3−3走れツヨシ |
| 走れツヨシ! 内側から声が聞こえる。イスタンブールまで千五百キロ、タイムリミットは二十二日後の十二月二十四日、クリスマスイブまでだ。一気に走ってやる。絶対に間 に合わせてやる。寒くて、日没が早くて、ブダペストが楽しすぎて、出発したくなかったけれど、一通のメールを受け取ってすべてが変わった。 「十二月二十四日にイスタンブールに行くから会いに来て」 そう書いてあった。このメールを受け取っていなかったらいつまでもブダペストに居続けていたかもしれない。このメールが僕を押し出した。目をぎらぎらさせ て、鼻息荒く、気合入りすぎで。 もちろんメールの差出人は女の子である。彼女とはスイスで出会った。スイスで僕がガイドしたときの添乗員さんだったのだ。 初めて会ったときはとても明るい人だな、いい人だなと思ったが、話らしい話はしていない。三週間後にもう一度彼女にスイスへの添乗の仕事が入り、偶然にも また僕がガイドをして再会した。同じ添乗員さんに二度当たることが初めてで嬉しくなり、仕事のあとカフェでいろいろ話した。そして三度目、また彼女にスイ スの添乗の仕事が入った。そのときは同室の友人がガイドをし、仕事のあとにまた一緒に食事をした。そのとき僕は「正月はイスタンブールで迎える」と彼女に 言った。彼女は「時々エジプトとかトルコのお仕事が入るから、また会ったりしてね」と言った。ありえないだろうと思ったが、会えたらいいなと思った。 ありえないと思っていたことが起こる事態は嬉しいものである。過度に嬉しいものである。彼女に年末年始にピンポイントでトルコの仕事が入った。「!」がた くさんあるメールで彼女はそのことを知らせてくれた。 今まで考えもしなかったのに、こういう偶然が重なると妙な感情が芽生えてくるのが人情である。焦るなよ、勘違いするなよと、僕は最大限自分を牽制した(… つもりである)。その証拠に、メールを受け取ってもすぐにブダペストを飛び出さないで、間に合うかどうか際どくなるまでブダペストに居続けた。 彼女は二十四日にイスタンブールに着き、次の日からお客さんを連れてトルコの国内観光をし、三十日、三十一日にまたイスタンブールに戻ってくるとのこと だった。そして三十一日は午後からフリーなのだという。「一緒に私の部屋で年越しパーティーできるよ!」と書いてあった。しかも今度の年越しはただの年越 しとはわけが違う。世紀をまたぐ年越しだ。 イスタンブールで再会する。二十世紀から二十一世紀へとまたぐ日を、アジアとヨーロッパをまたぐ街イスタンブールで一緒に迎える。しかも彼女が泊る五つ星 ホテルで迎える。 ちょっとありえないシチュエーションである。あまりにも出来過ぎである。興奮してしまうのも無理はない。 走れツヨシ! 十二月三日にブダペストを出た。走り出したら絶好調だった。僕は石炭を投入された蒸気機関車のようになっていた。妄想特急イスタンブール行き。頭から蒸気 が出ていたことだろう。 ハンガリーでは一日中濃い霧の日が続いた。視界が五十メートルほどしかない。朝から晩まで霧の中で、車は常にライトを点灯させ、昼間でも夕方のように暗 かった。午後四時にはもう真っ暗になってしまい、それまでにどうにかして野宿する場所を見つけないといけなかった。そして寒かった。朝、霜が凍りテントが ぱりぱりになっていた。 距離を稼げないのがもどかしくてならなかった。まだ体は全然疲れていないのに日が暮れてしまい、今日はここまでとなってしまう毎日だった。午後四時から次 の日の朝まで延々十数時間狭いテントの中で地図を睨みながら悶々とするしかなかった。寒い中、ロウソクの炎を見つめ、悶々とするしかなかった。これは危険 な状況である。妄想が暴走するのには絶好のシチュエーションである。 