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肉を食うということ


  目の前で羊が殺されてゆく。

  一人の男が頭を押さえ、もう一人が手足を押さえ、地面へ横に倒して動けなくする。そして三人目の男が蛮刀でさっと首を切る。切り落とすのではなく、前半 分、喉のところだけ切る。

  その瞬間、羊は狂ったように暴れる。脚が地面を蹴り、砂ぼこりが立つ。しかしそれも数秒で、だんだん手足が動かなくなり、数分後には時折かすかに痙攣する だけになり、いつしかそれも絶える。首からドロッとした深い赤色の血が流れ出している。それがちょうど首の下に浅く掘られた穴にたまり、あふれ出ている。 真昼の強い陽射しの下、深く赤い血が光を反射している。

 マリ共和国は中心がくびれた形をしており、そのくびれの西側に、数十キロに渡るバンディアガラ大断崖がある。ドゴン族は、そのバンディアガラの大断崖に 沿って点々村を作り暮らしている。現代の波に洗われながらも独自の神話世界を保ち、伝承し、その中に生きている。僕はガイドを雇い、四日間ドゴン族の村々 を巡り歩いた。

  三日目だった。朝、ある村を出て次の村へ行く途中、ちょっとした広場になっている場所でガイドが立ち止まり、今日ここでマーケットがあると言った。近くに 村もなく、まったく人気のない場所だったが、確かに広場の一画は木の枝とワラで作られた日除けがいくつか並んでいて、マーケットの場所らしい。始まるのを 待ってみることにした。

  朝九時から正午までは誰一人としていなかった。僕もガイドも木陰で寝ていた。正午をすぎると、どこからともなく一人、また一人と集まってきた。頭の上にか ごを載せ、女たちが集まってきた。ロバに荷車を牽かせ、男たちが集まってきた。羊が引きずられるように何匹も連れてこられた。そうして、広場に徐々に人が 集まりだした頃、初めの一匹の羊の喉元が掻っ切られた。

  首を切られ動かなくなった羊は、木の枝に吊るされる。まず、首の辺りから下へ、まるで服でも脱がせるかのように、男は器用に皮を剥いでゆく。それから腹を 裂く。内臓を一つ一つ取り出す。肉を部分部分に解体する。男は淡々と作業を進める。羊は痩せ細ってゆき、最後には頭だけになる。その頭が取り外され、次の 羊が掛けられる。羊の目は開いている。

  僕はその一部始終をずっと見ていた。見なくてはいけないと思っていた。生々しく、気味の悪いものだった。そして、これが肉だったのかと驚いていた。知って いるはずなのに、これが肉だったのかと驚愕ですらあった。

  次々に羊が連れてこられ、喉元を切られ、暴れ、やがて絶命し、木の枝に吊るされ、解体されてゆく。今、命であったものが、次の瞬間、肉になっていた。それ が、眼前に生々しく展開されている。何体もの羊が枝からぶら下がって揺れている光景。その下で他の羊が首から多量の血を流し、しかしまだ死にきれずに時折 体をふるわせている光景。その横で別の羊が今まさに喉元が切られ、砂ぼこりが立ち、流れ出す血とともに、息が、切られた箇所から外へ漏れてゆく音とその光 景。それらをつぶさに見ながら、つくづく、知らなかったと痛感させられた。僕が毎日のように食べている肉が、もとは生き物だったのだと、今、初めて、光景 として知った。肉は命だった。そして肉を食べることは命を食べることだった。

  一匹の羊が解体場所の横の木につながれていた。この羊は今、何を感じているのだろう。これから自分の身に起こることを知っているのだろうか。僕は近づいて いって、目を覗き込んだ。僕は、草食動物はそんなに感情というものを持たないと思っていた。殺される直前まで目の前の草を食べているのだろうと思ってい た。しかし、目を覗き込んでみると予想とはまるで違った。目がよどみ、焦点が定まっていない。あるいはそれは「哀れな、これから殺される羊」と主観的に見 たからかもしれない。羊はやはり草を食べることしか頭にないのかもしれない。しかし、どうやらそうではなさそうだった。そうでなければ、羊がつぎに取った 行動の説明がつかなくなる。
  男がこの羊の番が来たので連れていこうと近づいてきたときだった。なんと羊が男に頭突きをしたのだ。まさに決死の発狂とでも言いたいような反抗だった。男 は蛮刀で殴りつけ、なおも逃げようと抵抗する羊を無理やり解体場所へ運んでいった。僕は驚いてしまった。家畜が、人に襲いかかるものなのか?

