわらか脳』は書き言葉だが、畳み掛けるように書かれた鮮度ある言葉だからか、茂木さんの肉声に近いものが感じられ、茂木さんの一番コアな部分がむき出しになっているように思えた。あらゆる領域を軽々と横断していく知性のあり方に興奮した。だから、『やわらか脳』を入り口にして、しかる後にそれぞれの専門性のあるテーマの本を読むと、茂木さんとのファーストコンタクトがしあわせなものになるのではないかなどと思った。

茂木さんは、なにかに恋しているのだと思う。
大竹伸朗さんの展覧会を見たときも思ったけれど、きっと彼らは、無限、美、永遠、真理、芸術というような言葉の裏に隠れている「なにか」に抗い難く想いを寄せ、どうにか想いを伝えようと、あの手この手でのたうち回っている。開高健さんも、クライマーの山野井泰史さんも、片想いの人だと思う。求めて止まない精神のリズムに殉じている。惚れていることを真正面から認め、技術の限りを尽くし、「なにか」を掴もうとしている。その片想いの苦しさ、切なさに胸が苦しくなり、想いに殉じる甘美と恍惚に嫉妬する。僕は、そういう表現者にとことん惹かれる。

片想いは、どうしたってブザマでぎこちないものだ。
いままでの僕の経験を思い出すと、そのブザマさがありありと思い出され逃げ出したくなる。でもその時の僕は、自分のどうしようもない欠点をどうにか克服しようと、そしてどうにか想いを伝えようと、必死で転げ回っていた。全力疾走していた。そのときに発するエネルギーは凄まじいものがあった。そして生命の躍動(エラン・ヴィタール)に満ちていた。現在の一瞬一瞬が永遠になっていた。

昨日『わが悲しき娼婦たちの思い出』ガルシア=マルケスを読んだのだが、そこには90歳の老人が14歳の少女に、雪崩のように恋をして心を焦がす話が書かれていた。身も蓋もない話なのだが、それを読んで、90などというように計量化・数値化できないその人の魂の年齢を感じた。90歳の老人の、ぶざまでみっともない、そしてそうであるが故に魅力に満ちた生命が躍動していた。そして、ああこうでなくっちゃなと思った。肉体の衰えと、恋の真剣さ、切実さがからみ合い、すばらしい作品だった。

きっと異性に恋するのも、スポーツや学問や芸術などに恋するのも、そのときの精神のありようは同じだとおもう。切実さのクオリア(質感)に違いはない。

恋している人は、張りつめた表情をしていて、とても美しい。
「片想いの人」の作品も、その生き方も、どこかに張りつめた精神のリズムがあるから、生きることを鼓舞してくれる力がある。
このごろ浴びるように本を読んでいるが、いい本に立て続けに二冊も出会えてしあわせである。

投稿者 tsuyoshi : 08:16 | トラックバック

2006年11月12日

『神の子どもたちはみな踊る』

かつて読んだ本をもう一度読んでみて、これほど印象が違うものかと思った経験はいままでない。
『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)という村上春樹さんの短編集は、かつて旅の途中にスイスで読んだから、6年ぐらいまえのことになる。
でも、そのときのぼくにはそれほど強い印象を残さなかった。ふーんと思うぐらいで、特に感想というものもなかった。

でも今回読み直してみると、自分のもっとも深い部分で共振するような、いまの僕にとっていちばん大切な物語に思えるのだ。この読後の印象のあまりの違いに驚いている。
それは、読書というものが自分の中で大きな位置を占めてきた、村上春樹という作家に対する信頼がこの6年の間に大きく育っていた、あるいはあのときよりも「物語」というものに自覚的になっている、ということなのかもしれない。
それに加え、いまぼくが一カ所に「とどまっている」ということも関係しているのかもしれない。あのときは常に移動する生活をしていたけれど、いまは物理的には同じ場所にとどまっている。そういう生活のリズムが、この小説と共振するようなものを形作っていたのかもしれない。よくわからないけれど。
ともあれ、この六つの連作短編集から立ち上がる、願いのような、祈りのような、求めるような気持ちを、ぼくもいま同じように切実に願い、祈り、求めているのだと思ったのだ。

この連作短編集は、どれも阪神大震災を背景にしている。
地震の揺れの、物理的ないみではない「共振」を描いているように思う。他者の痛みへの想像力を描いているのかもしれない。重層的な意味を帯びた、非常に象徴的な物語群だった。物語がしっくりと心の奥に入ってきて、いまでも深い場所で震動しているような気がする。

村上さんの、同時代に対する態度が好きだ。
この時代が抱える闇の部分に目を背けず、むしろ進んで引き受けるような態度と、それを作品として提示できる力量は、ほんとうにとびぬけてすごいと思う。いまという時代の底の方を流れているものが、村上さんという通路を通って作品になっているような感じがするのだ。そのような、同時代への深く静かなコミットに深く共感している。
ぼくは日本人であることに対する想いのようなものはそれほどないのだけど、村上さんの作品を発表されたらすぐによめるから、日本語が読めて本当によかったなと思う。翻訳されるのを待つのはかなりじれったいだろうから。

投稿者 tsuyoshi : 05:10 | トラックバック

2006年11月11日

「スーパーマーケットにて」

昨日の夕方、モスバーガーで『夜のくもざる』村上春樹著(新潮文庫)を読んだ。
原稿用紙3、4枚ぐらいの「超短編」小説が36本。どれもシュールで、可笑しくて、ナンセンスで、教訓と意味がありそうで、でもよく考えると肩すかしをくらってしまうような下らない話ばかり。村上さんの悪のりして書いている姿が目に浮かぶような、とっても楽しいものばかり。
たとえば、「フリオ・イグレシアス」という話はこんな一文ではじまる。

蚊取線香をだましとられたあとでは、もう海亀の襲撃から身を守る手だては何ひとつ残されてはいなかった。

ナンセンスすぎて、書こうと思ってもちょっとこうは書けない。すごいなーと思いながら、なかなかあたたかい気持ちになり、モスバーガーを出た。
それから、セイユーへ行って買い物をし、とぼとぼ家までの道をあるきながら、この本についてどんな感想を書こうかとあれこれ考えていたら、ちょっと『夜のくもざる』的トーンでぼくもひとつ話を書いてみたくなった。こういう作り話を自分でも書いてみたくなっちゃうような本なのです。

というわけで、以下がその書いたもの。意味もなく、なんの役にも立たないお話です。前回の文章に小説とはうんぬんと書いて、その直後にこんな文章をのせるのはいかがなものか、とは思うんだけど、でもよかったら読んでみてください。題は「スーパーマーケットにて」です。

------------------------------------------------------------------------------------------

