1−6月光を反射する海
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| 夕刻、もう空が暗くなりしばらく経った頃、同じく暗い海の向こう、水平線からゆっくりと月が昇ってきた。赤く大きな満月が昇ってきた。日の出ならぬ“月の 出”だった。そして、時の経過とともに月は次第に赤から黄金色へと色を変え、光を強め、青白い光が海全体を照らしていった。タンザニア、ダルエスサラーム の沖数十キロに浮かぶ島、ザンジバル島の東海岸でのことだった。 潮が引いていた。どこまでも遠浅の海が続いていた。裸足になり、歩けるところまで歩いてみようと思い立ち、月の光の射すほうへ、まっすぐ沖のほうへ歩きだ した。白く細い粘土のような砂が足裏に心地よかった。初めのうちはほとんど海水のないところをピチャピチャと歩いていた。やがてくるぶしぐらいまでになっ た。ひんやりしていて気持ちがいい。月光が海に反射して明るい。とても静かだった。 ゆっくり歩いていった。まるで青く輝く光の大平原のようだった。どこまでも歩いていけそうだった。歩くたびに波紋が広がってゆき、それが風でできた波に消 えてゆく。水の上を歩いているかのようだった。 少し歩を早めた。振り返るともう海岸は彼方後方にあった。泊っているゲストハウスの灯りが小さく見える。それでも一向に海は深くならない。こんな遠浅の海 が信じられなかった。広く大きく水平な空間に一人、月光に照らされ歩いていた。一体どこまで歩いていけるのだろう。このまま日本まで歩いていけるのではな いか? なんだか本当にそんな気がしてきた。 気づくと海水はひざまであった。波が来ると腰まで水がきた。一キロぐらい沖に来たようだ。これぐらいかな、そう思って引き返した。 青く揺れる光の海の大平原、前方には満月。一つの光景が目にくっきりと焼き付けられた。輝く月、月光を反射する海。あまりにも幻想的で、非現実的で、だか らこそくっきりと網膜に焼き付けられた。 一週間ザンジバル島で過ごした。昼間は海を眺めたり、泳いだり。夜は月の光を浴びながら散歩をしたり。平和、あまりにも平和だった。そして、海のリズム か、月の光か、現実から乖離したようなこの平和な光景は、なぜか僕に死を思い抱かせた。それは絶望ではなく、むしろ期待感にも似た想いだった。異なる世界 への好奇心に似ていた。僕は毎日ぼんやりと死を夢想していた。 よくヤシの木の間に吊るされたハンモックに揺られながら、海を眺めたり、目を閉じたりしていた。時々目を開け、頭の真上に実っている数個の大きなヤシの実 を見上げた。あの高さからあの中の一つが落ちてきて、ちょうど僕のこめかみに直撃すれば一瞬で死ねるだろうな、そう思いながらワクワクしていた。 こんな平和な光景の中、波の音を聞きながらハンモックに揺られ、現実から一瞬で離れられるなんてとっても素晴らしいことだと思い、無邪気な期待を抱いてい た。 風が吹いたら目を閉じた。そうしたらすべてが変わるのかもしれなかった。あのヤシの実はいったい僕をどこへ連れていくのだろう。そう思ってハンモックに揺 られていた。現実というものに、僕を繋ぎとめるだけの引力を感じられなかった。現実というものがいったい何を意味するのかもよく分からなかった。 ヤシの実は落ちなかった。一週間後にザンジバル島を離れた。 夢を見ているように捉えどころのない日々だった。平和な光景の中で、ひととき現実世界のザラザラとした質感を離れ、心地よい子宮の中で守られるようにハン モックに揺られていた。できることならこのまま月の光に抱かれていたかった。もう外へは出て行きたくないと思っていた。 それでもザンジバル島を離れたのは、今まで続けてきたことの惰性と、一つのところに長く居すぎることへの嫌悪からだった。僕は心のどこかで常に「移動し なければ」と思っていた。同じ場所に長く滞在していると、内側から腐るように移動する気力を失うのではないかと思っていた。そしてこのまま動けなくなるか もしれないという思いがやがて嫌悪に変わり、いやいや出発したのだった。 そうやって出発したのだが、まったく心が萎えてしまっているのだから、全身にどうあがいてもぬぐいきれない倦怠をひきずっていた。心の奥深くにいつの間に か「どうでもいい」という無気力な思いがはびこっていた。そんな思いを抱きながら自転車を漕ぐことは苦痛以外の何ものでもなかったが、自転車は漕がなけれ ばならなかった。それ以外に旅する方法はなかった。毎日狂おしい怒りを感じながら漕いでいた。意識が消失し、体だけの疲労であるようにと願っていた。 この頃、日本を出てから欠かさず書き続けていた日記が書けなくなっていた。書こうとしてもすぐにバカバカしくなり、ノートを取り出したままで固まってい た。 もう半年も旅しているのだ。長い旅なのだからこんなときもある。いつでも元気ハツラツというわけにはいかない。そう言い聞かせ、長く暗いトンネルを手探 りで前進している気持ちだった。 |
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