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<title>その日を摘め</title>
<link>http://hanamote.com/blog/</link>
<description>本、映画、展覧会などの感想、エッセイ、詩、山行記等</description>
<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2008</copyright>
<lastBuildDate>Wed, 09 Apr 2008 22:47:29 +0900</lastBuildDate>
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<title>友人の個展のお知らせ：『丸石座』</title>
<description><![CDATA[<p>杉原さんから案内の葉書が届きました。</p>

<blockquote>
杉原信幸 個展『丸石座』石と苔の地下石庭 <br>
2008年 4月24日(木) - 5月10日(土)<br>
11時−19時　入場料 200円<br>
site [サイト]<br>
東京都渋谷区恵比寿1-30-15サイトビルB1<br>
<a href="http://www.site-ebisu.com"target="_blank">http://www.site-ebisu.com</a><br>

<p>＊5月6日(火)日暮れより<br />
吉増剛造×山形淑華×杉原信幸　<br />
丸石座　開演<br />
</blockquote></p>

<p>楽しみ楽しみ。</p>

<p><a href="http://members.jcom.home.ne.jp/nobu.yuki/"target="_blank">杉原さんのHP</a><br />
<a href="http://sugihara.blog27.fc2.com/"target="_blank">杉原さんのブログ</a></p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2008/04/post_162.html</link>
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<category>展覧会</category>
<pubDate>Wed, 09 Apr 2008 22:47:29 +0900</pubDate>
</item>
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<title>古人骨掃除夫ツヨシ</title>
<description><![CDATA[<p>去年の十一月から、ある国立の博物館の、人類研究部というところでアルバイトをしています。何をしているかというと、遺跡などから発掘された古人骨のクリーニングをしています。<br />
働いている標本資料室には、縄文時代から江戸時代までの古人骨が数千体保管されています。その部屋の一角で、まだ土が付いたままの人骨から、丁寧に土を落とし、きれいにする作業をしています。ときどきはばらばらになっている頭骨を組み立てる作業などもやりますが、だいたいの時間は掃除をしています。仕事は友だちから紹介してもらいました。</p>

<p>この仕事、とっても気に入っています。<br />
骨を一つ持ち、はけや竹串などでこびりついている土などを落とし、きれいに掃除する。きれいになったらその骨を置き、次の骨を一つ手に持ち、またはけや竹串などできれいにする。その作業を延々と繰り返すだけなのですが、こういうシンプルな手作業に、どうも僕は向いているようです。</p>

<p>同じことを繰り返すのですが、工業製品ではないので、当然ながらひとつとして同じ骨はありません。脆いものやしっかりしたものなど、状態がいろいろで、形もいろいろなので、力のかけ具合もいろいろです。使う道具もいろいろ違ってきます。でも慣れてくると、そういうことは考えなくてもよくなります。状況に応じて、ただ手を動かすだけです。<br />
普段ずっと言葉を組み合わせたりほぐしたりしているせいか、頭を使わないシンプルな手作業だということがなにより嬉しいです。とても単調で、それなのに集中を要する手作業なのですが、そういう淡々としたリズムがいいのです。</p>

<p>「どんなひげ剃りにも哲学がある」という言葉を思い出します。どんなことでも、それをずっと続けると、何かしらの観照のようなものを得られると、村上春樹さんは、『走ることについて語るときに僕の語ること』という本で、この言葉を紹介しながら言っていました。（この本はかれの走ることに関するエッセイで、とても面白かったです）骨を掃除することにも、ひげを剃ることや走ることと同じように、それをずっと続けていると、何かしらの観照のようなものが得られるように思われます。</p>

<p>人骨にこれだけ日常的に接するのは、やはり特殊な環境です。でも作業しているときは、それを人骨だとはあまり意識していなく、むしろただのモノでしかなくなっています。そしてときどきふと、これは人骨なんだよなと思います。でもそれはほんの一瞬のことで、普段はやはりただのモノと感じています。人骨の触感は枯れた木に似ています。</p>

<p>ときどき標本資料室を歩き回り、縄文から江戸までの、ずらりと並んだ頭骨を眺めます。それはなかなかシュールな眺めなのですが、決して不気味でも気味悪いものでもありません。むしろ何か、静かで清潔な気配があります。生きている間に感じたであろうどんな強い想いも、骨からはあまり感じられません。きっと骨がからからに乾いているからでしょう。水分がないと、情のようなものも宿りにくいのかもしれません。</p>

<p>作業していると、ときどきとても深く集中していることがあります。ゆっくり、丁寧に作業していると、いつのまにか深い海にどんどん潜っていくような感覚になることがあります。そういうときは時間を忘れています。そして、こんなに深く集中してしまって大丈夫だろうかとふと思い、息継ぎをするように集中を解き、あたりを見回します。</p>

<p>見回すと、いつもの見慣れた頭骨がずらっと並んでいます。標本資料室はだいたいいつも静まり返っており、空調の音しか聞こえません。こういう環境に一定期間身を置くことが、なにかとても好ましいことに思えるので、この仕事を楽しんでやっています。きっと瞑想することにとても似ているのでしょう。瞑想することに似ているなと思うから、なるべく足を組んだりしないで、なるべく背筋を延ばして椅子に座ります。ときどきは姿勢を崩してしまいますが。</p>

<p>掃除し、きれいな状態にする、ということにも得難い充実感があります。<br />
掃除することは、精神衛生上何かしら好ましいものがあります。そしてそれが、日常的には接する機会のない人骨であることが、より効果を増すように思います。ずいぶん土などがこびりついて汚れていた骨が、せっせと掃除することできれいになると、なんだか自分の骨もきれいになったようで、ああいい仕事をしたなと思います。標本資料室には世界中から研究者が来て、ここの骨をあれこれ研究しています。だから人類学に何かしら貢献しているという気持ちもない訳ではないですが、正直に言うとそのような気持ちは薄く、むしろ自分のためにやっています。ぼくは古人骨を掃除したいのです。</p>

<p>でも、集中して没頭しているばかりではありません。とても単調な作業なので、とくに昼食後などはとても眠くなります。眠くなると時間が一向に進まなくなります。そういうときは、眠気のピークを越すまでがすこし大変です。そしてそういうときに、これから掃除する骨が積み上がっている箱を見上げると、スコップでヒマラヤ山脈を切り崩しているような、サハラ砂漠の砂を一粒ずつ数えているような、なにかぐったりとした疲れを覚えます。シーシュポスの神話のように、ぼくは岩を山の上に運ぶことを繰り返しているのではないかという気がしてくることもあります。<br />
でも、眠気のピークを越えてしまえば、ふたたび深い海に潜るような集中が訪れ、充実した時間になります。</p>

<p>ミヒャエル・エンデの『モモ』に、道路掃除夫ベッポという魅力的なおじいさんが登場します。古人骨を掃除しているとき、よくかれのことばを思い出します。</p>

<blockquote>「なあ、モモ」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」<br>
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。<br>
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」<br>
ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。<br>
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな？　つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」<br>
またひと休みして、考えこみ、それから、<br>
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」<br>
そしてまた長い休みをとってから、<br>
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」<br>
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。<br>
「これがだいじなんだ。」</blockquote>