「スーパーマーケットにて」

あのときあんなことをとっさに言ったのは、あるいはモスバーガーで村上春樹の『夜のくもざる』を読んだあとだったからかもしれません。
すっかり暗くなったころ読み終えて、モスバーガーを出ました。
それから駅前のスーパーマーケットへ行き買い物をしました。まずエスカレーターで二階へいき、かごを持って魚売り場でほっけの開きを一つ入れました。それから肉のコーナーで三割引になっている豚ハツとしろもつを入れて、味付きの牛肉とインゲンのパックも半額になっていたので入れました。(いつもぼくは安くなっている肉しか買わないのです。ちょっと切ないですね)それから、しょうゆと料理酒が切れているのを思い出し、それぞれかごに入れました。450グラム入りのスパゲッティとインスタント麺とベトナム麺のフォーを入れました。
階段で一階へおりて、しめじと焼きそばとレーズンバターロールを入れて、さいごに6個入り卵パックを入れ右から二つ目のレジへ行きました。
レジ係の女の子は素敵な笑顔で「いらっしゃいませ」と言いました。目が合ったので軽く会釈をしました。
女の子がバーコードを読み取っている手元をみながら、全部で2000円ぐらいかな、と思いました。2100円にはなるまい。1900円は越えるだろう。スーパーで会計を待つ間はいつも、ぼくは合計金額を予想しているのです。

レジ係の女の子は「1977円になります」と言いました。ぼくは予想どおりだったことに気を良くしながら、千円札を二枚とりだしてレジ係の女の子に渡しました。「二千円お預かりします」女の子がそう言ったときに、また目が合いました。ぼくは1977という液晶の文字を指差して、「ぼくが生まれた年」と言っていました。言ってからすぐに、しまったと思いました。スーパーマーケットのレジは、そんな個人的なことを言っていい場所ではないのです。
案の定女の子はちょっといぶかしげな顔をしてお金を受け取りました。でもレシートと23円のおつりを手渡すときに、いたずらっぽい笑顔になって自分を指差し「23歳」と言いました。

さて問題です。どこから作り話でしょう。
「ぼく」の願望などに考慮して答えてください。
解答時間は3万年です。ちくたくちくたく…

投稿者 tsuyoshi : 15:24 | コメント (4) | トラックバック

2006年11月10日

『完璧な病室』小川洋子

僕は小説も好きだが、エッセイや対談もかなり好きだ。
小説は、その物語の世界に入っていくときにエネルギーを使うが、エッセイや対談は気軽に読めるからいい。

先日、『深き心の底より』(PHP文庫)という小川洋子さんのエッセイ集を読んだ。
ごくささいな身の回りの出来事が書かれたエッセイなのだが、どの言葉も大切に扱われているという気配に満ちていてとてもよかった。裏表紙に「言葉の石を一個一個積み上げたような」とこの本が紹介されているが、本当に彼女が丁寧に石を積み上げている様子が想像できるようなエッセイだった。
さらに、彼女の旧姓が僕とおなじ本郷だということがエッセイを読んでいて判明した。こういう偶然の一致があると、急に親近感が湧いてくるものだ。彼女の小説も読んでみたくなった。

それで今日『完璧な病室』(中公文庫)を読む。彼女のデビュー作を含めた最初期の短編集。
作者の、もっともプライベートな部分、普段の会話では絶対にしゃべらないだろう、心の一番やわらかい部分が、こわれそうなほど繊細に描かれていて、読みながら息が詰まった。土足で彼女の心のなかに入り込んでしまっているような後ろめたさすら感じた。

彼女のベストセラーの代表作『博士の愛した数式』を読んだ時とはちょうど正反対の印象だった。『博士の愛した数式』を読んでいる時は、小説を書くことが楽しくて仕方がないような、弾むようなリズムがあったのだが、『完璧な病室』の4短編はどれも、どこにも行けないような閉塞感があった。

『完璧な病室』は、主人公の身体が感じる快感と嫌悪の入り交じった物語だった。自分の身体に閉じ込められている閉塞感の物語だった。
その手触りの切なさ、匂いのグロテスクさ、味の甘美など、作者が丁寧に描き込むことで立ち上がる、繊細で、透明で、悪夢のように残酷な質感に目眩を覚えるほどだった。

そして、本当に自分の身体ほど逃れられないものはないと思った。
どれだけ美しいものを志向しても、どれだけ普遍的で天上的な世界を志向したとしても、この身体はいつでもぴったりと自分に張り付いている。たとえアフリカの奥地まで逃げたとしても、この身体からは逃れられない。
もっとも私秘的で、個別的で、だからこそ切実なものが自分の身体なのだと思う。どんなに理不尽だろうが受け入れるしかなく、一生逃れる術がないのだから。

『完璧な病室』には、女性の立場から、透明な快楽とその底知れなさが描かれていた。
女性性の底知れなさと恐ろしさのようなものばかりで、読み終わったらすぐに閉じて本棚にしまい、「こっち側」に戻ってくる必要があるような物語ばかりだった。

小説は「あっち側」の物語だと思う。
だから小説の世界に入り込むときは、川を渡るような、トンネルをくぐるような、線をまたいでいく感覚がある。
(以前小説をまだほとんど読んだことがなかったときは、この「またぐ」感覚がよくわからず、したがって物語がリアルに立ち上がらず、なんだか小説ってつまらないなと思うことがよくあった。)

そして小説は、どこまでも私秘的なものを土台とした、孤独な表現形式なのだとおもう。
作者その人しか書けない物語だからこそ、どこか普遍的な様が現れてくるのだと思う。
逃れようと思っても絶対逃れられない「個」というものを引き受けて書かれた作品が、「全体」を立ち上がらせる。そんな一点突破の表現形式だ。

『完璧な病室』は、自分の身体に幽閉された「個」というものを、ぞっとするほどの丁寧さで描き出していた。すばらしい作品であることは間違いないが、正直再読したいとは思わない。

投稿者 tsuyoshi : 02:03 | トラックバック

2006年10月28日

『私という小説家の作り方』大江健三郎

ハウツー本のようなタイトルだけれど、第十章の章題になっている「小説家として生き死にすること」がこの本の内容を表していると思う。とても真摯で誠実な自伝として読んだ。

大江健三郎を読むのはこれがはじめて。
たしか高校のころに課題図書かなにかで『個人的な体験』を読もうとしたけれど、はじめの数ページで挫折した覚えがある。文字がぎちぎちに詰まっていて、もうそれだけで頭に来てしまった。でも今回は読めた。そのなかにこんな言葉があった。

読書には時期がある。本とジャストミートするためには、時を待たねばならないことがしばしばある。しかしそれ以前の、若い時の記憶に引っかかりめいたものをきざむだけの、三振あるいはファウルを打つような読み方にもムダということはないものなのだ。

この『私という小説家の作り方』も、じつは数年まえに三振し、ずっと本棚に眠っていたもの。でも今回はなんとか出塁できたようだ。
彼の投げたどんな球が僕のバットにあたったか、何箇所か引用してみる。

私はいつも緊急避難の小さな船が港に入るように、人生の時の嵐を避けて、これら詩人のもとに身をひそめたのだ


すでに小説はバルザックやドストエフスキーといった偉大な作家によって豊かに書かれているのに、なぜ自分が書くのか? 同じように生真面目に思い悩んでいる若者がいま私に問いかけるとしよう。私は、こう反問して、かれを励まそうとするのではないかと思う。すでに数えきれないほど偉大な人間が生きたのに、なおきみは生きようとするではないか?