クリスマスイブに再会するのだから、何かプレゼントを持っていくのがいいなと思い、トカイワインを買った。甘く、濃厚な貴腐ワインである。日本で買うと数 万円はするハンガリーの名産品だが、こっちでは一〇ドルほどだ。このワインに割れないように洗いたての靴下を二重に履かせ、タオルでぐるぐる巻きにして持 ち運んだ。僕は今まで紙一枚さえも軽くしようと心を砕いてきた。ガイドブックも重いので要らないページは破り捨ててきた。こまめに不要な荷物は日本に送り 返した。しかし、このずっしりとしたトカイワインは重くなかった。毎日割れてないなとバッグから取り出して確認してから寝た。 ハンガリーを抜け、ルーマニアに入る。道端やガソリンスタンドの脇にテントを張る。連日、精一杯の前進を続ける。寒さは強まるばかりで、日中でも手が切れ るほど痛くなった。 よく道端でリンゴ売りのおばちゃんが焚き火をしていたので当たらせてもらった。リンゴ一個分ぐらいかなとお金を渡して買おうとしたら、どっさり、両手いっ ぱいくれたことがありびっくりした。きっとおばちゃんには僕ぐらいの年頃の息子がいるのだろう。もっと持っていけとどんどんリンゴを渡すおばちゃんの横顔 は、確かに母のそれだった。 ルーマニアを抜け、ブルガリアに入る。雪がちらつき出した。しかし僕は依然として絶好調だった。本当はもう体はクタクタで休みたかったが、気合が入りすぎ ていた。 この寒いのに、ちらほらと道端にオネーサンが立っていた。パツンパツンの格好をして「ハロー、セーックス」と微笑んでくる。そのたびごとによろよろとオ ネーサンのほうへ吸い寄せられ、慌ててハンドルを切る。危ない危ない。僕の目指す方向はイスタンブールだ。道を間違えるな。 毎日感動的なまでの前進をし、涙ぐましい努力をして、僕の気持ちは高まるばかりだった。走りながらスイスで交わした会話を思い出し、テントの中でイスタン ブールでの再会の場面や一緒に町を歩く場面を想像しているうちに、彼女に会いたい気持ちは募るばかりで、段々おかしなことになってきた。イスタンブールま であと何日、あと何キロ、そう地図とにらめっこしているうちに、あろうことか切なくなってきた。会いたくて、苦しくて、切なくなってきた。これはおかしい じゃないか。どちらかというと下心が優勢じゃなかったのか? それなのにこの苦しさと切なさはなんなのだ。 暗くなってからブルガリアの首都ソフィアに辿り着く。もうくたくただったが、荷物を宿に置いてからインターネットカフェへ行きメールをチェックする。彼女 から来ていた。詳しい日程を知らせてくれると共にこんなことが書いてあった。 「十二月三十一日はフリーだから遊べるよ。 次の日は早朝出発だけど、せっかくの年越しだから徹夜もOKさ」 “徹夜もOKさ”だって! この言葉にガソリンは満タンになった。次の日の早朝にソフィアを出た。 走れツヨシ! 雪が本格的に降り出した。朝テントから顔を出すと、どさっと雪が落ちてきた。自転車は雪に埋もれていた。だからどうした。道端には相変わらずオネーサンが たくさん立っていて、セーックスと甘い声を掛けてくる。だからどうした。ブルガリアを出国し、トルコに入国する。もうイスタンブールは目前だ。 十二月二十四日、クリスマスイブの日の走行は涙ぐましい。あと百二十キロ残っていた。何としてでも今日中に辿り着かねばならぬと気合を入れて走った。向か い風が強く、アップダウンが連続する道だった。暗くなってからようやくイスタンブールの端に辿り着き、それからが長かった。イスタンブールは大都会なので ある。真っ暗な郊外を何度も道に迷いながら、やっとの思いで、夜の九時半に中心部に辿り着いた。普段なら四時で行動を打ち切るところを、この日は九時半ま で走ったのだった。