<p>古人骨掃除夫ツヨシも（いい肩書きだ）、このベッポさんのことばに、おおきくうなずきます。丁寧に、没頭しながらひとつひとつ掃除をしていると、あんなにたくさんあった骨が、知らぬ間にぜんぶ掃除し終わっています。そして自分の向かいたい方に、またほんの少しだけ、舵を切れたような気がするのです。<br />
</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2008/02/post_161.html</link>
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<category>日記・エッセイ</category>
<pubDate>Wed, 27 Feb 2008 01:20:31 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>映画「いのちの食べかた」</title>
<description><![CDATA[<p>おとといの夜、友人に誘われ、「<a href="http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/"target="_blank">いのちの食べかた</a>」という映画を見に行った。<br />
食べ物の生産と加工の現場を映し続けたドキュメンタリー映画。ナレーションもセリフもインタビューも音楽も一切なく、「意味」というものを極端に排除し、ただ淡々と映像が切り替わるだけの、ストイックすぎるほどストイックな映画だった。９２分間、息を止めるように凝視して、見終わったあとは長い潜水をしていたような目眩を覚えた。</p>

<p>驚いた、というのが正直な感想。<br />
あまりに何度も驚いたので、最後には何に驚いたのか分からなくなるぐらい、僕はずっと驚いていた。<br />
そしてそれからずっと、なにかとても原初的な感情のなかにいる気がする。もしかしたらとんでもない作品を見てしまったのではないかと思いつつ、未分化の、名付けようのない感情の中にとどまりながら、分類して消化したり了解済みにしてしまったりしないで、この未分化の感情のなかにできるだけ長くとどまっていたいと思い続けている。誘われたからという理由で、なんの構えもなく見に行ったのだが、思いの外こたえた。ストンと落とし穴に落ちたような不意打ちだった。</p>

<p>この映画は、「現代の食糧生産事情を多くの人に知って欲しい」というパンフレットにあったニコラウス・ゲイハルター監督の言葉そのまま、ただ見て、ただ知るだけのものだった。ただ光景という素材を提供するだけで、それをどう受け取るかは完全に見る側にゆだねていた。何も批判しないし、告発しない。どこまでもただの凝視する目であり続けようとするカメラの視線が、安易な答えへと導くことなく、自分で考えろと突き放す厳しさと、受けとめ方はあなた次第だという寛容に満ちていた。その立ち位置がとても好ましかったから、映画を凝視し続けられたのだが、終わってみるとなぜだか逃げ場所のないところに追いやられている気がした。</p>

<p>「食べる」ということが、ほんとうはどういうことなのか、たぶん僕たちはそのほんとうのことを直視できるほど強い自我を持ち合わせてはいない。直視すると自我が破壊されてしまうのだと思う。「食べる」ということの真ん中には、あらゆる意味と言葉と行為とイメージを無限に創造し、同時に無化するような底が抜けたゼロ地点がぱっくりと口を開けていて、ドーナツの真ん中が食べられないように、僕たちは「食べる」ということの真ん中を直視できない。</p>

<p>でも、直視できないけれど、にじり寄ることはできる。この映画はぎりぎりまで、「食べる」ということの「ほんとうのこと」ににじり寄った映画だと思った。映画の原題は「OUR DAILY BREAD」。光景だけのこの映画において、唯一手がかりになりそうなのはこのタイトルだけだ。訳すと「日々の糧」となるそうだが、かなり宗教的な意味合いを持たせている言葉でもある。掴もうとしても手の中をするすると逃れていく光景たちだが、「OUR DAILY BREAD」という言葉を、記憶の中に釣り針のように垂らし、何かが釣り上がるのを辛抱強く待つしかないのだろう。<br />
いまは、記憶の中で、映画の光景が、居場所を探すように移動し続けていて、やっかいだから考えることを留保していた別の事柄をつぎつぎと起こしてしまうような状態。だから今ちょっと頭の中が騒がしくなってる。しばらくはこの騒がしさに付き合うしかないみたい。おすすめです。</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2008/01/post_160.html</link>
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<category>映画</category>
<pubDate>Sun, 13 Jan 2008 20:30:35 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「祝婚の詩」</title>
<description><![CDATA[<p>「祝婚の詩」</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/11/post_159.html</link>
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<category>詩</category>
<pubDate>Fri, 30 Nov 2007 02:52:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>写真展とお話のおしらせ（追記あり）</title>
<description><![CDATA[<p>１１月２６日まで京都造形芸術大学でちいさな写真展をしてます。<br />
去年の５月に大阪のCASOという場所で展示した写真をも一度使ってます。あのときはナトリウムランプで色がなくなってたけど今度はちゃんとカラーです。</p>

<p>最終日の２６日には「地球大学＠京都造形芸術大学」というレクチャーシリーズの第四回として竹村先生とお話する予定です。喜望峰からの旅の話と、水源域の撮影の話などをできたらと思ってます。偶然ですがいま東京ミッドタウンで開催してる「<a href="http://www.2121designsight.jp/schedule/program.html"target="_blank">WATER展</a>」という展覧会のスーパーバイザーを竹村先生がされてるので、水の話などもできたらと思ってます。一般の方も全然大丈夫なので関西方面に住んでいる方はぜひ来て下さい！</p>

<p>（２０日追記：２６日に新作の水源域の写真を一枚か二枚持って行きます！）</p>

<p><br />
場所：<br />
京都造形芸術大学　人間館１F　地球回廊ブース内（<a href="http://www.kyoto-art.ac.jp/other/access.html"target="_blank">アクセス</a>）</p>

<p>期間：<br />
２００７年１１月１４日（水）ー２６日（月）<br />
９：００−２０：００　入場無料　日曜休館</p>

<p>１１月２６日（月）１８：００ー２０：００<br />
本郷毅史　×　竹村真一先生<br />
地球大学＠京都造形芸術大学　第四回「新しい地球観」（で、でかいテーマだ…）</p>

<p><br />
＊コンセプト文とポスターと会場の様子を載せておきます。</p>

<blockquote>
本郷毅史写真展<br>
喜望峰ー日本　「一番遠い場所をここにつなげる」

<p><br />
「一番遠い場所」から日本を目指して自転車で旅をする。ある日そう思い立ち、アフリカの南端喜望峰に行き、自転車を漕ぎはじめた。当初は二年で戻って来れるだろうと思っていたが、世界は思った以上に大きく、僕は予期せぬほどに旅に魅了され、結果三年五ヶ月かかった。</p>

<p>日本を目指して自転車を漕いでいる時、あまりにも遠い、という思いをしばしば抱かされた。しかし黙々と漕ぎ続けていたらいつしか日本に辿り着いていた。自転車で旅をするということは見知らぬ場所と場所を一本の糸でつなげていくこと。そしてそうやって「一番遠い場所」からつなげてきた糸を、最後に生まれ育った場所につなげることで、世界が、自分の身体と地続きにあるということを知ることができた。</p>

<p>世界は、テレビや新聞記事のむこう側にあるのではなく、自分のいる場所から「一番遠い場所」までずっと、皮膚一枚隔ててつながっているのだということ。喜望峰のような遥かな場所も、直接「ここ」につなげることができるのだということ。そういう当たり前のことを、黙々と自転車を漕ぐことで、身体に染み込ませていったのだと思う。</p>

<p>ここに展示している写真は、むこう側の光景ではなく、自転車に乗って見た光景。僕の目の前、皮膚一枚隔てた外側に、目も眩むような世界が展開されていた。<br />
</blockquote></p>