耳を澄まし、眼を見開くようにして、そこをみたしている沈黙と測りあう言葉を探す自分、というところに立ち戻る

こういう言葉が、いまの僕のバットの芯の部分にあたる。ここ以外にも、線を引きページの端を折った箇所がずいぶんたくさんあった。

高校時代に、たった数ページ読んだだけで、「文字がぎっしり詰まっているから」という理由で挫折した大江さんの本。
でも、球を投げる側が、生き死にを全部込めたようなボールを投げているのだということを知ると、ああちゃんと打席に立たないとと思った。そして、彼の小説も読んでみたいと思った。

投稿者 tsuyoshi : 04:45 | トラックバック

2006年09月06日

『サバイバル登山家』

先日、久しぶりに奥秩父に沢登りに行った。
友人と三人で一ノ瀬川本流を遡行した。この沢はとにかく泳ぐ沢で、久しぶりの沢登りだったからか三人とも大はしゃぎでゴルジュ(谷の両岸が切り立った場所)へ突っ込んでいった。でも天気はいまいちで、何度も冷たい水の中を泳ぐから寒くて仕方なく、途中からは無理矢理はしゃいでテンションを上げていたが、ともかくとても楽しかった。

倒木になめこを見つけたのは、ゴルジュを突破して休憩しているときだった。もし、『サバイバル登山家』服部文祥著(みすず書房)を読んでいなかったら、ただ「なめこらしきものがあるな」と思っただけだっただろう。でも、この本を読んだ後だったので、これが本当になめこかどうか確認することは死活問題だと思えた。だから僕は袋に少し入れてもって帰り、翌日にみそ汁にしたのだ。

翌日家で、なめこをよく洗い、くんくん匂いをかいだり、眺め回したり、ほんの少しだけかじったりした。それからしっかり昆布でだしをとり、タマネギとなめこを入れて、みそを入れて完成。
ちょっとどきどきしながらひとくちだけ食べて、しばらく様子をみる。お腹も痛くならないし、笑い出したり、幻覚を見たりしてもいない。というより、かなりうまい。
これは大丈夫そうだと思いつつもうひとくち食べて、様子を見る。なんというか、むちゃくちゃうまい。そしてしばらく経ってもなんともないので、全部食べた。

舌とは旨い・まずいを判断するものではなく、本来は「食べられる・食べられない」を味わい分けるための器官ではないかと考えるようになった。(中略)
食べられるものは旨い。食べられないものはまずい。舌をそんなシンプルな道具として使いうることは生命体としての喜びである。(『サバイバル登山家』より)

きっとスーパーでなめこを買ってみそ汁を作っても、味は同じようなものだろう。でも、あのなめこのみそ汁のうまさには、買ったものでは得られない「生命体としての喜び」という隠し味があった。きっと、舌を根源的な用途に使ったという喜びなのだ。
自力で食べられるものを見つけたというのは誇らしいものだった。食べられるきのこを一種類同定できたという喜び、それにより将来にわたり食料をひとつ獲得できたという喜びが、最高の調味料になっていた。
生きることが食べることであるならば、「ただのきのこ」が「食べられるきのこ」になるということは、命がふくらむような、シンプルで根源的な喜びなのだ。


『サバイバル登山家』という本の背表紙にはこう書かれている。

「生きようとする自分を経験すること、僕の登山のオリジナルは今でもそこにある」(中略)
「生命体としてなまなましく生きたい」から、食料も燃料もテントも持たず、ケモノのように一人で奥深い山へ分け入る。南アルプスや日高山脈では岩魚や山菜で食いつなぎ、冬の黒部では豪雪と格闘し、大自然のなかで生きる手応えをつかんでいく。
「自然に対してフェアに」という真摯な登山思想と、ユニークな山行記が躍動する、鮮烈な山岳ノンフィクション。

この本を読んだという経験は、自分にとって決定的な出来事だったと後で思い返すのかもしれない。読みながら、とても現実的な側面で、何かが動き出すのをはっきりと感じていた。極めて大切なヒントがちりばめられているような本だった。

この本には、自分が書きたいと思っている種類の文章が書かれていた。自分の体験したことを掘り下げ、普遍の水脈まで掘り下げようとする文章。一人称の体験を、深く考え続け、平易な言葉にすること。この本は、著者の体験から自然に湧き出てきた言葉ばかりだから、言葉が狡い道具になっていなくて、そのことがなによりよかった。そして、著者の服部さんの、ものごとの捉え方、感じ方に驚くほど共感していた。

「肉屋」と題された文章は、かつて自分が書いた文章と本質的には同じだったので驚いた。他の文章はすべて登山について書かれたものだけど、この文章だけは登山とは関係のないものだった。パキスタンのフンザで見た、牛の屠殺について書かれた文章だった。その文章の最後はこうなっていた。

僕は肉屋の男のように牛を殺すことができるのだろうか。もしできないなら、僕に肉を食べる資格があるのだろうか。(中略)
どうやら……と僕は思った。
もう一度こんな機会に遭遇したら、今度は僕が牛を叩く役をやらせて貰わなくてはならない。

この文章は、マリのドゴン族のマーケットでの、羊の屠殺について書いた文章と同じだ。僕は以前にこう書いたのだ。

ナイフを持ったら、僕はひるむだろうか。死の恐怖におびえた動物の前で、殺せない、と逃げるだろうか。いや、きっと…。
知っていることと、見ることは別だ。
そして見ることと行うことも別だ。
恐れながらも、機会があれば、きっと、と思った。
(以前書いたこの文章より)

屠殺を目撃した時のリアクションが同じだということは、「フェア」という言葉が意味する内容が同じだということでもある。

「フェア」という考えは、別の言葉で言うと「野性の思考」であり、「対称性の論理」である。以前ぼくは中沢新一さんの『対称性人類学』(講談社選書メチエ)という本をむさぼるように読み、とても強い影響を受けたのだけど、その本に出てくる「対称性無意識」や「神話的思考」や「流動的知性」という言葉を、具体的な次元で発露させているのが、「サバイバル登山」という方法なのだろう。

「サバイバル登山」は服部さんの造語で、簡単に規定すると「電池で動くものと燃料を山に持って行かない。食料は米と調味料だけ」となるのだという。基本的には現地調達でどうにかするのだ。
人間を、より野生動物に近い状態にするということ。そういう方法で立ち現れる「人間」という種を経験するということ。野生動物との差異を、あるいは野生動物と同じだということを、経験するということ。

この「サバイバル登山」という方法には、「自然」というものに対する、とても大切な思考の萌芽が隠されているように思う。そしてそれが、優れた文明批評にもなるのだと思う。中沢さんの『対称性人類学』の最後の方にこう書いてあった。