旧市街の安宿にチェックインし、すぐにメールをチェックする。彼女から来ていた。二十二日に書かれたものだった。 「なんか二十四日にはるばる飛行機に乗ってイスタンブールに行って会うなんて、超遠距離恋愛みたいだね。がんばって二十四日に来て!」 今行く。今すぐ行く。僕は荷物を部屋へ運び入れると、顔を洗って気合を入れ、トカイワインをバッグに突っ込み、また自転車に飛び乗った。 宿のある旧市街を抜け、ガラタ橋を渡り、新市街の中心、タキシム広場へ向かう。目指すはタキシム広場に面した五つ星ホテル、ザ・マルマラ・イスタンブール である。 ガラタ橋を越えるとき、ああ、イスタンブールだ! という思いが込み上げてきた。とうとう辿り着いた。約束の地、イスタンブール。感慨はひとしおであった。 ホテルに着いた。ぼろぼろの格好で五つ星ホテルに入るのは気が引けたがそんなことは言ってられない。エレベーターに乗り、シャンデリアの輝くロビーへと向 かう。 彼女がいた。すぐに分かった。目に飛び込んできた。ちょうど彼女はホテルの受付の前でお客さんにホテルの説明をしているところだった。僕はお客さんの後ろ にさりげなく立った。彼女の視線がこっちに移動し、目が合った。あ、という顔になり、次いで笑顔になった。間に合ったんだ! という笑顔だった。 仕事が終わってからホテルのロビーに座り興奮して話した。彼女は「本当に間に合ったんだね」と言った。「えらいえらい」と言った。僕はクリスマスプレゼン トがあると言って、トカイワインを取り出した。割れないように靴下にくるんできたことを言うと、彼女がこう言った。 「靴下にプレゼントを入れるなんて、本物のサンタクロースみたい」 「………!」 次の日の早朝から五日間、彼女はトルコ国内の旅行に行った。トカイワインは年越しに一緒に飲むことにした。僕はそわそわしながら再び会える日が来るのを 待った。待っている日々はじれったいほど長く感じた。 待っている間に一度、金角湾を見下ろす位置に立つガラタ塔に登った。ここから見下ろすイスタンブールはロマンチックすぎる。夕方のお祈りの時間になると、 何百とあるモスクからお祈りの時間を告げるアザーンが流れ、街全体が揺れ動く。夕日が街を真っ赤に染めたあとの夜景も絶品だ。ライトアップしたモスクが浮 かび上がり、金角湾にガラタ橋が浮かびあがる。黒々としたボスポラス海峡の向こうにアジアが見える。ロマンチックシティ、イスタンブール。ここは三十一日 に彼女とまた来よう。 そして迎えた十二月三十一日。二十世紀最後の日。どれだけこの日が来るのを待ち望んだだろう。 五時にホテルのロビーで落ち合う。一緒に街中に繰り出す。ガラタ橋の方へ一緒に歩いていく。街は大晦日の興奮に包まれていた。橋を渡りながら、前方には ライトアップされているイェニモスク、スレイマニエモスク、すごくいい感じだ。 橋を渡りすぐ左の桟橋の方へ行く。昼間は人でごったがえしているが、もう暗くなっているこの時間は人もまばらだ。彼女が物売りから手持ち花火を買った。ど ういうわけか大晦日が近づいてきたらこの手持ち花火を売る人がやたらと増えていた。桟橋のベンチに座り、ライターで火を点けようとしたが、風が強くてなか なかうまくいかない。僕たちは二人ぴったり寄り添い、風を遮り、ようやく花火に火を点けた。消えそうになったらもう一本。また消えそうになったらもう一 本。いい感じである。誰がどう見ても恋人同士である。なんだ心配することなかったな。 花火が尽きたので桟橋のベンチを立ち、今度はガラタ塔に登った。塔の上にあるカフェでお茶を飲みながら楽しくおしゃべりをした。夜景は今日も素晴らしかっ たが、彼女の笑顔も素晴らしかった。夜景を見るべきか、彼女を見るべきか、それが問題だ…。