<p></p>

<p><br />
<a href="http://hanamote.com/blog/%E5%96%9C%E6%9C%9B%E5%B3%B0-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B1%95%E3%83%9B%E3%82%9A%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC4.html" onclick="window.open('http://hanamote.com/blog/%E5%96%9C%E6%9C%9B%E5%B3%B0-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B1%95%E3%83%9B%E3%82%9A%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC4.html','popup','width=507,height=700,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://hanamote.com/blog/%E5%96%9C%E6%9C%9B%E5%B3%B0-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B1%95%E3%83%9B%E3%82%9A%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC-thumb.jpg" width="120" height="165" alt="" /></a> <a href="http://hanamote.com/blog/KC3800221.html" onclick="window.open('http://hanamote.com/blog/KC3800221.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://hanamote.com/blog/KC380022-thumb.JPG" width="120" height="90" alt="" /></a> <a href="http://hanamote.com/blog/KC380019.html" onclick="window.open('http://hanamote.com/blog/KC380019.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://hanamote.com/blog/KC380019-thumb.JPG" width="120" height="90" alt="" /></a></p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/11/post_158.html</link>
<guid>http://hanamote.com/blog/archives/2007/11/post_158.html</guid>
<category></category>
<pubDate>Fri, 16 Nov 2007 00:57:20 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>映画「水になった村」</title>
<description><![CDATA[<p>先週ゆーさん（<a href="http://yusukeishida.jugem.jp/?eid=407"target="_blank">石田ゆうすけ氏</a>、自転車旅友だちかつ阿佐ヶ谷のご近所さん）が、おすすめだよと映画「<a href="http://web.mac.com/polepoletimes/iWeb/7C4C51EE-E8FF-4870-92E5-6E536C15159B/B5C804F4-AB63-4DF8-AF14-418E13E2084F.html"target="_blank">水になった村</a>」のパンフレットと割引券をぼくのアパートの郵便受けに入れてくれてた。次の日友だちの<a href="http://teratown.com/blog/2007/09/29/ueecaecaee-aeeaa/"target="_blank">寺町くん</a>から来週「水になった村」っていう映画見に行きませんかというお誘い。<br />
ほぼ同時に二人の友人から誘われ、これは絶対見に行かねばと思い、土曜日にポレポレ東中野へ行ってきた。</p>

<p>実は以前「ひめゆり」という映画を同じ映画館でみたとき、「水になった村」というタイトルだけは目にしていた。でも特に心に留まらなかったのは、タイトルから、暗い、悲しい、気が重たくなるイメージが浮かび、ああそういう映画かと思ってしまったからだと思う。<br />
でもとんでもないのである。むしろ正反対で、明るく、楽しく、そして透明な哀しみに満ちた不思議な清々しさが、見終わったあともずーっと残っている。</p>

<p>ダム建設に伴い水に沈むことになる徳山村に、「村が沈んでしまうまでできる限り暮らし続けたい」と、移転先から何家族かの老人たちが戻ってきていた。そのじじばばたちの暮らしぶりを監督の大西さんが１５年間通い続け撮りためたドキュメンタリー映画。</p>

<p>ともかく食べてばかりの映画だった。<br />
山菜や木の実などをとり、畑の野菜を収穫し、魚をとり、それを料理し、ともかく尋常ではない量を食べていた。ソフトボール大のぼたもちを二つも三つも食べ、一回の食事で、監督とじょさんという八十代のおばあちゃんとで五合の炊き込みご飯を平らげていた。すごくおいしそうだった。<br />
そんなに食べても太らないのは、きっとずっと働き続けているから。山菜をとりに何時間もかけて野山を往復し、それを大変な手間をかけて漬け物などにし、ほぼ一日中ずっと食べ物を作り続けている。<br />
この映画を見ていると、生きることと食べることと働くことが直結していて、そのシンプルさがきらきら光ってまぶしいぐらいだった。</p>

<p>見終わったあと配られていたアンケート用紙に感想を書こうとしたのだが、いい映画を見終わったあとの常でなにか頭がぼーっとしてしまい、とても言葉にならず、ただ「すごくよかったです」ということぐらいしか書けなかった。もうちょっとこのぼーっとした、言葉にならない、とても幸せな余韻の中にいたい、もう少ししたらやはり、そのぼーっとした霧のような状態をぎゅっと透過させて言葉にしていくことになるのだろうけど、せめて見終わった直後だけは、頭に乱反射しているイメージの断片と音楽の余韻の中にいたいと思っていた。</p>

<p>映画の冒頭に、村道にゆっくりと水が迫りバッタが驚いている映像と、大きな一本の杉の木が半分まで水没している映像があった。ありえない事態に、昆虫も、木々も、とても驚いているようだった。<br />
じょさんの大きな家が取り壊される映像は余りに悲しかった。一体僕たちはこれほどのものを犠牲にして何を得ようとしているのか、取り返しがつかない性急な変化の中で、どこへ向かおうとしているのか。</p>

<p>村から移転先に引っ越したある老人が、もう２０年も住んでいるけれど仮住まいのような感じだと言っていた。<br />
その感覚は、ぼくにとっては日常的なものになっている。大きな変化の方向として、狭く深く大地とつながっていた人間が、その接続の仕方を変え、広く浅くつながるようになっているのだと思う。そういう変化のなかに僕もいるから、どんな場所にいても仮住まいのような感覚を覚えることがもはや当たり前になっている。</p>

<p>単純に昔がよかったなどとは思わないし、この映画もそういう押し付けがましいところはない。<br />
ただ淡々と、底抜けに明るいじじばばの暮らしぶりを伝えてくれるだけなのだが、それが僕にとってはなにかユートピアのように見え、眩しいほど楽しそうな暮らしに思えた。本当は、地上にユートピアはないということは分かっているはずなんだけど。</p>

<p>何を美しいと思うのか、どんな光景が輝いて見えるのかが、変化の方向を決めていくのだと思う。巨大なダムや、超高層ビルを見上げたときに心躍るようなものを覚え、大都市の、何でも買える便利さ、どこへでも行ける自由、多くの人やすばらしい作品に出会える可能性に未来が開かれていると感じるのなら、そういうものを押し進める方へと世界は変化しつづけるだろうし、木漏れ日や小川の透明な水を美しいと思い、薪で焚く風呂や、自分で採った山菜の漬け物や、自分の手でなんでも作る生活をいとおしいと思うのなら、もうちょっと節操のある方向へと舵を切っていくのだろう。</p>

<p>僕は、困ったことに両方ともが魅力的に思える。<br />
だから両者に引き裂かれているというのが正直なところ。<br />
でも、矛盾を抱えながら引き裂かれてしまうのではない、新しい大地との関係の仕方がきっとあるとも思っている。（思いたいのだ）<br />
この映画には、そういう新しい価値観を育てていくヒントがどっさりと詰まっている気がした。</p>

<p>主題歌は宮澤賢治作詞、李政美（イジョンミ）さんが歌う「<a href="http://homepage.mac.com/i_shoco/IjyonmiWorld/iMovieTheater72.html"target="_blank">星めぐりの歌</a>」。<br />
この歌は「双子の星」という童話のなかに出てくる歌でもある。</p>

<p> <blockquote>正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである（「農民芸術概論・序論」）</blockquote></p>