ホモサピエンスとしての私たちの「心」の基体は、すべてのものを商品化していく資本主義によっても、無意識の大規模な抑圧の上に構築されたキリスト教的一神教によっても、満足を得ることができません。(中略)
対称性無意識とは、私たちの「心」の働きを生み出している「自然」にほかなりません。形而上化された世界をもう一度、対称性無意識の働きによって、「自然化」する必要があるのです。(『対称性人類学』より)

「もう一度「自然化」する」ということは、「サバイバル登山」という方法そのものだ。だから、無意識の原初的抑圧を解放するような力が、思想的にきわめてラディカルで根源的なものが、「サバイバル登山」には隠されているように思う。

これからの登山の役割について服部さんは「歴史的な役割は終わったのかもしれない。だが、登山の思想的な役割はまだ始まったばかりである。もしかしたら登山ははじめからその役割のために存在したのではないかとさえ僕は思っている。」と書いている。

山から若者がいなくなって久しい。でも、フリークライミングには若者は集まっている。それは当然だと思う。端的に言って、ただ登山道を歩くだけでは若者を魅了する思想的な新しさがないからだろう。若者は、直感的にフリークライミングの「フリー」という思想に惹かれているのだろう。

この本を読むと、フリークライミングの「フリー」という思想を沢登りに応用するという発想が、どれだけ奥深いものを見せてくれるかを感じられ、無性に沢に行きたくなる。それも単独で、長い沢に、なるべく装備を減らして行きたくなる。そして、真っ暗な森の中で、ひざを丸めて眠りたくなる。

『サバイバル登山家』という本の中から引用したい箇所は無数にあって、どこを引用するか困るぐらいだ。でも最後に一カ所だけ、ああいいなと思った、焚き火の描写を引用する。

薪が炭に変わっていくと焚き火の炎がふらつきだす。火が弱くなり、風が吹いてまた、勢いを取り戻す。そのたびに周りの世界が明滅し、ふっと炎が消えると世界も暗闇に消える。足元で赤いホダ火が小さな虫のかたまりのようにうごめいている。新たな薪をくべて風を送る。煙が上がり、すぐに炎に変わる。炎が出ると、そこを中心にしたオレンジ色の丸い世界がふたたび浮かび上がる。岩魚や石、周りの樹々の炎に向いている側だけがオレンジ色に照らされ、裏側は吸い込まれそうなほど黒い。

登山用のガスコンロを持っていき鑑賞用におこす焚き火と、燃料を持っていかないで、必要だからおこす焚き火は、一見同じものかもしれないが、やはり後者の方が美しいだろう。それはスーパーで買ったなめこと、自分でみつけたなめこの味が、舌の上で起こる化学反応は同じでも、その質感がまるで違うということと同じだ。

この焚き火の描写を読んでいると、「サバイバル登山」とは、世界をより美しくするための方法なのかもしれないと思えてきた。そう考えると、なんて素敵なことなのだろう。
そして、僕もこんな美しいものをもっと見たいと思った。おなじ世界を、どうせ同じならばより美しいものだと思いたい。

僕は単独で山に行くと、頭の中でずっと女の子に手紙を書き続ける癖がある。歩きながら、あるいは焚き火を眺めながら、心の中に湧き出てくる言葉を、手紙に延々と書き続け、やたら長い手紙にしている。そうやって頭の中に書かれた手紙は、まず実際には出さないけれど、書き途中の手紙がたくさん引き出しの中にしまわれて、ちょっと切ないような楽しさがある。でも、たまには実際に手紙をだしてもいいかもしれない。受け取る側が重たく感じない程度に(つまりは大幅に)減量して。

単独で山に入るということは、社会的属性をすべてはぎ取り「個」になるということである。
そのように「個」になったときに、別の「個」に、あるいは「群れ」に、強くコミュニケーションを取りたくなるというのは、人間の切ない性(さが)なのだろう。

単独行が好きな人間は、寂しがりやで人恋しいから、一人で山の奥へ向かうのだ。そして遠く離れた場所に行ってからやっと、たどたどしく心の中でメッセージを送る。でもそういう場所で湧きあがる言葉こそ、本当に深く届くもの、しっかり腹にたまるものになるのではないだろうか。
だから、よりシンプルなスタイルで、びくびくしながら、自然の奥深くへこれからも分け入って行きたいと思った。




一ノ瀬川本流の遡行の様子。撮影はすべてごうくん。
動画はごうくんのHPへ。赤いヘルメットで「だめだ…」と情けないことを言っているのが僕。

投稿者 tsuyoshi : 22:09 | コメント (2) | トラックバック

2006年08月28日

『沼地のある森を抜けて』

梨木香歩さんの『沼地のある森を抜けて』(新潮社)を読んだ。
いままで読んだすべての本の中でもベストの一冊じゃないかと思えるぐらい、とてもよかった。

梨木さんの本を読んでいる時はいつも「ああいいタイミングで読んでるな」と思うのだが、今回も強くそう思った。本は、作品自体の力と、読むタイミングがいい具合で合ったときに、すばらしい読書体験になるなとつくづく思う。

実は、読み始めてしばらくしたところで、ちょっと着いて行けなくなりかけた。なぜなら、ストーリーが急に荒唐無稽になり、「おいおい」と思ってしまうような展開になったから。
もしかしたら、梨木さんの本の一冊めがこれだったとしたら、途中で投げ出さないまでも、もうちょっと違った読書になっていたのかもしれない。でも、以前に読んだいくつかの作品から、全面的に作者を信頼していたので、大丈夫この作者はそれほど悪いことはしない、と、警戒心を解いて、ガードを下げて読み進めることができた。

ガードを下げて、無防備になるということは、作者を信頼しないととてもできないことだと思う。なぜなら、ガードを下げると言葉が深く届きすぎて、場合によってはどんな暴力よりも深く傷つく危険もあるのだから。でも、同時に、ガードを下げたときにだけ、物語は深く心に届くものになるのだと思う。そういう意味で読書は、信頼を仲立ちとした共同作業なのだとも思う。


この本は、「境界を越える」という方向を持った物語なのかもしれない。自己と他者、男と女の間にある境界を、「個」と「群れ」の間の境界を、あるいは一つの細胞と細胞を形成する膜を、越える、開ける、あるいは溶かすという方向を持った物語なのかもしれない。

そして、越えて、開けて、溶かすことにより、命が連なっていく、受け渡されていく、順送りにつながっていくということの、根源的な不思議さ、原初的な哀しさ、の余韻が大きくて、物語の、あまりにも重層的な深さに、ため息ばかりだった。