などと自問しながらも、夜景は申し訳程度にちらっと見て、もっ ぱら彼女を見ていた。なんてシアワセなんだ! 新市街に戻ることにした。歩き回って疲れたので、レストランに入った。夕食を食べながら、楽しくおしゃべりをしながら、僕はレストランを出たら手を繋ぐぞ と決心をした。今世紀最後かつ最大の決心だ。出された料理の味などまったく分からなかった。 レストランを出た。もうあと数時間で新世紀を迎える。街は何処もかしこも新年を祝う人でごった返している。タキシム広場に近づくにつれその数は増す一方 だ。そして花火が飛び交い出した。あの異常に沢山売られていた手持ち花火はどうやら投げ合って使うのが正解らしい。危ないことこの上ない。まるで戦場であ る。 飛び交う花火を避けながら、今世紀最後の決心を実行した。さりげなく、人ごみに紛れて離れ離れにならないようにという大義名分を楯に。手を繋ぐことが当た り前のように、会話は途切れることなく続いた。しかし僕の心臓は壊れそうなほど高鳴った。そうして僕たちはタキシム広場に辿り着いた。眼前には我らがホテ ル、ザ・マルマラ・イスタンブールが聳え立っていた。新世紀まであと一時間。 …完璧だった。二十世紀が残りあと一時間という時点までは完璧すぎるほど完璧な展開になっていた。しかしどうやら神は自分以外の完璧な存在を嫌うような のだ。 十四階のホテルの窓から群集で埋め尽くされたタキシム広場を見下ろしていた。新世紀の瞬間には広場全体が火の海のようになった。花火が飛び交い、歓声が 最高潮に達し、発煙筒がいくつも焚かれていた。しかしその光景は、苦く、やるせない光景として記憶されている。付け加えるなら、あの甘いトカイワインがか くも苦いものだと知ったのもあのときである。 まだ夜が明けきらない頃、一人とぼとぼ旧市街に向けて歩いていた。彼女のツアーは早朝の飛行機で日本に戻る日程で、暗いうちにホテルを出なければならな かったのだ。 日の出にはまだ時間がある。こんなに早く宿に帰っても開いているわけがない。できるだけゆっくりと、そして哀しみを堪えながら歩いていた。夜がまだ明けき らない街並みは、ついさっきの興奮が嘘のように静まりかえり、花火の燃えかすやゴミが散乱し、よけい物悲しかった。 気がつくと一人の男が近寄ってきていた。そして僕にぴったり寄り添うように歩き出した。僕は追い払う元気もなく、無視して歩いていた。しばらくすると男が 手を繋ごうとし出した。振りほどいても、また。また振りほどいても、また。睨むとへらへら笑う。無視するとついてくる。そうこうするうちに男が耳元でささ やいた。 「――セックス?」 このときの感情を不思議とよく憶えている。腹立たしさとやるせなさと笑いが同時に立ち上がり、瞬時に中和されるような感情をよく覚えている。 お前は髪の長い俺を女だと勘違いしているのか? あるいは男だと知って言ってるのか? …しかしそんなことはどうでもいい。あるのは哀しみだけだ。お前も 哀しいのか? こんな新世紀の夜明けに相手を探して哀しいのか? ここにも哀しい人間が一人いるのだと思っていた。しばらくとぼとぼ並んで歩いていたが、いつのまにか男はいなくなっていた。 ガラタ橋を越える。うす曇りの空は白み始めた。よく走ったよ、まったく。ブダペストから二十一日間連続だもんな。上手くいかなかったけど上出来だ。ちょっ とついてなかったけどな。でもがんばった。ベスト尽くしました。あんたいい旅してるよホント。おつかれ様だな。 坂を上り旧市街の宿の前に辿り着く。鳥の鳴き声が聞こえる。もう辺りは明るくなっている。初日の出は曇り空の中にいつのまにか昇っていたようだ。二十一 世紀か…。 |
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