<p>という賢治のことばを思い出す。<br />
じじばばの世代の、銀河系に応じて生きる生き方を参考に、ぼくたちの世代は、どうやって銀河系を意識し、どうやってそれに応じていくことができるのだろうか。徳山村の日常を撮った作品であるのだけど、決して徳山村に限ったことではない、なにか宇宙的な広がりをも感じさせる作品だった。</p>

<p>この映画は、見終わったあと無性に人に勧めたくなるような力があります。<br />
なにか、大切なバトンを渡された気になり、星めぐりのようにリレーしていきたいという気になるのです。友人から勧められてみた映画、順送りに繋がっていけたらなと思う。心からおすすめします。</p>

<p>ps<br />
<a href="http://www.mmjp.or.jp/pole2/"target="_blank">ポレポレ東中野</a>での上映は１０月５日までなのでもうすぐ終わってしまいます。<br />
大垣での上映は１０月中旬までのようです。<br />
名古屋、長野、大阪ではこれから上映されるようです。<br />
詳しくは「<a href="http://web.mac.com/polepoletimes/iWeb/7C4C51EE-E8FF-4870-92E5-6E536C15159B/B5C804F4-AB63-4DF8-AF14-418E13E2084F.html"target="_blank">水になった村</a>」のHPで。</p>

<p>ps2.<br />
ネットをうろうろしていたら、<a href="http://www.geocities.jp/sagesakanoriko/etc/index.html"target="_blank">さげさかのりこさんの感想</a>を見つけた。<br />
僕は「考える人」という雑誌が大好きで、そこに連載されているさげさかさんの「娘と私」というエッセイの大ファンでいつも楽しみにしているのだが、映画の感想もとても丁寧に書かれていて読み応えがあった。「一番悲しいことは、終わってしまうことではなく、続かないということだ」ってほんとうにそう思う。</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/09/post_157.html</link>
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<category>映画</category>
<pubDate>Sun, 30 Sep 2007 13:48:55 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>次の十年、「根」と「葉」について</title>
<description><![CDATA[<p>あと二カ月とちょっとで三十歳になります。<br />
自分が生きた年月を数字にされると、多いのか少ないのかよく分からないけどいつも違和感があります。でも、ともかくもうすぐ三十になるようです。</p>

<p>二十代は旅の時代でありたい。<br />
たしか、二十歳になったばかりのころ強くそう願いました。「時代」なんていう言葉を使うあたりが若いなあと思うのですが、いま振り返ると確かにそのとおりになっていました。</p>

<p>二十代前半は山と自転車旅に明け暮れました。単独で沢や冬山へ行き、喜望峰から日本まで三年半かけて自転車で旅しました。<br />
二十代後半は、読書や執筆を主とした内面の旅に明け暮れていました。物理的に動く旅をする余裕はほとんどなく、主に自分の中へ深く下りていくような旅をしていました。</p>

<p>この十年間、物理的にも内面的にも、よく旅したなあと思います。<br />
意図してこうなったというよりも、振り返ってみたらこうなっていたというのが正直なところですが、みごとに二十代前半と後半で旅の性質が違っています。</p>

<p>二十代前半は、自分を外の世界に放り出したいという止むに止まれぬ情熱で旅立ち、現実に直面するような若い旅でした。そして後半は、三年半の自転車旅で抱えきれないほどの「問い」を持ち帰ってしまったので、途方に暮れながらずっと言葉を探していました。</p>

<p>「世界」や「自分」について思うときはよく『スティル・ライフ』という小説の冒頭におかれている、一遍の詩のような美しい文章を思い出します。</p>

<blockquote>　この世界はきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。<br>　世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐ立っている。<br>　きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。<br><br>　でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。<br>　大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。<br>　たとえば、星を見るとかして。<br><br>（池澤夏樹『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html?ie=UTF8&location=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95-%E6%B1%A0%E6%BE%A4-%E5%A4%8F%E6%A8%B9%2Fdp%2F4122018595%3Fie%3DUTF8%26s%3Dbooks%26qid%3D1188692299%26sr%3D8-1&tag=hanamotecom-22&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"target="_blank">スティル・ライフ</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=hanamotecom-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』中公文庫より）</blockquote>

<p><br />
僕は、「世界」と「自分」を、二本の木が並び立つというイメージで捉えたことはないけれど、両者の間に「連絡をつけること」「呼応と調和をはかること」に深く共感します。</p>

<p>「世界」と「自分」との関係を考えるとき、このごろぼくはよく、一本の木をイメージします。森の中に立つ一本の木のように世界と連絡をつけたいなと思うのです。</p>

<p>一本の木は主に「根」と「葉」とで世界と連絡をつけています。<br />
「根」は、暗い地中に深く伸び、「自分」を「世界」と繋げ、そのことで自立しています。<br />
「葉」は、明るい空の中で光を受け、「自分」を「世界」に向けて開き、そのことで森の一部になっています。森の中に場を得ています。<br />
そういう木のありかたに、なにかとても大切な、見習うべきものがある気がするのです。</p>

<p>次の十年、僕は三十代もやはり旅をし続けたいと思っています。<br />
でもそれは二十代と同じことをやるのではありません。<br />
旅とは、不確実な状況のなかへ踏み出していくことです。<br />
ありったけの知恵と勇気をふりしぼり、すこしづつ進んでいくことです。<br />
「世界」を見て、「自分」を見たあとは、やはり「世界」と「自分」の間に連絡をつける作業に取り掛からなければなりません。<br />
そういう旅を、次の十年もやっていきたいのです。</p>

<p>先日、「<a href="http://hanamote.com/blog/archives/2007/08/post_154.html"target="_blank">樹のたねになる夢を見た</a>」という詩を書いたときに、ああようやく僕は種になったのだなと思いました。二十九年かけてやっとここまで来て、そしてこれからはじまるのだと思いました。これから根を生やし、葉を繁らせていくのだと思いました。</p>

<p>根を生やすことは「自分」を「世界」と繋げていくことです。<br />
葉を広げることは「自分」を「世界」に向けて開いていくことです。<br />
似たようなことに思われるけれど、やはり全然違います。</p>

<p>根を生やすことは、闇の中で、孤独に、深く大地の奥へと向かうことです。歴史に学び、過去の偉人たちに学び、過去と現在を繋げ、その上で自分の両足で立とうとすることです。<br />
葉を広げることは、光の中で、いま共に生きている他者と調和し、垂直に天に向かうことです。ここからすべての場所へ自分を開いていくことで、世界のなかに居場所を作っていくことです。</p>

<p>「根」のベクトル、「葉」のベクトル、どうしても両方必要なのです。<br />
「自分」という境界を保ったまま、「世界」に繋がり、「世界」に向けて開いていくこと。僕は、この二つのベクトルを意識し、樹のあり方を意識しながら、世界と連絡をつけていきたいです。</p>

<p>世界と連絡をつけるということは、具体的に形にしていくということでもあります。抽象的な概念の上ではなく、実際に、生活の中に実現させていくということでもあります。理想を現実と接続させていくということでもあります。ちゃんと届く形にしていくということでもあります。</p>

<p>十年前の、二十歳を目前としたあのころは、不安と希望に押しつぶされていたように思います。三十を目前としている今も同じぐらいの圧力を感じているけれど、不安と希望は同じものの別名なのだということは、この十年で学んだことの一つです。四十を前にしたときはいったいどのように感じているのでしょう？</p>