読了してから、「解き放たれてあれ」ということばが、ずっと頭の中に響いていた。

解き放たれてあれ、と。母の繰り返しでも、父の繰り返しでもない、先祖の誰でもない、まったく世界でただ一つの、存在なのだから、と。

ジョギングしていても、街をてくてくと歩いていても、その一歩一歩ごとに、「解き放たれてあれ」という言葉が頭の中で繰り返し繰り返し聞こえてきて、心地よかった。
そしてその心地よさは、どこかで孤独であることを受け入れる姿勢とつながっているのだと思った。
近しい人の存在があってはじめて実感されるような、身を切り裂かれるような孤独、あるいは全宇宙でたった一人だけポツンと立っているような、透明な孤独。そういうものを、どうにか受け入れるという姿勢。

自身を物理的に突き動かす力、とにかく前に進む感じ。前へ前へと、変化に身を晒し、好奇心を全開にして、発火するように瞬間瞬間を旅しようとする姿勢。孤独は、ポジティブに捉えられたら、そういう方向を持ったものでもあるのだと思う。

そして、そのような「弧」あるいは「個」が出会ったときに、境界を越えていくような、何かを瞬時に溶かし去るような、閾値を越えた新たなエネルギーが発生するのかもしれない。

この、壮大な命の流れの
最先端に、あなたは立つ
たった独りで

最先端で、岬の突端で、自分を世界に向けて開いていくような作品。
ぎりぎりのところで世界を肯定していなければ書けないのだろうな。







ps.しばらく原稿の方を優先させるためにブログをお休みしていました。結果的に、予想以上に長く休むことになってしまいました。でも、また日々の思いついたことを更新していこうと思います。書きたいことを、書きたいときに、書きたいように書く。そんなわがままな方針で、ぽつぽつと更新していこうと思います。


ps2.このエントリーをアップしてしばらく経ってから、友人から「女の子が生まれたよ」というメールを受け取る。素敵すぎるタイミングだ。おめでとう!

投稿者 tsuyoshi : 11:00 | トラックバック

2006年06月07日

『わたしを離さないで』

カズオ・イシグロ著 『わたしを離さないで』(早川書房) 

それなりに分厚くて、外国の小説で、そして「世界文学」と呼べるような本格的なものを読みたいなと思って手に取った一冊。カズオ・イシグロさんは、日本生まれだけど五歳からイギリスに住んでいて、英語で小説を書く作家。名前だけは知っていたけれど、読むのは初めてだった。

分量があり、淡々とした語り口なので、物語に入っていくまでは大変だったけど、一度入ってしまえば没頭できた。
抑えがきいた文章から、にじみ出るような凄みがあった。あぶりだされるように明らかになっていく事実に驚いた。とても変わった小説だけど、逆説的な普遍性があった。題が予感させるとおり、余韻はやはり哀しいものだった。小説を読むという喜びを感じられ、しっかり腹にたまる物語だった。

ストーリーについては、これから読む方がいると思うので何も書けない。この本に関しては、事前に内容について一切知らない状態で読んだ方がいいと思う。

投稿者 tsuyoshi : 13:08 | トラックバック

2005年07月09日

「モモ」ミヒャエル・エンデ

どうも忙しい、時間がない。そう感じることが多くなってきた。これは何かおかしいと感じて、もしかして時間どろぼうに時間を盗まれているのではないかとふと思い、『モモ』を再読してみることにした。
たぶん、小学生のときに読んだか読み聞かせてもらったかして以来の再読だ。
「灰色の男」とか「カシオペイア」とか「道路掃除夫ベッポ」とか、単語だけは覚えているけれど、どんなお話かはすっかり忘れていた。

本屋へ行く。児童書のコーナーへ行く。そうしたら『モモ』が岩波少年文庫で平積みされていた。奥付を見ると発行日は2005年6月16日。つい最近文庫本になったばかりだった。だから平積みだったんだ。まるで僕が読むことを待っていたみたいじゃないかと喜んで買い、平日に一章か二章づつ、くたくたになっていたが、時間を盗まれてたまるかと思い読み、週末に一気にまとめて読み、読了。

自分がいま一番欲している物語に、最高のタイミングで出会えた。
とても喉が渇いているときに水を与えられたように、物語が体にごくごくと入ってきた感じだ。とても幸せな読書体験だった。

そして、痛いほど身につまされる話だった。
やはり僕は知らぬ間に灰色の男と契約していたのだ。
僕の時間の花は、灰色の男によって盗まれ、冷凍保存され、乾かされ、葉巻にされ、ぷかぷか吸われていたのだ。なんてこった!

僕は、いらいらせかせかメッセンジャーの仕事をしている時がある。
いくつもの急ぎの荷物を同時に持ち、赤信号でいらいら、内線電話をして呼び出したのになかなか現れなくていらいら、エレベーターがなかなか来なくていらいら。
本当に、一分一秒を節約するうような仕事なのだ。お祭り騒ぎかと思われるぐらい、毎日てんやわんやの忙しさなのだ。どうしてこんなにたくさん急ぎの荷物が発生するのか、僕には見当もつかない。
でもそれが東京に流れている時間なのだ。そして僕は東京に流れている時間を、嫌というほど体感している。この町は灰色の男に盗まれ続けている。僕も盗まれ続けている。

モモと時間の国にいるマイスター・ホラとの会話にこんな場面がある。

「じゃあ灰色の男は、人間じゃないの?」
「いや、人間じゃない。にたすがたをしているだけだ。」
「でもそれじゃ、いったいなんなの?」
「ほんとうはいないはずのものだ。」
「どうしているようになったの?」
「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしているからだよ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そしてこんどは、人間は彼らに支配させるすきまであたえている。それだけで、灰色の男たちはうまうまと支配権をにぎれるようになれるのだ。」

つまり、灰色の男は、梅雨の時期にカビを発生させてしまうようなものかもしれない。「発生をゆるす条件」を与えているから発生してしまう。本当に身につまされる。

今回『モモ』を読んでみて、もっとも印象に残った箇所は、モモが時間の国で、マイスター・ホラに連れられて自分の心のなかの時間の場所へ行った場面だ。
黒い鏡のような池の上を、ゆっくりと星の振り子が揺れ、その度に花が池の中から咲き、すぐにしおれて池に戻るという場面。どの花も、これこそ一番うつくしいと思える花だということ。そんな花が、振り子が行きつ戻りつする度に、咲いては散ってゆく光景。そして丸天井から射しこむ光と、そこで聞こえている音楽、声、ことば。

モモはふとこんな気がしました。——この鳴りひびく光こそが、どれとして同じもののないあの類いないうつくしい花のひとつひとつを、くらい水底から呼びだして形をあたえているのではないでしょうか。

毎回、二度とないうつくしさを感じさせる花。そういう花が咲いては散り、また咲いては散っているのが、「時間」なのだという。
ぼくはこの、新しく咲く花がいつもいつも、これこそ一番美しいと感じるという感覚を、旅の途中のある時期、夕日を見ることで経験していました。(この紀行文の初めの方を参照してください)
言うなれば、僕は毎日二度とないほど美しい夕日に見とれながら、自分の時間の花が咲いては散る光景を見ていたのだとも言えます。
そして、そう言えば僕のホームページの題は「花もて語れ」でした。

