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二度目の旅立ち

 
 セウタからアルヘシラスへ、ジブラルタル海峡を越える。ユーラシア大陸最西端、ポルトガルのロカ岬に立ち寄り、イベリア半島を横断し、ピレネー山脈を越 え、走りに走りスイスを目指す。
 スイスで僕は働くことになっていた。日本人のパッケージツアーの現地ガイドとして、夏のあいだだけ働くことになっていた。仕事はナイロビで出会ったある 日本人女性から紹介してもらっていた。旅の資金に不安を覚えていたからというのが働く理由ではあったが、必ずしもそれだけが理由ではなかった。

  喜望峰を出発してから半年ぐらい経ったある時期から、時折脳裏に現れるようになったイメージがあった。それは、立ち枯れた木のイメージだった。乾いてい て、細くて、堅い、枯れた木。葉もなく、とうに死んでいるが、ただ根だけが土の中にあるから立っているだけの枯れ木。自分の心がそのような枯れ木になって いると感じることがあった。マーケットの喧噪の真っ只中を歩いているときにふと感じ、安宿のベッドに寝ころび天井を睨みながら切実に感じた。驚きも喜びも 乾いた砂地に吸い込まれ、表情が凍結し、ひたすら眠く、苛立たしさと喪失感に押しつぶされているときがあった。そんなときでもしばらく休みまた出発すれ ば、新しい環境の中でどうにか心はリセットされ、立ち枯れの木のイメージは遠のいた。しかし、遠のくことはあっても、完全に消えることはなかった。月の満 ち欠けのように、現れてはまた遠のき、そのたびに心に澱のようなものが沈殿していった。

  旅にとって「移動」は核心部分だった。「移動」には麻薬的なものがあった。毎日違う場所に寝ていたい、軽く、自由に移動していたい。立ち去ったらすぐに忘 れられる存在でいい。日々そう願うことに浸かっていた。常に変わりゆくことを求めていた。しかし、一年を越えて移動する生活に身を置いているうちに、移動 する生活にさえしばしば変わりゆくものを感じられなくなっていた。そして、あまりにも自分が軽くなりすぎていることに怖れを感じることがあった。時折感じ のいい町で、とても感じのいい安宿に泊まったときなどに、ここに一カ月ぐらい滞在したいなと思うことがあった。

 そしていつしか、心の底に沈んだ澱のようなものが無視できなくなっていた。僕は「旅」をしていないと思うことがあった。旅の空の下にいるということを当 たり前に感じ、深いところで澱みを感じ、言いようのない疲労が沈殿し、喪失感から逃れられなくなっていた。
 だから、移動しない生活の必要を感じていた。もう一度「旅」をしたいと切実に思うから、働くことで旅を大きく区切る必要があった。

  スイスのインタラーケンに辿り着いてすぐに、長かった髪をばっさり切り、新しい服を買い揃えた。それだけで今までの一年数カ月の旅が跡形もなく消え失せた ように感じた。あっけなくて、少しさみしくも感じたが、仕事に適応することのほうが重要だった。

 すぐに僕は働き始めた。日本人団体旅行者のハイキングガイドをし、観光ガイドをした。今までとはまったく違った日々だった。目覚まし時計で目覚め、カレ ンダーにはびっしりと仕事が埋まっており、腕時計が必需品の生活だった。毎日の仕事の忙しさに追われながら、僕は休みなく働いた。慣れない仕事を必死で覚 えていった。余裕のない生活で、今日明日のことぐらいしか考えられなかった。たまたま仕事がキャンセルになった場合を除いて休日はなかった。それまで毎日 書いていた日記が、気がつくと二週間、三週間とあいだが空いていた。瞬きしただけで数週間が過ぎていた。

  僕は居心地のいいマンションに住むようになった。そこがオフィス兼住居になっており、同じくガイドをしている日本人二人との共同生活になった。住居費や光 熱費は会社が払ってくれた。駅から徒歩一分、歩いてすぐのところに気持ちのいい湖もあり、四階のテラスからは教会や川が見える。道端で寝ていた生活からは かけ離れていた。これ以上ないぐらいの贅沢な部屋で生活するようになった。

 僕は主にスイスアルプスのハイキングガイドや町の観光ガイドをした。特にユングフラウヨッホのガイドは頻繁にやった。ここはスイス観光のハイライトで、 登山列車で山の上まで行ける。晴れたら文句のない圧倒的な岩と雪の光景で、ここを見るために日本から来る人も多く、世界でも有数の観光地だった。

  毎日素晴らしい景色の中で仕事をした。しかし、風景と僕の間にはいつも一枚の隔たりがあると感じていた。いつも仕事を失敗しないようにと心をすり減らし、 風景に心が溶け込んでゆく余裕がなかったのかもしれない。
 忙しさに追われているうちに、いつしか僕は自分が旅をしていることを忘れていった。スイスでの日々は純粋に仕事だった。自ら望んで旅を区切るために選ん だ選択だったので、僕は努めて仕事に専念した。劇的に生活が変わったが、僕は急速にスイスでの生活に適応していった。

  八月二日は午前中で仕事が終わった。
 次の日から四日間はキャンセルが急に入り、仕事はなかった。スイスに来て初めての休みらしい休みだった。午前の仕事でユングフラウヨッホに行ったときに お客さんが一人高山病で倒れた。車椅子に乗せすぐに標高の低い所まで下ろしたら治った。こんなことは初めてだった。仕事が終り部屋へ戻ると、ファックスで 数日前の仕事にクレームが付いたことを知らされた。その仕事で僕はお客さんと話が弾み、自転車でアフリカを走ったことを話し、それを添乗員さんが快く思わ なかったようだ。クレームが付いたことも初めてだった。