<p>でもそんな先のことを思うよりも前に、ともかくあと二カ月生き延びなければなりません。無事に三十を迎えることに集中せねばなりません。そうでないと、せっかく書いたこの三十代の抱負が台無しになってしまいます。</p>

<p>来週あたりまた沢に行きます。水源の撮影は方法論も含め模索中で、いろいろと試しているのだけどまだ鉱脈にあたってはいません。時期がくれば自ずと、と思いながらジタバタするしかないようです。二十代を三十代へとリレーしていくことがこの水源行に求められていることなのかもしれません。<br />
</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/09/post_156.html</link>
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<category>日記・エッセイ</category>
<pubDate>Sun, 02 Sep 2007 08:36:52 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>映画「ひめゆり」</title>
<description><![CDATA[<p>「<a href="http://www.himeyuri.info/index.html"target="_blank">ひめゆり</a>」というドキュメンタリー映画を観た。</p>

<p>前からこの映画を見たいと思っていて、東中野にある映画館でレイトショーで上映しているのも知っていて、行こう行こうと思いながら夜８時ぐらいになると決まって急に眠くなり、何日も行き逃していたのだけど、今日ようやく観ることができた。<br />
８時ごろになると急に眠くなったのは、この映画とちゃんと対峙するのがつらいなと感じていたからだと思う。</p>

<p>沖縄戦で「ひめゆり学徒隊」の一人一人がどのようなことを体験したかを、生き残ったおばあたちの証言で綴るドキュメンタリー映画。</p>

<p>この映画のことは、Coccoのスピーチ（<a href="http://jp.youtube.com/watch?v=3agpQJ-NZ-4"target="_blank">Cocco - 沖縄ゴミゼロライブ - Peace</a>）を見たことがきっかけ。<br />
それからCoccoが映画のパンフレットなどにメッセージを寄せていることを知り、ぜひ見てみたいと思ったのだ。</p>

<p>映画が始まってすぐ、やっぱり途中で部屋を出ちゃうかもしれないと思った。ぼくの器はあまりにもちいさく、すぐに溢れてしまうと思った。<br />
でも、映画の中で話してくれているおばあたちの痛みに比べたら、その証言を聞く痛みなどとるに足らないものだとも思い、それにおばあたちの表情が、とてもつらい体験を語っているにも関わらずどこか希望とやさしさに満ちていたから、最後まで観ることが出来た。</p>

<p>そして、僕は本当になんにも知らなかったと思った。<br />
知識や情報ではちきれそうになっている僕の頭は、でも本当に知らなければならないことがすっぽり抜け落ちていると思った。<br />
一人一人の、生身の人間に起こったこととして知ることなしに、どんな出来事も本当の意味で知ることなんて出来ないんだと痛感した。</p>

<p>過去を現在につなげていくこと。それは時に痛みを伴うけれど、僕たちがいまどんな場所に立っているかを知らないと、ちゃんと自分の足で立つことが出来ないから、いま立っている場所はどんな過去とつながっているのか、ちゃんと知りたいと思う。</p>

<p>かつて僕は、「強さ」というのは、異国の地に一人でいても、圧倒的な孤独の中にいても、どれだけ厳しい自然状況のなかにおかれても、生きていけることだと思っていた。<br />
そんな強さがほしいと思い、単独で山に登ったり旅をしたりした。</p>

<p>でも「強さ」ってそういうものだけじゃないといまは思う。<br />
自分の立っている現実から目を逸らさない強さ、思考停止をしないで考え続ける強さ、他者の痛みをありありと自分ごととして受けとめられる強さ、自分のなすべきこと、やり遂げるべきことを探し、みつけたらそれを全うして生きる強さ。いまはそんな強さに憧れている。<br />
映画を見に行こうとするだけで眠くなってしまう僕はいまあまりに弱いけれど、そんな強い人になりたいと思った。話してくれたあのおばあたちに感謝するとともに、その強さに逆に励まされるような気がした。</p>

<p>多くの人にぜひ見て欲しい映画です。<br />
痛みを感じずに観ることはできない映画だけれど、おばあたちの明るさと、南国の、命を肯定してくれるような光景に助けられ、痛みが深いところから希望に変わっていくのを感じられる映画でした。</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/08/post_155.html</link>
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<category>映画</category>
<pubDate>Sun, 19 Aug 2007 02:23:31 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「樹のたねになる夢を見た」</title>
<description><![CDATA[<p>「樹のたねになる夢を見た」<br />
</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/08/post_154.html</link>
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<category>詩</category>
<pubDate>Thu, 16 Aug 2007 03:44:40 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「言葉に自分が覆われる前に」</title>
<description><![CDATA[<p>「言葉に自分が覆われる前に」<br />
</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/08/post_153.html</link>
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<category>詩</category>
<pubDate>Thu, 16 Aug 2007 00:58:23 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「ゴミ」についてのやや長い考察</title>
<description><![CDATA[<p>先々月、荒川の真の沢本谷を遡行していたときのこと。<br />
ようやく辿り着いた初めの一滴がしみ出ている場所に、プラスチックゴミが一つ落ちていた。<br />
真の沢本谷は荒川の水源で、そこはコメツガやトウヒなどからなる亜高山帯の針葉樹林になっていた。</p>

<p>ぼくはとっさに拾おうとして、でもやめた。<br />
ゴミをフレームから外して写真を撮りその場を離れた。<br />
でも、しばらく歩いていると怒りが込み上げてきて立ち止まってしまった。立ち止まり、しばらく逡巡したのちに諦めて水源に戻り、ゴミを拾いザックに押し込んでまた歩き出した。そのとき、このことは誰にも言うまい、どこにも書くまいと思った。なぜか悪事を働いてしまったかのようにも思っていた。</p>

<p>今までもゴミはたくさん目にしてきた。<br />
国道沿いの沢には、車から投げ捨てられたのだろうペットボトルや空き缶が至る所にあったし、テレビが不法投棄されていたりもした。かなり山深い場所でも、釣り師か、林業の人か、あるいは沢登りをする者が残したゴミをときどき目にした。道路沿いに不法投棄を禁ずる看板がたくさん立てられていた。</p>

<p>ゴミを見るたびに僕は、気持ちを殺がれエネルギーが奪われていくように感じたが、いちいち拾っていたらキリがないし、荷物は一グラムでも軽くしたいから、まず拾わなかった。<br />
…というよりむしろ、意識的に拾わないと決めていた。<br />
ゴミを拾うというような、「社会的に善いとされていること」はとてもできないと思っていたからだ。</p>

<p>僕には、「社会的に善いとされていること」に対する、抜き差しならない警戒心がある。<br />
世界を善と悪とに二分し、自分は善の側に属しているのだと思うことにたいする警戒心と嫌悪がある。ゴミを拾うというようなささいなことにも、それを「善いことをしている」という自覚を伴って拾うことは絶対にしたくない。善意は油断すると暴走するから。</p>

<p>光があれば必然的に影が発生するように、善いことを行うと必然的に敵が生まれる。ゴミを善意で拾うと、ゴミを捨てた人を悪としなければならなくなる。悪を想定しない純粋な善意はありえないのだから。<br />
アウシュビッツもヒロシマもオウムも、無邪気な善意が暴走した結果起こってしまったことだと思う。「善いことをしている」という自覚が人をどこまでも残酷にするのだということを、歴史が、多量の血と涙を流しながら教えてくれている。<br />
世界を敵と味方に二分する考えから血は流れ始めるのだ。だから、善いことだと思っている内はゴミは拾えない。でも本当は、こんなやっかいなことなんか考えないで、拾いたいときにただ拾いたいのだ。</p>