花がないと、言葉がなくなる。言葉がないと、僕はとても困ってしまう。
だから僕は、『モモ』読み終えてから、強く強く思ったのです。
もう時間の花を盗まれるようなすきを与えないぞ!っと。
本当に、いま読むべくして読んだ本でした。

投稿者 tsuyoshi : 05:21 | コメント (8) | トラックバック

2005年07月01日

『神話の力』

『神話の力』(早川書房)を読み終えた。
神話学者のジョゼフ・キャンベルと、ジャーナリストのビル・モイヤーズの対談集だ。
線を引いた箇所、ページを折った箇所からいくつか抜き書きしてみる。

モイヤーズ  なぜ神話は夢と違うのでしょう。
キャンベル  ああ、それはね、夢は私たちの生活を支えている、あの深くて暗い基礎についての個人的な経験であるのに対して、神話は社会の夢だからです。神話は公衆の夢であり、夢は個人の神話です。
(p90)

キャンベル  神話は生かされるべきです。それを生かすことのできる人は、なんらかの種類の芸術家です。芸術家の役割は環境と世界との神話化です。
モイヤーズ  芸術家は現代の神話作家だとおっしゃる?
キャンベル  昔の神話作家は現代の芸術家に当たるわけです。
(p161)

キャンベル  今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれだれなのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、そんなことを一切忘れるような部屋、ないし一日のうちのひとときがなくてはなりません。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことのできる場所です。これは創造的な孵化場です。はじめは何も起こりそうにないかもしれません。しかし、もしあなたが自分の聖なる場所を持っていて、それを使うなら、いつか何かが起こるでしょう。
(p173)

モイヤーズ  でも、神話は絵空事じゃないのか、という人がいますね。
キャンベル  いや、神話は絵空事ではありません。神話は詩です、隠喩ですよ。
(p292)

神話と夢と芸術と詩。
神話の力とは、隠喩の力なのだろうなと思った。

神話について、数年前から持続的に興味を持っている。
時々で温度の強弱はあるけれど、興味を失うということはない。
神話について考えることは、宗教、哲学、人類学、文学、芸術について考えることでもある。
そして自分の生き方について考えることでもある。
うまく言えないが、大切だと感じている。

神話がよく扱うテーマ
・全ての生命は他の生命を奪ってしか生きられない、ということ。(食べること)
・「子供」から「自立した個人」、「社会人」になるということ。(成長、社会、大人について)
・「私」は個として存在するのか、大地の一部なのか。(生死、存在、不安について)
等々。

神話は、間違いなく「本当に大切なこと」を扱っている。
だから、神話について学ぶことは、「本当に大切なこと」の所在について学ぶことでもある。
思考停止をしないこと、忙しさにかまかけないこと、目を曇らせないことでもある。
そして人生を「本当の意味で生きる」という「冒険」にすることでもある。

投稿者 tsuyoshi : 03:44 | トラックバック

2005年05月13日

『荒野へ』 ジョン・クラカワー著(集英社)

アラスカの荒野に打ち捨てられたバスの中で餓死した青年についてのノンフィクション。
裕福な家庭に育った青年はなぜ全てを捨てて旅立ったのか、そしてなぜ死んでしまったのか、登山家でもある著者ジョン・クラカワーにより、淡々とした筆致で、しかし深い共感をもって書かれていた。

僕もたいへんな共感をもって読了した。
身に覚えがあるからである。過剰な情熱も、感情の不安定さに翻弄されるさまも、社会を素直に肯定できない憤りも、自由への憧れも、痛いほど身に覚えがあるのである。
そして、軽い反発も感じた。できることなら思い出したくない、あまりにも未熟で、あまりにも傲慢だった、ある時期の自分を、否が応でも思い出させるからだ。
僕が大学一、二年に行っていた山への単独行と、21歳のときのアフリカへの旅立ち。あの時のドミノ倒しのような心の軌跡を思い出させるのである。いまはもう成熟していて、傲慢でないというわけではないけれど。

そして思い浮かんだのが『サハラに死す』という本だった。
サハラ砂漠を徒歩で横断しようとし、途中で渇死した青年の話である。
名前は上温湯隆(かみおんゆたかし)、22歳であった。
アラスカの荒野で餓死した青年クリストファー・マッカンドレスは24歳。
過剰な情熱も、まっすぐな正義感も、純粋な理想主義も、似ている。
亡くなり方も似ているし、亡くなった年齢も近い。

マッカンドレスがバスに残した落書きがある。

二年間、彼は地球を歩いている。電話もなく、プールも、ペットも、タバコもない。窮極の自由。極端な人間。路上が住居の美の旅人。アトランタから逃れてきたのだ。汝、引きかえすことなかれ。「西が最高である」からだ。二年の放浪の後、今度は最後で最大の冒険となる。心のなかで偽りの人生を否定する決戦に勝利して、精神の遍歴に終止符をうつのだ。(後略)

彼は、トレイルの奥に打ち捨てられたバスにこう落書きし、「土地があたえてくれるものを食べて生活する」という冒険をするために、数ヶ月間一人でバスに寝起きし、狩猟採集の生活をした。そしておそらくはつまらないミスを犯し、命を落とした。

一方、上温湯さんは『サハラに死す』のなかで、「お前」とサハラを擬人化しこんな文章を残している。

お前は、その仲間の太陽を使者とし、五十度を越す光線で、この肉体の水分を奪おうとした。あるとき、冷たい風を使い、三十分しか眠れぬ夜で、俺を包んだ。砂、砂そして砂。足を棒にさせ、砂丘で行く手をはばみ、砂嵐は目をふさいだ。
…正直にお前に語ろう。恐怖におおわれた闇、お前の体に抱かれていた夜に、何度”死”という言葉が脳裏で舞ったか。
…『冒険とは可能性への信仰である』
こうつぶやき、俺は、汝を征服する、必ず貴様を征服する! それが貴様に対する、俺の全存在を賭けた愛と友情だ。

上温湯さんはこう宣言し、一度は挫折した旅を再開させ、やがて遺体で発見された。ラクダに逃げられ渇死したという見方が有力だそうである。

マッカンドレスに関しては、自殺したのではないかという憶測もされたそうだが、著者は証拠を示して否定した。
僕も確信をもって否定できる。このような文章をかく人間は、生きたくて仕方がないのであり、ほんとうに生きたいからこそ、命の危険を冒さざるを得なかったのだ。だから、彼の死は精神の問題ではなく、危機管理の問題だろう。

著者のクラカワーはマッカンドレスの遺体が発見されてから間もなく、<アウトサイド>という雑誌から依頼され青年の変死について取材し記事を書いている。その記事には雑誌創刊以来もっとも多くの手紙が寄せられたそうである。そして、その手紙は青年への賞賛と非難にはっきり分かれていたそうである。「勇気のある高い理想をもった若者」と書かれた手紙がある一方で「向こう見ずな愚か者、変り者、傲慢と愚行によって命を落としたナルシスト」と非難する手紙も多かったそうである。

