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手を合わせる


 回転する群衆、浮かび上がる仏塔、響きわたる歌声、ロウソクの海。その日の夜マハボディー寺院を訪れると、そこは祈りの坩堝と化していた。菩提樹の木の下で数千年前のある日、仏陀その人が悟りを開いた地で、数千の祈りが回転し、数千の手が合掌をしていた。
 聳え立つ五十二メートルのマハボディー寺院の仏塔の先に、満月がその群衆を祝福するかのよう輝いていた。境内には無数のロウソクが光の草原のように揺れていた。

 僕はチベットで買った数珠を手で繰りながら群衆の回転する流れに入っていった。マハボディー寺院を右に見ながらコルラをした。道に沿ってロウソクが埋め尽くされていた。それでもさらに次から次へとロウソクは灯されていった。五体投地をしながらコルラをしている老人がいる。子供を背負いコルラをしている父がいる。歌を歌いながらコルラをしている若者の集団がいる。一周、二周、三周…、僕はコルラを繰り返した。さらに内側のコルラ道へ移動し、また一周、二周、三周…、コルラをくり返した。

 境内へ移動する。
 菩提樹の大木の下で五体投地をくり返す僧、読経をしている僧、ロウソクを灯している父と母と女の子、無数のロウソクの炎の先にその光景が陽炎のように揺らめいている。視線を上へ向けるとマハボディー寺院が覆いかぶさってくる。満月がそのすべてを上から照らしている。僕は気が付いたら合掌していた。

 十数年ぶりにブッダガヤで行われるはずだったカーラチャクラ灌頂は、ダライラマ法王の体調不良のため一年延期になってしまった。気落ちして夕方宿でふて寝している時だった。ケイさんが宿に来て、僕を強引にマハボディー寺院へ連れて行ったのだ。
 昼のマハボディー寺院は毎日のように訪れていた。そしてカーラチャクラ灌頂を授かるために世界中から訪れた数十万人のチベタン(チベット人)と一緒にコルラをしていた。しかし暗くなってから訪れるのはこの時が初めてだった。

 コルラをしながら、境内を歩きながら、こみ上げてくるものがあった。
 平和への祈り、自由への願い、故郷への想い、それらが渾然一体となり仏塔の周りに渦巻いていた。祈りが螺旋状に仏塔を昇っていくのを見た気がした。
 この中のどれだけのチベタンが亡命してきたのかは知らない。しかし相当な数になることは確かだった。中国の支配を嫌い、あるいはダライラマの祝福を得るために故郷を捨て、ヒマラヤ山脈を越え、インドへと亡命してきた人達の想いが痛いほど伝わってきていた。
 そしてその想いが同時に、世界平和への祈りと重なっていた。ニューヨークのあの痛ましいテロ事件から五ヶ月、世界が急速に戦争へと突き進んでいる一方で、この地ブッダガヤでは暴力の連鎖を断ち切る祈りが、世界平和への祈りが絶えなかった。

 9月11日、僕はチベットの荒野のど真ん中にいた。何も知らずに自転車を漕いでいた。前日、通りがかったチベタンからマッチをもらっていた。世界は平和だった。
 知らされたのは11日後だった。あと三日でラサへ辿り着くという地点で知らされた。夕方、一人の自転車旅行者が川辺で休憩をしていた。話しかけるとラサから漕いで来た日本人だった。今日の行動はそこまでとし、同じ場所にテントを張った。夕食を済ませ、岩に腰掛け話している時に彼が教えてくれた。
 始めはよくも真顔でこのようなデタラメを言えたものだと少し感心したのだ。いくら情報に疎い生活を送っているとはいえ、そう簡単に騙されてたまるかと思ったのだ。
 実際何年も旅をしていると言うと、会う旅行者は面白がって日本の情報をいろいろ教えてくれるのだ。芸能人の誰それが結婚しただの離婚しただのという事を教えてくれた。こんな事件があり、今日本ではこんな事が話題になっていると教えてくれた。そして中には冗談で「今、日本では自販機でコンピューターが売っているんですよ」などと嘘とも本当とも判断しかねる事を言う輩もいた。