<p>沢でゴミを見るたびに僕はイライラし、拾いたいと思いながらでも拾えず、ずっとジレンマを抱えていた。「ゴミ」っていったい何だろう？　なぜ「ゴミ」が落ちていると頭に来るのだろう？　そんなことをずっと考えていた。</p>

<p><br />
どの川も無数に枝分かれしているから、一つの川には無数の水源があるのだが、河口から一番水量の多い流れをたどった先を一般に水源としている。荒川にとっては甲武信ヶ岳に突き上げる真の沢本谷の水源が、荒川の水源だった。だからここは、流域にすむ９００万人の人々にとっても大切な場所なはずだった。</p>

<p>僕は、この東京の水源域の撮影を、自分の身体と大地との関係を思い出すこと、自分の身体のルーツを探ることだという思いで行っている。だから、荒川の水源は言わば象徴的な場所で、ゴミなど絶対にあってはならない場所だった。ゴミを見つけてしまったときは、自分の身体の一番奥にプラスチックが引っかかっている気がし、すごく嫌な気がした。</p>

<p>でもやはり理性が勝り、すぐには拾えなかった。<br />
やや行き過ぎてから怒りが込み上げてきて、また戻り拾ったのだが、それから東京に戻ってからもずっと、このときのことが喉に刺さった小骨のように気になって仕方がなかった。<br />
あのとき、このことは他言はするまいと思ったのだが、それからの日々で自分の中で小骨が溶けるような変化が起こり書けるようになった。</p>

<p>変化のきっかけはCoccoのYouTubeでの映像（<a href="http://jp.youtube.com/watch?v=xAsfuji-gSE"target="_blank">Cocco - 沖縄ゴミゼロライブ - Love</a>）を見たことから。荒川から東京にもどってきてすぐのときにたまたま目にした。「ゴミ」についてずっと考えていたときだったので、なにかとても重要なことを彼女が言っている気がして、何度も何度も見た。<br />
この中で彼女は</p>

<p>　みんなにそれぞれの「ゴミゼロ」があると思います。<br />
　みんなにとっての「ゴミゼロ」を探して欲しいと思います。</p>

<p>という、何か禅問答にも似た問いを発している。<br />
ただゴミを拾って欲しいと言っているのではない。もっと根源的な世界観の変化を彼女は訴えているのだと思った。そしてそれは、「自分」と「自然（自分の立っている場所）」に関する、世界観の変化なのではないかと思った。</p>

<p>彼女は２００１年に歌手活動を停止したのだが、「ゴミゼロ大作戦」を通して、もういちど歌っていく決心が育っていったということが、言葉の端々から伝わってくる。<br />
彼女は「自分のやり方で、自分の立っている場所を、ちゃんと愛していこうと思っています。」とも言っている。「自分の立っている場所」との関係を回復することで、歌を取り戻している。</p>

<p>そしてその取り戻した歌は、活動停止前と比べ、何かをくぐり抜けたような開放感のあるものになっている。以前の曲はどれも、歌わなければ死んでしまうような切迫したものがあった。「自分」に閉じ込められまいとするエネルギー、「死にたくない」というエネルギーが歌に結晶していた。それらの曲を僕は強く共感しながら聴いていたのだが、活動再開後の、もう一度歌いはじめた曲は、共感よりももっと普遍的な広がりがあるものになっていた。</p>

<p>「ゴミゼロ」という言葉を、彼女は「愛してる」という言葉で言い換えている。<br />
そして彼女の愛は、「自分の立っている場所」に向いている。<br />
きっと彼女にとって「自分の立っている場所」とは、那覇や沖縄本島やそこに住んでいる人々であると同時に、日本や東アジア地域でもあり、環太平洋地域でもあり、そして地球や宇宙全部にまで広がり、大地母神的な存在にまでゆるやかにつながる、あらゆる段階を含んだものとして意識されているのではないかと思う。「自分の立っている場所」を愛することによって、「世界ぜんたい」とつながっていこうという方向なんじゃないかと思う。（宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福でないうちは個人の幸福はありえない」という言葉を思い出す。）僕は、そんな彼女の想いの方向がとてもうれしかった。</p>

<p><br />
「ゴミ」ってなんだろう、という思い。<br />
数日間山に行き、持ち帰るゴミはほとんどすべてプラスチックゴミだ。<br />
きっと「ゴミ」の本質は、分解の速度、大地からの距離感なのだと思う。<br />
分解の速度が早く、すぐに大地に溶け込むものを、僕はゴミだと思わない。<br />
アスファルトの上に落ちている枯れ葉は、容易に大地に溶け込まないから残念ながらゴミになる。<br />
でも森の中にある枯れ葉は、地上に落ちたときから大地そのものになっている。（山深い森の中の、枯れ葉が厚く降り積もった場所を歩くと、足が数センチほど沈み込んでびっくりすることがある。枯れ葉が大地とつながっていることがありありと感じられて心地よい）<br />
そしてプラスチックは、種類にもよるのだろうが、森の中で完全に分解するのに数十年から数百年、あるいはそれ以上かかる。<br />
「ゴミ」の本質は、大地から切り離されているかどうか、なのだと思う。<br />
プラスチックが分解する速度は、人間の寿命と比べてあまりにも長い。<br />
森の中で「ゴミ」を見つけたときに感じる嫌悪感は、自分もまた大地から切り離された存在なのだということを思い出してしまうからではないか。</p>

<p></p>

<p>「人間は死ねばゴミになる」という考えもある。<br />
かつてある検事総長がこのような発言をして話題になったことがあるのだという。<br />
これも一つの価値観、一つの死生観だと思う。<br />
人間を完全に大地から切り離されたものとして、その存在を徹底的に「孤独」なものとして捉える世界観は、いかにも検事総長らしい、法に殉死するかのような強い覚悟が伺える。</p>

<p>あるいは、「ゴミ」という概念がない、という世界観もある。<br />
アフリカやチベットやインドや中国の小さな村で、そこら中にビニールが捨てられている光景を何度も見た。そこに住んでいる人が、日常的に、何の悪意もなく行っていることだった。<br />
おそらく都会に住む者が「ゴミ」だと思うものが、そこでは「ゴミ」だと思われていないだけなのだろう。あるいは「ゴミ」という概念すらないのかもしれない。<br />
そのような光景を僕は汚いと思い、がっかりするのだが、おそらく住んでいる人は、なぜ汚いのか、なぜがっかりするのか、理解に苦しむだけなのだと思う。「自然」というものに都会人の抱く幻想を、その人たちは抱いていないのだと思う。</p>

<p>「人間は死ねばゴミになる」という世界観も、「ゴミ」という概念が存在しないという世界観も、それぞれにその環境から導かれた価値観だ。善し悪しなどない。</p>

<p>僕は上記の両極端な考えを自分ごととして受け入れられはしないけれど、そういう考えがあるということはしっかりと心に留めておきたいと思う。そしてその上で、自分はどういう価値観の上に立っているのかを考えていきたいのだ。</p>