そうだろうな、と思う。
ただ読んで楽しいだけではないから、自分の人生の土台の部分を突き崩すような話だから、強い共感と激しい非難とに、見方が二分されるのはもっともだろう。

自由よりも安定を志向し、不確定要素を避け、明日が今日と同じ安定した、安心できる日でありたいと願うおそらくは多数派の人は、マッカンドレスの行動をまったく理解できないし、不快にすら感じると思う。
しかしその不快は、安定している現状への、無意識の後ろめたさと同義なのだから、背中合わせの共感とも言える。

平穏に、心安らかに一日一日を暮らせたら、とってもすばらしいこと。
しかしそれは安定にしがみつくのとは違う。
そんなことをしていたら一日はあっと言う間に過ぎ、気がついたら月末、気がついたら年の瀬となり、一日一日を暮らしているとは言えなくなる。
心安らかに、充実した日々を過ごすには、タフでなければならない。
理想に盲従したり、現実にしがみついたりしないためには、やはり強くないといけない。

もし、マッカンドレスや上温湯さんが旅から帰っていたら、その後どんな人生を送ることになったのだろうか。
著者クラカワーは自身のアラスカの未踏の岩壁登攀について書いた稿で、その登攀が「うまくいっていない私の人生を根底から変えてくれるものと思いこんでいた」と述べている。そして何とか登頂したものの、「結局は、ほとんどなにひとつ変わらなかった」とも述べている。

このクラカワーの言葉は、そのまま僕の旅にもあてはまる。
「根底から変えてくれる」と願い旅立ち、戻ってきてから「なにひとつ変わらなかった」ことを発見した。しかし、もちろん無駄だったわけではない。旅の過程には最大限の充実があった。ただ結果がよく分からないだけだ。そしてそれは大した問題ではない。
マッカンドレスや上温湯さんが、もし生きて帰っていたらどんな人生を歩んでいただろうと想像し、今の自分に重ねると、いろいろと考えさせられる。

投稿者 tsuyoshi : 01:50 | トラックバック

2004年12月11日

詩集『はだか』谷川俊太郎より、「はだか」

はだか

ひとりでるすばんをしていたひるま
きゅうにはだかになりたくなった
あたまからふくをぬいで
したぎもぬいでぱんてぃもぬいで
くつしたもぬいだ
よるおふろにはいるときとぜんぜんちがう
すごくむねがどきどきして
さむくないのにうでとももに
さむいぼがたっている
ぬいだふくがあしもとでいきものみたい
わたしのからだのにおいが
もわっとのぼってくる
おなかをみるとすべすべと
どこまでもつづいている
おひさまがあたっていてもえるようだ
じぶんのからだにさわるのがこわい
わたしはじめんにかじりつきたい
わたしはそらにとけていってしまいたい

(詩集『はだか』谷川俊太郎より)

同じ詩集からもう一つ。
こんどは女の子のようだ。

詩は、受け取る人により、万華鏡のように変わっていくもの。
だからこれから書くこの詩の感想は、僕が受け取ったある種の“感動”を
そのまま素直に記したもの。
堅く書くけれど、文章の堅さは感動の度合いとは本来無関係だろう。


この詩を谷川さんはどのようにして書いたのだろうかと思う。
書くに任せたらこのような詩ができたのだろうか。
詩人って恐ろしい人達だなと思う。
ものすごく深い地層から、無造作に言葉を投げ出すのだから。

人間の根源的な不安は、
「自分は大地の一部なのか、それとも個としてあるのか」
という不安だろう。
誰だって、どこかから来た。そして死ぬとどこかへ行く。
たぶん、大地から来て、大地へ帰る。
だって、僕たちの体を構成する全ての物質は、手も足も歯も脳みそだって、
全部大地から来ているのだから。
そして死ぬと跡形もなく大地の一部となるのだから。

でも、人間は「個」として存在している。そういう質感が確かにある。
「私」という概念は疑えない。「私」は確かに個として存在している。

一体自分は「全体の一部なのか、個なのか」、どうしたって疑問に思う。
そこに説明が与えられないと、余りにも不安定で、不安になる。
これは「言葉」を持ち、「死」を発見した現生人類が宿命的に持つ不安だ。

(現在の脳科学の分野では、「物質である脳にいかに意識が宿るのか」という、いわゆる”難しい問題”として、一番ホットな学問領域だそうだ。)

この不安に説明を与えようとして、神話は語り継がれてきた。
世界中に残っている神話、民話、伝説の類いは、「全体の一部なのか個なのか」を雄弁に物語っている。

女の子がはだかになったときに感じる言うに言われぬ想いは、
「はだか」であることが「自然」であることと離れているから。
でも「自然」であった頃を思い出させるから。

動物園の動物は、みんなすっぽんぽんだ。
そういう人間が純粋に動物だったころの記憶がまだ残っているから、
でも残っているのにもうずいぶんと自然の一部だった頃から遠く離れているから、
言うに言われぬのだ。
だから「きゅうにはだかになりたくなった」という衝動は、きわめて根源的な、神話的思考の発露だろう。

女の子は自分の足下を見て「ぬいだふくがあしもとでいきものみたい」と言っている。
脱皮した蛇や、さなぎからかえった蝶は、かつて体の一部だったものを再びはまとわない。
でも人間はまた服を着て、また体の一部にする。
人間は服を着るが、動物は着ない。神話の世界では、クマは「毛皮を着た人間」という扱いを受ける。魂のレベルでは、クマも人間も変わりはなく、ただ毛皮をまとっているかいないかだけが違う。


じぶんのからだにさわるのがこわい
わたしはじめんにかじりつきたい
わたしはそらにとけていってしまいたい

文字通り一番身近な自分の体なのに、急になにがなんだか分からなくなる。
自分は大地からにょきっと生えたキノコとどう違うのか。

かじりついて全体を自分の一部とし、
とけていって自分を全体の一部にしてしまいたいという衝動が
恐ろしい的確さで人間の根源的な不安を言い表している。

谷川さんは一体どうやってこの詩を書いたのだろうか。
やっぱり書くに任せて書いたらこうなったのだろうか。
わけが分からない。詩人の言葉は本当にわけが分からない。
どれだけ「言葉」に対して真摯になればこのような詩が生まれるのだろう。
本当に尊敬してしまう。

投稿者 tsuyoshi : 05:19 | トラックバック

2004年12月09日

詩集『はだか』谷川俊太郎より、「さようなら」

さようなら

ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない

(詩集『はだか』谷川俊太郎より)

こんな詩に出会いました。
前つんのめりの、焦るリズムが、読んでいて苦しい。

少年は、「どこへいくのかわからないけど」「いかなきゃなんない」。
さらに、「ひとりでいかなきゃなんない」。

少年の、何か内面の必然に強く促されている決意が、
自分でも訳が分からないまま熱に浮かされている衝動が、
はだかの魂から、もっとも傷つきやすい形で、
そして最も強く、根源的な輝きで、出ています。

