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ラクダとマッチ


 ラサを目指して走りながら、とりとめもない想像をしていた。
 自転車を漕ぐことは単調なことだ。だから暇でしかたないので、僕は白昼夢のように現れては消える想いを捕まえ、なるべく長持ちさせ、成長させ、肉付けを し、たくさんの物語を作ることに夢中になっていた。自動操縦装置に任せるように、自転車を漕いでいることを意識しないでいられた日は、想像が想像を呼び物 語はどんどん膨らんでいき、もうあとは映画を見るように眺めていれば一日は終わった。その間に勝手に自転車は進んでおり、得した気持ちになれた。かつて出 会った人と交わした会話を思い出し、日本に住む会いたい人へ宛てて書く手紙の内容を考え、あのときああしていたらどうなっていたか、あの子にこう言ってい ればどうなっただろうかなどとあれこれ想っていた。

 そしてその中でも、繰り返し想い、細部までありありと想像していたことが三つあった。その三つは連続していた。旅を続け香港まで辿り着いてから、気が変 わりロンドンへ飛ぶこと。パリの屋根裏部屋に住むこと。しばらく働きお金を貯め、ラクダでサハラ砂漠を横断すること。


 旅が、当初予想していたよりも長くなりすぎていた。僕は旅の生活にどっぷり浸かり、心の底まで魅了されていた。しかし、日本はもうそれほど遠くはなかっ た。このまままっすぐ自転車を漕げば、あと数カ月もすれば日本に辿り着いてしまう。そうしたら否が応でも旅が終わってしまう。それが、どうしても嫌だった のだ。辿り着いたからおしまいではあんまりだと思っていた。気持ちの上で何らかの「終わり」を納得できたなら日本に帰ってもいいが、ただ日本に辿り着いた から旅が終わるのでは理不尽だとすら思えた。そして僕には「終わり」など見つかる気がしなかった。

 チベットの無人の荒野を来る日も来る日も走りながら、これからどうしようかと思っていた。きっとチベットの後はネパールへ行き、インドへ行くのだろう。 その後は東南アジアに行きたい。それから中国へ行き、香港から台湾へ飛行機で飛び、台湾から沖縄へ船で渡ることになるのだろうか。いずれにせよ、もう日本 はそう遠くない。もうすぐ日本に辿り着いてしまう。

 香港で気が変わることを、僕はしきりに想像していた。台湾行きのチケットを買うつもりで旅行代理店を廻っていたら、ロンドン行きの安い航空券を見つけて しまい、衝動的に買ってしまうのだ。きっと元イギリス領だった関係で本当にロンドン行きは安いだろう。誰かからそう聞いた覚えがある。

 チケットを買ってから愕然としながら旅行代理店のドアを出る場面を想像した。そのときの期待と不安の大きさを何度も想像した。

 そして両親へ向けて長いメールを書くのだ。あるいは電話をするのだ。「日本へは帰りません。まだ旅を続けます。もう飛行機のチケットは買ってしまいまし た。明日飛行機でロンドンへ飛びます。大学は辞めます」と。当然両親は慌てるだろう。あと少しで帰ってくると思っていた息子がいきなりまた数万キロ離れて しまうのだ。父はああ言い。母はこう言うだろう。僕はこう答えて最終的には相当がっかりさせながらも納得させるだろう。僕は本当に申し訳ないと思いながら も仕方がないと思う。そうしてロンドンへ飛んだ後、パリへ移動して働くのだ。


 チベットの荒野は連日厳しい峠が続いていた。景色は最高なのだが路面状態が悪く距離が延びない。ラサはまだか、あと何日なのだと、毎日地図を食い入るよ うに見つめていた。道端や廃屋に泊まり、川で頭を洗い、村に辿り着いたら食料を買い足した。ただただ前進するだけの日々だった。そしてこういう日々はなん なのだろうと思っていた。今日が明日で明日が昨日だったとしても何の不都合もない。連日疲労困憊しながらも、淡々とした特徴のない日々が続く。残るのは地 図上の線だけだ。

 パリでは屋根裏部屋に住みたい。これは絶対だ。仕事は何かあるだろうか。道路掃除ならできるのではないか。日本語を教える家庭教師なんて仕事はないだろ うか。日本人観光客相手のガイドとか日本料理店で働くのはいやだな。日本社会の中で働くようなものだから。でも、仕事がなければそれでもいい。フランス語 をどこかの学校で半日勉強して、半日働くのはどうだろう。休日はカフェで道行く人を眺めよう。マドモワゼルと仲良くなれないかな。モーリタニアで出会った フランス人の彼はパリ郊外に住んでいると言っていたから、部屋を見つけるまで居候させてもらおう。彼がいい所を探すのを手伝ってくれるかもしれない。

 屋根裏部屋は狭くてもいいけど小さな窓があるといい。どこからか子猫を見つけてきて飼いたい。名前は何にしよう。朝はおいしいフランスパンを食べよう。 食事はどこかで食材を買ってきて自炊しよう。窓から石畳の広場が見えたらいいな。夜は町を歩き回ろう。パリ中とにかく足の向くまま歩き回りたい。そして屋 根裏部屋に戻ってきたら、子猫の頭をなでながら詩を書くのだ。


 ふと谷をはさんで対岸の山肌を見ると、ごま粒のように小さな点が動いていた。ヤクだ。百頭はいるだろうか。そしてよくよく見るとヤクの群れの最後尾にヤ クを追うおばさんがいた。遅れがちになるヤクを叩き、群れから離れていくヤクを巧みに群れに戻していた。