<p>僕は荒川の水源で、込み上げるような怒りを抱き、理性は止めているにも関わらずゴミを拾った。ただただ純粋に嫌だったのだ。<br />
なにが「世界を善と悪とに二分したくないだ」、なにが「社会的に善いとされていることをしたくないだ」と、怒りの矛先は自分の理性にも向けられていた。ゴミの存在と同じぐらい、賢（さか）しく分別している理性にも頭に来て、さっさと拾えばいいじゃないかと思った。そこにゴミがあることと、理性がじゃまをして拾えないことがものすごく嫌だった。</p>

<p>ぼくはそのとききっと、本当に自分の奥にゴミが引っかかっていると思ったのだった。<br />
だから、あの場面で強い怒りが込み上げてきたということは喜ばしい変化だった。<br />
理性の壁を喰い破って立ち現れる感情は、善悪や正邪の区別などない、もっと深い場所から湧き上がるものだ。ぼくはこのような、無意識の深層から立ち現れるものが示す方向に正直でありたいと思う。</p>

<p>あのとき、このことは書くまいと思ったことをいまこうして書いているのは、あのときの行為は決して「社会的に善いこと」だと思って行ったことじゃないと、ようやく深く納得できたから。そして、何を嫌だと思うのか、何を好きだと思うのかを、遠慮せずにはっきりと口にしていこうと思ったから。</p>

<p>何を美しいと思うのか、何に心を奪われるのかが、世界を変えていくのだと思う。それを形にしていきたいという強い願望があるが、それが善いことかどうかは誰にも分からないこと。<br />
光が粒子であると同時に波動でもあるように、「自分」は境界を持った「個」であると同時に、大地と不可分につながっている「全体」でもある両義的な存在だという考えの糸をもっと辿り、もっと鍛え上げ、ちゃんと届く形に結晶化させていきたい。<br />
（でも力不足で途方に暮れているというのがいまの正直なところ。）</p>

<p><br />
おまけ：<br />
<a href="http://jp.youtube.com/watch?v=cnP7O_sAHcg"target="_blank">Cocco - Dugong no Mieru Oka (Live Earth)</a><br />
名曲です。（この曲の背景について、毎日新聞に<a href="http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20070812ddm013100149000c.html"target="_blank">記事</a>がありました。）<br />
</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/08/post_152.html</link>
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<category>日記・エッセイ</category>
<pubDate>Wed, 15 Aug 2007 02:16:25 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Coccoのスピーチと歌</title>
<description><![CDATA[<p>一カ月前にYouTubeでみつけたもの。<br />
それ以来何度も何度も聴いてる。</p>

<p><a href="http://jp.youtube.com/watch?v=xAsfuji-gSE"target="_blank">Cocco - 沖縄ゴミゼロライブ - Love</a><br />
<a href="http://jp.youtube.com/watch?v=3agpQJ-NZ-4"target="_blank">Cocco - 沖縄ゴミゼロライブ - Peace</a><br />
<a href="http://jp.youtube.com/watch?v=w2f4cWu1k0w"target="_blank">Heaven's Hell - Cocco</a></p>

<p></p>

<p></p>

<p>ps.<br />
明日からまた、一週間ぐらいの予定で奥多摩に行ってきます。<br />
（８月２日に帰ってきました。）</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/07/cocco.html</link>
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<category>日記・エッセイ</category>
<pubDate>Sat, 28 Jul 2007 02:17:14 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>銭湯の詩</title>
<description><![CDATA[<p>銭湯の詩</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/07/post_151.html</link>
<guid>http://hanamote.com/blog/archives/2007/07/post_151.html</guid>
<category></category>
<pubDate>Sat, 14 Jul 2007 00:37:17 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「新しい神話」を探る</title>
<description><![CDATA[<p>一人で水源域の森を歩いていると、ときどき「感情のかたまり」のようなものが込み上げてくることがある。<br />
その込み上げてくる感情が、自分でも、嬉しさなのか、悲しさなのか、さみしさなのか、楽しさなのか、あるいは怒りなのか分からない。ただの、「感情のかたまり」が、光景に感応して込み上げてくることがある。そういう瞬間が大好きなので、僕は何度も水源域に行くのかもしれない。</p>

<p>水源域に行くことで何をしようとしているのか。森の中を歩いていても、帰ってきて都市に生活していても、常に自分に問いかけられている。そのことを本当に忘れられるのは、「感情のかたまり」が込み上げてきたときぐらいだろうか。</p>

<p>僕は、自分がやっていることを、執拗に言葉にしようとする人間なのだと思う。行動することと言葉にすることが常に競争している。行動することが先に行ってしまうと必ず言葉が追いつこうとする。そして追いついたかと思うとまた行動が先に行く。そうやって、行動と言葉を競争させることで、もっと遠くへ行けると思っているのかもしれない。</p>

<p>何をしようとしているのかという問いは、一つの正解を求める問いではなく、問うことで新たな問いが生まれ、深まってゆく種類の問いだ。数ヶ月前は「奥にある自然」「回帰する時間」などについて考えていた。そして「<a href="http://hanamote.com/blog/archives/2007/04/post_135.html"target="_blank">水源行計画の主旨</a>」と題して言葉にした。<br />
それらを踏まえて、僕はこのごろずっと、今やっていることは「新しい神話」を探るという多くの先人たちが取り組んでいるテーマの中の、僕なりのささやかな試みになっていくのかもしれないと感じている。それは、「人間」と「自然」との関係を探ることでもある。</p>

<p>人は「自分」という同一性を保つために、常に物語を必要とする生き物だ。<br />
そしてある時代に生きる人々がひとつの物語に心を奪われ、その物語を多くの人が無意識に共有するようになると、その物語は共同幻想となり、神話となる。その物語が放つ光が強烈であると、数千年、数万年もの長きに渡って人々を魅了し続けることになる。</p>

<p>いま僕たちが生きている世界でももちろん神話は共有されている。<br />
そのなかで比較的力を保っているのは、「経済」という神話と、「科学」という神話だろう。<br />
でもその神話には、かつてあった強い光がもう宿っていないということに多くの人が気がついている。<br />
「経済」は、その恩恵を被れる人々の暮らしを豊かにする一方で、必然的に貧富の格差を生み、環境を破壊する。<br />
「科学」は、それを応用する技術が常に諸刃の剣であり、人類にとってものすごくいいことと、ものすごく悪いことを同時にもたらしてしまう。<br />
だから僕たちは「経済の発展」や「科学の発展」に、もはや心から魅了されはしない。部分的な魅力は感じるのだが、必ず陰の部分が目についてしまう。陰が目につくようでは本当の意味での神話足り得ないのだ。</p>

<p>だから僕たちは、神話を見失っている時代に生きているのだと思う。<br />
近代化により土着的なものから解放され「自由」な「個人」になった一人一人が、「ありあまる自由さの中で立ち往生している」という時代。「個人」として生き、情報の圧倒的な洪水の中で「自分」とは一体何なのか混乱している時代。先進国の都市生活者の多くはそんな時代に生きていると思う。</p>

<p>物語を抱けないと人は生きていけない。だから常に人は物語を抱き続ける。<br />
しかし人間にとっての生命線である物語が、「個」という単位にばらばらになっている。<br />
共同体の結び目がほどけ、「自由」な「個人」となった現代人は、大地から切り離された存在として、人類史上味わったことのない「孤独」の中に生きているのではないだろうか。</p>