こういうはだかの詩を読むと、運命に厳しく立ち向かうその姿勢に、深く感動します。
そして、自分もまた、「どこへいくのかわからない」けど「いかなきゃなんない」
という極度に緊張感のある地点へ投げ出されます。
だから、感動と苦しさが表裏一体です。
芸術が持つ感染力なのだと思います。
非常に奥の方から力が湧いてきます。
一見するとひらがなだけの、子供向けの詩かと思われるけれど、とんでもない。
純粋な目は、自己存在に深く関わってくるとても恐ろしいものだと思います。

何度も朗読していると、言葉が次々に繋がっていくリズムが、
少年が、「さくらなみきのしたをとおって」「おおどおりをしんごうでわたって」
早足で歩いている情景と重なり、自分も何か、「いかなきゃなんない」と
急き立てられます。生き急ぐ少年の足音まで聞こえてくるかのようです。

大人は、「どこへいくのかわからない」のならば、行けないでしょう。
でも、少年は、「どこへいくのかわからないけど」、行ってしまえます。
理由のない内的必然性に促されているのだから一番強い。
それは、なぜ愛しているか言語化できなくても
「愛しているから愛している」という論理破綻のまま突っ走れるのと似ています。

谷川俊太郎さんは、しかしながら、大人です。
大人なのに魂を裸にできるということが驚きなのです。
言うなれば、「オトナコドモ」のような人です。

誰だって子供時代はあります。
そして誰だって時間が経てば大人になります。
でも「オトナコドモ」になるのは、丸腰で生きる勇気が必要になります。
たった一人で、丸腰で生き続ける勇気。
傷つきやすい魂を、そのままジャリジャリした外界に晒さねばならず、
とてもじゃないけどできません。

ところが、とてもじゃないけどできないことを、魂は平気で要求してきます。
本当に困ったことです。一体どうすればいいんだと思います。
困った困ったと思いながら、一日中魂にはりついた薄皮を剥がしています。
でも、困るからこそ熱を帯びてくるものも、確かにあります。

「もういかなきゃなんない」とパニックになるぐらい焦りつつ、
一方で、いまできる事探して、着実に、具体的に、淡々とやっていく。

焦るリズムと淡々としたリズムの二つの旋律が
不思議な調和を見せて同居しています。

投稿者 tsuyoshi : 23:12 | トラックバック

2004年12月04日

『偶然の音楽』

『ムーン・パレス』という小説は、今まで読んだ本の中でかなりお気に入りの一冊である。だから、同じ著者の別の作品も読んでみようと、『偶然の音楽』P・オースター(新潮文庫)を読んだ。

実はこの本は、ずいぶん前にいつか読むだろうとブックオフで買い、長い間本棚で読まれるのを待っていた。いわゆる「積ん読」というものだが、そういう本がかなりたくさん僕の本棚にはある。

いつか必ず読みたい。でももう少し後で。そうずっと思っていた本なのだ。
だから、そういう本は必ず「なぜ今この本なのか」と読む前も、読んでいる途中も、読んだ後も思っている。自分の人生と本を、時間を限定させる事によってより強固に結びつけたいと思っているのだろう。あるいはどこかで、「“今”読むべき本は、膨大な冊数の中でもたった一冊しかない」と思っているのかもしれない。だから僕は、本を読む時間と同じかそれ以上に、読む本を選ぶ行為に多くの時間を割いている。

僕は本を読む事は大好きなのだが、実は読むスピードは遅い。それにとてもたくさんの労力を使う。一冊読むとクタクタになる。時間的にも精神的にも多くを消費してしまう本は、やはりよくよく選ばなければならないと思っている。

ではなぜ、今この本を選ぶのか明確に説明できるかといえば、そうではない。
実用書などは必要だから読むと説明できるが、小説はちょっとよく分からないのだ。交通事故のようなものかもしれない。恋のようなものかもしれない。偶然、何気なく本棚から手に取り読み始め、いままでは入り込めなかったのにその時はなぜか一気にその世界に入り込め、そして読了してしまう。

『偶然の音楽』は、よりによってなぜこのタイミングにこの本を読んでいるのだろうと、以前にも増して強く思った本だった。『ムーン・パレス』と同じような体験をどこかで期待していたのだが、見事に裏切られた。
物語の構造はかなり似ているのに、読後感がまるで違う。どちらの主人公も最低限ぎりぎりのところまで止むに止まれぬ内面の事情で突っ走るように墜落していく。そしてもう本当にだめだという最底辺まで落ちた時に偶然の出会いがあり、物語が始まる。
しかし、『ムーン・パレス』の読後感が希望と開放感に満ちた物ならば、『偶然の音楽』は虚脱感と閉塞感に満ちている。

末尾にある小川洋子さんの文章にこう書いてあった。

オースターの小説を考える時、偶然という要素はどうしても外せないが、彼はそれを必然的な生死の対極にあるものとしてとらえている。理論や科学や法律でうまく取り繕われているようでありながら、実は人生の大半は理由のつかない偶発的な出来事によって形成されている。彼はその不思議の奥に、真の物語を掘り起こそうとしている。

偶然、この本を読んだ。いままでずっと本棚にあったにも関わらず、よりによってとても強い閉塞感に苛まされている今、この本を読んだ。以前に冒頭部だけ読んだときには引火しなかった導火線が、今回は一発で引火し、一気に読了した。なぜだろうと思いを馳せると、なんとなく分かったような理由も浮かんでくる。閉塞感を感じている時に、閉塞の物語が読みたくなったのかなと思ったが、それは後からくっつけた言いがかりに過ぎない。もう一カ所小川洋子さんの文章を引用する。

一人取り残され、途方に暮れた私がもう一度ページをめくり、読み返した場面がある。トレーラーハウスでのパーティの夜、デザートを運ぶナッシュが賛美歌を歌うところ。偶然口をついて出てきた音楽。題名の出所はここにあるに違いないと、私は信じている。

ああそうだった、そんな場面があったと思い出し、僕もその箇所を読み直した。偶然、口から音楽が漏れる。意味を越えている。音楽の一番幸せな形かもしれない。すこし長いがその場面を引用する。

出し抜けに、自分でもそんなつもりはなかったのだが、気がついたら、子供のころ覚えた賛美歌を歌っていた。「エルサレム」、詞を書いたのはウィリアム・ブレイク。もう二十年いじょう歌っていなかったのに、歌詞は残らず蘇ってきて、まるでここ二か月ずっとこの瞬間に備えて練習を重ねてきたかのように、言葉が次々と舌から転げ落ちていった。(中略)二人は最後まで黙って耳を傾け、それから、ナッシュが腰を下ろしてぎこちない笑みを彼らの方に向けると、二人ともぱちぱちと手を叩いてくれて、ナッシュがようやく立ち上がってお辞儀をするまで拍手を辞めなかった。

投稿者 tsuyoshi : 12:38 | トラックバック