  社長に謝りの電話を入れなければと思いながらソファに寝転びNHKの国際放送を見ていたら、不意に山岳部時代の同期の名前が放送された。横浜の大学生が沢 登り中に滝壺に転落し、死亡、と放送された。起き上がったときにはもう次のニュースになっていた。頭の中を空白が占め、またソファに横になり、二、三時間 テレビを眺め続けていた。それからようやくニュースの意味を理解し、同室者をはばかりベランダに出た。タバコに火をつけ一口吸い、あとは持ったまま灰に なった。そして気づいたら泣いていた。手が震え、タバコを持っていられなくなった。彼と交わした記憶があふれ出て涙が止まらなくなった。

 次の日から四日間は何もしなかった。四日間ともに最高の天気だったが、近くの山や湖に行く気にはなれず、ずっと部屋の中から窓の外を見ていた。ただただ ベッドに寝転び窓の外を見ていた。とてもいい天気だったことと、ずっと窓から外を見ていたことをよく憶えている。雲一つない青空と、窓から見える樹々の緑 をよく憶えている。

  休みが終り、また元の忙しい生活が始まった。表面上は生活に何の変化もなかった。そして八月末にようやく仕事が終わった。しかしスイスを出て旅を再開する 気にはとてもなれなかった。旅がなにかどうでもいいものに思え、とても旅立てる状態ではなかった。

  九月になってから僕は机に向かい、真夜中に少しずつ旅の出来事を文章にすることを始めた。また、書くことと並行してスイスアルプスの山をいくつか登った。 リッフェルホルン、ブライトホルン、ポリュックス、メンヒと登り、ガイドを雇いマッターホルンも登った。死んでしまった友人もきっと、マッターホルンは登 りたかっただろうなと思いながら登った。仕事で得たお金はほとんど山登りに使ってしまった。

  十月になり、一緒に住んでいた二人は日本に帰った。二人が帰ってしまうと急に部屋ががらんとした。社長は部屋にいつまでもいていいよと言ってくれた。
  一人になり、完全に書くことに没頭するようになった。真夜中に書き、明け方に湖の周りをジョギングしたり自転車で走ったりしてから眠った。昼夜が逆転し、 すぐに今日が何日で何曜日なのか分からなくなった。
  真夜中に書いていると、時折不安に身動きが取れなくなることがあった。自分のこれからを思い描き混乱した。生きているのが苦痛でならなくなり、どう生きて も前方がふさがっているように思えた。時折かつて好きだった女の子のことを思い出し、さらに深く混乱した。真夜中の静まり返ったマンションの一室で、僕は 瀬戸際に追いつめられていると感じていた。

  ずっと友人の死を考えていた。彼の死に腹を立て、悲しみ、納得できない想いで時間が過ぎていった。たった十数秒のニュースで彼が消えてしまうということが 信じられなかった。その後共通の友人に問い合わせ事実は動かないことを確認したが、なお納得できなかった。もし僕がニュースに接することなく、したがって 彼の死を知ることがなかったら、今も彼は生き続けていたのではないかと思ったりもした。

 彼の死を知り、津波のような悲しみが過ぎ去ったあとすぐに立ち現れたのは、「僕は死ねない」という思いだった。それは細心の注意で事故を回避するという 意味以上に、自ら死を選ぶということの強い否定だった。それまでときおり漠然と、あるいは切実に思い描いていた自死の放棄だった。自分の生死は自分に属す る事柄ではなく、家族や友人に属する事柄だと思ったからだった。僕が死んでも僕は悲しまないが、残された者たちが悲しむということを知ったからだった。し かし、そのことが僕を板挟みにした。

 スイスで旅を区切り、溜まった疲労をリセットし、そしてもう一度「旅」をしたいと思っていたが、実際には思惑と逆になっていた。静かなマンションで一人 書きながら、もう立ち枯れの木でさえないと感じていた。倒れ、風化し、それが風に飛ばされ、跡形もないと感じていた。そのような生の瀬戸際へ追いつめられ ながら、一方でははっきりと自ら死ぬことを否定していた。どう生きていいのか分からないけれど、死ねない。そんな板挟みのジレンマのなかで身動きがとれな くなっていた。
 しかし、そのような硬直した情況も、時が経つにつれ、ゆっくりと変わっていった。死ねないということが徐々に反転し、底から押し上げるような力になって いった。

  十月中旬のある朝、ベッドから起き上がり、「まだ間に合う」と思った。もう一度心を震わすことができると思った。

  旅が長くなるということは失うことなのだと諦めていた。いつからか喪失感から逃れられなくなっていた。それが旅の原理で、受け入れるしかないと思ってい た。旅は度重なる刺激の連続で、その中を歩むには心を守らなくてはいけなかった。時に心を凍結させることを要求された。そしてそうすることで心の震えを 失っていった。もう戻ることのない、失い続ける感情なのだと思っていた。

  しかし、「まだ間に合う」と思えた。心を閉ざして経過させる時間には色も音も手触りもなく、無機質だ。そういう時間に生きている実感はない。しかし、失わ れていても、まだ取り戻せる。まだ間に合う。生きている限りいつだってまだ間に合う。そう強く思えた。

  書くことと並行して、出発の準備を始めた。フロントサイドバッグを新しいものに買い換えた。後輪のハブ、スポーク、リムをすべて新しいものにした。チェー ン、ブレーキシューも新しくした。十月下旬に書いていて「もう書けない」と思えたので、それを合図に出発の時が来たことを知った。

  二度目の旅立ちだった。日本を出てからちょうど二十カ月目の十月二十七日、小雨の降る日に長かったスイス生活を離れ、再び旅が始まった。ユーラシア大陸横 断。遥かな、長い、旅路。ゆっくり行こうと思った。

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