<p>「自由」や「個」であることをどこまでも求めると、人は必然的に「個」に閉じ込められてしまう。「自由」を求め、「個人」であり続けようとすることで、大地から切り離され、「自分」に閉じ込められ、「自分」が牢獄のように感じられてしまう。そしてそうなってしまうと、根を切られた植物のように生命力が弱り、場合によっては自ら命を絶ちかねなくなってしまうのではないか。</p>

<p>僕は「自由」を最も大切にしたいと願う人間だが、一方でこのごろ、人間は本当には自由になれないとも感じている。それは、たとえあらゆる組織から解放され、どこまでも自由になったとしても、「自分」は「自分の身体」に属していると思うからだ。そして「自分の身体」は、食べ物、飲み物、呼吸する空気に属していると思うからだ。だから人間は、必然的に「自分が生きている場所」に属していると思うのだ。<br />
人間は、どれだけ自由になり、どれだけ個人になったと思っても、なお自由ではなく、個人でもなく、それゆえ根源的には孤独になれないと思うのだ。</p>

<p>僕は何かに所属することを嫌う者でもあるが、「自分」が「自分の身体」に属していることを受け入れられる。そして「自分の身体」が、水や空気や食べ物からできていることは納得できるし、それらがどこから来ているのかを考えれば、「自分」が「大地」に属していることも抵抗なく受け入れられる。受け入れられるどころか、そのことに気がついて「自分」が牢獄などではないと思うことができ、とても嬉しかった。このような場なら所属できると思った。</p>

<p>このことは、あまりに当たり前で、それゆえあまり気づかれていないことなのではないだろうか。<br />
人間もまた、一本の樹のように、その根は大地に食い込んでいるということ。自由な個人になった現代人は、その寄る辺なさの真っ只中でもなお、大地との関係だけは切ることが出来ないということ。圧倒的な孤独の中にあってもなお属しているものがあるということ。自然とは、意識しようがしまいが、常にそこに属しているものなのではないか。</p>

<p>そして、僕たちの食べるものが世界中から運ばれてくることを考えると、「自分」とは、ある限定された組織や国に属するのではなく、直接「世界」につながり、「世界全体」に属しているのだと実感できる時代になってきている。<br />
宮澤賢治の「農民芸術概論綱要・序論」という文章に、こんな言葉がある。</p>

<blockquote>世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない<br><br>
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである</blockquote>

<p>特に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ということばは、宮澤賢治の思想の根幹をなすものとしてよく知られている。<br />
自分だけ、自分の属している組織だけ、自分の国だけの発展成長を欲するのではなく、「世界ぜんたい」や「銀河系」を直接「自分」とつなげ、それをよすがとするこの思想は、賢治が生きた時代よりもますます必要とされてきている気がする。</p>

<p>次の十年、次の百年、次の千年を生き延びて行くための、新しい神話。<br />
きっと「新しい神話」とは、すでに語られていた神話を再構築することで形作られるものだと思う。</p>

<p>いま僕が惹かれているのは、狩猟民が抱いていたであろう世界観だ。<br />
狩猟民は、自分の身体が、身体感覚として、「自然」に属しているということを知り尽くしていた人たちだ。そしてその世界観から多くの神話が語り継がれていった。<br />
狩猟民の神話をぼくたちはもう、自分ごととして、光あるものとしてそのまま受け入れられはしないけれど、そこには「人間」と「自然」の関係について今必要とされているものがたくさんあると思う。<br />
かつて語られていた神話を現代に有効なものとして再構築するということ。狩猟民の心や身体感覚を自分ごととして思い出すこと。それが「新しい神話」を探るということだろうと思う。</p>

<p>屋久島に生きた詩人山尾三省に「水が流れている　その三」と題された短い詩がある。<br />
僕がいま取り組んでいることと呼応する詩なので、その詩を紹介して筆をおくことにする。</p>

<blockquote>水が流れている　その三<br><br>
山が在って<br>
その山のもとを<br>
水が　流れている<br>
その水は　うたがいもなく　わたくしである<br>
水が　流れている<br>
水が　真実に　流れている<br>

<p>『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html?ie=UTF8&location=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%E3%81%B3%E3%82%8D%E3%81%86%E8%91%89%E5%B8%BD%E5%AD%90%E3%81%AE%E4%B8%8B%E3%81%A7%E2%80%95%E5%B1%B1%E5%B0%BE%E4%B8%89%E7%9C%81%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E5%B1%B1%E5%B0%BE-%E4%B8%89%E7%9C%81%2Fdp%2F4787793810%3Fie%3DUTF8%26s%3Dbooks%26qid%3D1183466469%26sr%3D8-1&tag=hanamotecom-22&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211"target="_blank">びろう葉帽子の下で</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=hanamotecom-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』（野草社）より</blockquote></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/07/post_150.html</link>
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<category>日記・エッセイ</category>
<pubDate>Tue, 03 Jul 2007 21:36:29 +0900</pubDate>
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<title>こんなにも好きだった</title>
<description><![CDATA[<p>荒川の水源域を１１日間かけて遡行し、撮影し、帰ってきてから二日経っている。戻ってきた直後はまだそれなりに体力が残っていると思っていたのだが、やはりそれは気が張っていたからで、この二日間は体の芯から疲労が滲みだし、駅まで歩くだけで息が切れるという有様だった。</p>

<p>荒沢谷、金山沢大荒川谷、真の沢本谷と、三つの沢を撮影してきた。<br />
真の沢の遡行を終え下山中に泊まった樺避難小屋での最終日の夜、日記を書いていたときに、ふと気になって、出発してから何日経っているか数えたのだが、十日しか経っていなかったので少し驚いた。自転車に荷物を積んで東京を出発したのは、実感ではもう半年も前のことのように思えていたので、実際に経過している時間と、主観的な時間とがかけ離れていた。そしてそれは時間泥棒に一秒たりとも盗まれていない証拠だなと思い、少し嬉しく思った。</p>

<p>前回の多摩川水源域へ行ったときもそうだったのだが、今回も、出発の準備を整えてから一日の空白を設けて出発した。<br />
装備などをしっかりパッキングして、いつでも出発できる状態にしても、すぐに出発する気になれず、一日部屋の掃除をしたり洗濯をしたりして、置いてきぼりになっていた気持ちを待って、次の日出発した。<br />
沢に単独で行くということは、冬山に単独で行くのと同じぐらい不確定要素が多く、絶対安全ということはありえないので、掃除をするのは、もし遡行中に何かあって、僕以外の人が部屋の中に入ることになったときに、散らかった部屋だと嫌だなという思いもある。<br />
だから、くたくたになって帰ってきたとき部屋はきれいに片付いており、それを見てああ無事に帰って来れたなと思い、嬉しかった。</p>

<p>そして、帰ってきて二日経って、あれほど大変だったのにもう次に行きたくなっている。いろいろと準備することがあるからすぐには出発できないけれど、次は利根川の水源域になる。そして利根川の後はまた多摩川・荒川の水源域に、行きたい場所がたくさん残っているし、もう一度行きたい場所もたくさんある。こんなにも好きだったのだということに、自分でもちょっと驚いている。とにかくまだまだだということだけは確かなのだ。このままずうっと歩いて行くとどこに出るのかは分からないけれど、もっととおくへ、もっと奥へ行きたい。</p>]]></description>
<link>http://hanamote.com/blog/archives/2007/06/post_149.html</link>
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<category>日記・エッセイ</category>
<pubDate>Wed, 20 Jun 2007 13:22:00 +0900</pubDate>
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