 羊が「死」を予感したかどうかは知らない。いや、おそらく「死」は予感できなかっただろう。言葉を持たない羊が、抽象概念である「死」を感じられるとは 思えない。しかし、その場に漂うただならぬ雰囲気から、飼いならされた家畜でさえ、生き物の本能から、極めて大きな「不快」を感じたのだろう。だとしたら その不快の巨大さは「死の恐怖」とほとんど同質なのではないか。だとすると、すべての肉も同様に、巨大な不快を感じつつ殺された命である可能性はある。

  解体場所のすぐ横でいつの間にか盛大に肉が焼かれていた。今、殺し、解体したばかりの肉がジュージューと油をしたたらせ、旨そうに焼きあがっている。

 旨そうに。

  肉を見て、旨そうだと感じていた。たった今、男に襲いかかった羊を見て、逃げろ! 綱を引きちぎって逃げろ! と思わず心の中で叫んでいたにもかかわらず、だ。
  目を移すと先ほどの羊が首根っこをぱっくりと開けて横たわっている。赤々とした血が流れ出している。時折、まだ動く。また目を移すと肉が焼かれている。肉 汁が焚き火に滴りジュッと音がして、煙があがっている。

  肉は、命だった。そして肉を食べることは、命を食べることだった。
  肉は、旨そうに感じられた。はばかりながらも、紛れもなく旨そうだった。

  日本にいたときは一人も出会わなかったが、旅に出てからは、多くのベジタリアンに会った。僕は今まで、そんな彼、彼女たちを理解できないでいた。ある種の 贅沢と思っているふしさえあった。しかし、この光景を目の当たりにして、そのように単純に考えることができなくなった。

  ジンバブエのハラレで出会ったニコちゃんのことが思い出された。
  僕は毎日、他の日本人旅行者と一緒に親子丼やカツカレーなどを作って楽しく夕食をとっていたのだが、彼女は決して加わらなかった。どうしてなのか不思議に 思っていたが、ある日彼女と話しているときに本当のことを教えてくれた。彼女はベジタリアンだったのだ。

  「小学校に入って、初めての理科の授業だったの」と彼女は話してくれた。
 「その授業は、動物の正しい抱き方という授業だったの。先生がこんなことを言ったわ。うさぎを抱くときは耳を持ってはいけません。あなたの耳をひっぱら れたら痛いですよね。だから両手でしっかり抱きましょう。猫を抱くときは首の後ろを掴んではいけません。あなたの首の後ろを掴まれて持ち上げられたら痛い ですよね。だから両手でしっかり抱きましょう、って。私、それを聞いてすごくおかしいと思ったわ。だから授業が終わってから先生の所へ行って質問したの。 先生、どうしてそうやって動物をやさしく抱くのに、お肉を食べるんですかって。そうしたらね、先生が私のことすごく怒ったの。よく分からないけど、すごく 怒るのよ。だから私ますますおかしいと思って、それからだったの、だんだんお肉を食べないようになったのは。もちろん、小学生の頃は親に無理矢理食べさせ られたりはしたけど」

  そのとき僕はその話を聞いて、ニコちゃんはなんて早熟なんだろうと思ったが、肉を食べないという考えそのものについては特に何も感じなかった。

  ある若いオランダ人のカップルもベジタリアンだった。僕は理由を聞いてみた。宗教的な何かなのか、それとも何か別の理由があるのか、と。

  彼は、宗教とは関係がないと言ってからこう言った。
  「僕は牛を殺すことができない。だから、牛肉を食べない。豚を殺すこともできない。だから豚肉も食べない。鳥も同じだよ」

  僕はそれを聞いて、どうしてそんな風に堅く考えるのだろうと思った。そのときは僕の心をただ通過していっただけの彼、彼女らの言葉が、羊が肉になる光景を 目の当たりにしてから、ある質量を伴ったものとして思い出された。きっとベジタリアンは肉を見て、僕が見ない何かを想像する人たちなんだ。

  俺に羊が殺せるだろうか。
  旨そうに焼けている肉を見ながら、そう考えている自分がいた。目の前に頭と脚を地面に押さえつけられた羊がいて、ナイフを渡されたら、その喉元へナイフを 入れることができるだろうか。そう自分に問うてみた。
  できると思いたかった。命が肉に変わり、それが焼けているのを見て、それでも、旨そうだ、と感じたのだ。それが生理的嫌悪より勝ったのだ。できなければ辻 褄が合わない。

  ガイドが焼けている肉を一切れ買った。今晩はこれを食べようと言った。
  市場はいつしか人であふれかえっていた。子供たちが走り回っている。原色の服をまとった女が片手に赤ちゃんを抱き、おっぱいをあげながら野菜の値段の交渉 をしている。老人が大きなひょうたんに入れた地酒を売っている。ロバが干草を食べている。午前中は誰一人いなかった広場が、日が傾きだした頃沸き立ってい た。

  僕はガイドと共に次の村へ移動した。夕食に羊肉入りのスパゲッティーを食べた。やはり羊の肉は旨かった。過程を目撃してもなお、旨かった。そしていつにな く殺された羊と、羊を殺した男に感謝した。そしてまた、殺せるはずだと思った。自分が旨いと思って食べているのだ。その肉を差し出してくれる動物を自分の 手で殺せるはずだ。

  スーパーマーケットで売られているパックされた肉も、サラミもソーセージもフライドチキンも、命だった。僕はつくづく知らなかったと痛感した。そして、そ れでもなお、肉を旨いと感じる自分を知った。だから、殺してみたいと思った。ナイフを持ったら、僕はひるむだろうか。おびえた動物を前にして、殺せないと 逃げるだろうか。いや、きっと…。

  知っていることと、見ることは別だ。
  そして、見ることと行うことも別だ。
  恐れながらも、機会があれば、きっと、と思った。

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