 僕はしばし自転車を停めて、その光景をじっと見つめていた。こんな荒野が日々の生活の場なのだということが不思議に思えた。見渡す限りあまりにも広大な のだ。そして人間はあまりにも小さい。日本の都市の密集する住宅やマンション群を思い出し、本当にいろいろな場所で人は生きているのだと思った。しばらく してヤクの群れは小山を越えて向こう側へと消えていった。

 フランス語がある程度上達して、お金がある程度貯まったらパリを出よう。陸路で南下してもう一度モーリタニアへ行こう。そしてラクダを買うのだ。二頭買 うのだ。一頭五万円ぐらいで買えるだろう。ヌアディブで買おうか、それともヌアクショットのほうがいいだろうか。名前は何にしようかな。

 そしてサハラ砂漠を横断するのだ。一頭に水と荷物を持たせて、もう一頭に僕が乗ろう。こんな風にがんばって自転車で進まないで、ラクダの背に揺られなが ら悠々と旅しよう。でもマリはいいとしてもニジェールやチャドやスーダンのビザは取れるのだろうか。有効期間は何日間だろう。ニジェールやスーダンは場所 によっては治安が悪くなっているとガイドブックに書いてあったけど大丈夫だろうか。日差しが強いだろうから、ラクダの鞍に傘でもとりつけよう。ラクダはか わいいだろうな。でも何日間水を飲まないでも大丈夫なのだろうか。自分の分だけ気をつけていればいい自転車と違って、ラクダはその点大変だな。でも砂漠の 真っただ中で動かなくなったら困るからラクダの命も自分の命みたいなものだろうな。いいな、そういうの。


 夕方、そろそろどこかに野宿しようと思っているときに、馬に乗ったチベット人が前から来た。挨拶をして、どこから来た、どこへ行く、と少しだけ話す。そ れじゃあと行きかけると、彼はちょっと待てと言いポケットから何かを取り出した。そしてこっちに来いという。

 自転車を置いて行ってみると、マッチを持っていた。そして箱から一本取り出してすった。ボッと燃えてすぐ消えた。風が強いのだ。

 それから彼は僕の顔をのぞき込んで「な?」という顔をした。そしてマッチを僕に手渡して、お前もやってみろと言う。なんのことかよく分からなかったが、 取りあえず一本すってみた。ボッと燃えてすぐ消えた。「何?」と彼の顔をのぞき込んだら、それあげる、と言ってマッチを一箱くれた。いいよいいよと遠慮し たけれど、彼は颯爽と馬を操り、傾いた夕日のほうへ行ってしまった。僕はマッチを手にキョトンとするばかりである。

 不思議の国、チベット。
 思わずつぶやいてしまった。そしてまた自転車にまたがり漕ぎ出してから、自分がすっごくよろこんでいることに気がついた。マッチなんていらねーよ、ライ ターを三つも持っているよなんてつぶやきながらも、にやけてしまう。何かくじ引きで一等賞を引いたような、フツフツとした喜びを感じていた。

 夜、わざわざマッチでローソクの火を点けてみた。いつものようにロウソクの炎に見入りながら、チベットいいところだなと思っていた。


 タルチェンから二十一日間連続して走った。そしてとうとうラサに着いた。
 僕は本当にこの日が来ることを待ち望んでいた。まだかまだかと毎夜ロウソクの灯りの下で地図をにらんでいた。ラサでやりたいことのリストはもうメモ帳 いっぱいになっていた。しかし一番やりたいことはシャワーを浴びて、ベッドの上で丸太のように眠ることだ。

 ラサ郊外に差し掛かり、ラサの中心部へ入っていき、チベットの地図からガイドブックのラサ市街地図に切り替わったときは不思議でならなかった。あの憧れ 願ったラサに自分がいることが信じられなかった。

 暗くなってからラサの中心部に着いた。ポタラ宮殿は暗闇の中にそのシルエットがあまりにも大きく聳えたっていた。そしてジョカン寺へ行った。ジョカン寺 はチベット全土から巡礼者が訪れる聖都ラサの中心である。もう真っ暗だったが、ホテルへ行くよりも先にジョカン寺に向かった。

 ジョカン寺の前には五体投地を繰り返す人々が街灯にうつしだされていた。その光景がスローモーションのように見えた。五体投地を繰り返す人々を呆然と眺 めながら、ラサに辿り着いたことをかみしめていた。しかし、そのときこみ上げてきたのは、安堵と喜びに包まれた、不思議に深い嫉妬心だった。

 僕だって巡礼者のようにラサに辿り着くことを想い、このジョカン寺に詣でることを想い、長い道を旅してきた。でも僕はやっと辿り着いてもただ眺めるだけ で五体投地ができない。喜びを投げ出して祈ることができない。このとき僕は初めて信仰を持つ人たちに嫉妬した。うらやましいと心から思い、ホテルへ向か う。


 荷物を部屋へ運び入れ、シャワーを浴びる。熱いシャワーを浴びたらため息が漏れる。アリで浴びて以来、実に一カ月ぶりのシャワーだったのだ。長い髪が絡 まっており、ごわごわな髪はいくらシャンプーをつけても泡立たなかった。何度も何度もしつこく洗う。洗えば洗うほど目に見えて体はきれいになっていった。

 部屋へ戻り、横になっても目が冴えて眠れなかった。もう一歩も動けないほど疲れていたが、何か気持ちが高ぶってしまい、ふつふつと力が込み上げてくる。 そして久しぶりにタバコが吸いたくなってしまった。外へ出てまだ開いている店を探しタバコを買う。タバコは高かったが、らくだマークのキャメルにした。部 屋に戻り、マッチで火を点け、一本吸う。ゆっくりと煙をはき、長かった、よくやった、とラサに着いたことを噛みしめていた。

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