 「飛行機がハイジャックされ貿易センタービルにつっこんだ」などと、いきなりチベットの荒野で言われて信じる人はいないだろう。その手には乗らないぞと思ったのだ。しかし、何度聞き返しても真顔で同じ事をいい、冗談でしたと言ってくれない。騙されましたかと言ってくれない。釈然としない思いで自分のテントへ戻り、横になったら、もしかしたらという疑念が膨らんできた。
 そして眠れなくなった。僕の周りでは世界はこんなにも平和なのに、僕の知らない内に世界は激変していた。僕が天の川を眺め、三日月が山の端に沈んでゆく様を眺め、ロウソクの炎を見つめている間に、戦争が始まろうとしていた。
 数千の一瞬で消えた命を想像し、残された者達の恐怖と痛みを想像し、そしてそのとき強く、強く祈ったのだ。我慢して欲しい、と。暴力を連鎖させないで欲しい、と。同じ痛みを味わう事になる別の国の無実の人達を想像して欲しい、と。我慢できるだけの英知があの国にはあるはずだ、と。

 マハボディー寺院を正面に見て合掌していた。こんなに自然に合掌できたのは初めてだった。傍観者に徹していたつもりだったが、気が付いたら手と手が合わさっていた。合掌することに対する抵抗が全くなかった。
 次の日からのブッダガヤの日々は素晴らしかった。一日ごとにパズルのピースが合わさっていくような気がしていた。昼も夜もマハボディー寺院へ行きコルラをした。出会った人達と何時間も話した。心のガードを下げ、話すという事に対して自覚的になれた。話す事で場が生まれ、エネルギーがやりとりされた。これが「話す」ということだったのか、と目を見開かされる思いがした。話すということがエネルギーのやりとりで、価値観のやりとりでもあり、脳みそをかき回すような刺激に満ちている事だとは知らなかった。出会う人に対して誠実に接し、心を開くように努めたときに交わされた会話は、宝石のように大切な時間だった。
 そして本当に「学んでいる」と思えた。大学の講義などではなく、こういう場こそが「学ぶ」ということの原点なのだと思えた。
 出会いというものが本当に大切な学びの場になるためには、自分の心を開いていなければならないという事を知った。僕は3年近く旅をしていたくせにそんな事も知らなかったのだ。

 そんなある日、今まで見ていただけの五体投地を一度やってみた。
 合掌した手を頭の上へ持っていき、顔の前へ持っていき、胸の前へもっていく。合掌をとき、うつぶせになり、また前方で合掌する。そんなことを数時間やってみた。仏陀が悟りを開いたという菩提樹の木に向かって祈ってみた。始めはぎこちなく、慣れてきたら無心で。
 チベットの新蔵公路を走っていたときに強く感じた「これは巡礼なのではないか」という想いをまた思い出した。繰り返すということ、無心になるということ、やはり五体投地は自転車を黙々と漕ぐことと酷似していた。苦行ではない。願いですらない。喜びに似た無心だった。ただの合掌だった。ただの祈りだった。何も願わない事を願った。

 宗教について、僕は常に傍観者だった。日本を出る前に起こった新興宗教による一連の事件の不気味さも相まって、僕は宗教に対して一歩距離を置いていた。
 喜望峰から出発し、ブラックアフリカでのキリスト教、北アフリカや中東でのイスラム教と通過している内に、宗教がしっかり土台にある人々の生き方の確かさを好ましく思い、宗教に対しての抵抗感はほとんど無くなっていたが、だからといって宗教を自分の生き方の問題として考えることは無かった。
 チベットで仏教と出会った。初めてチベットで仏教と接したとき、これが仏教なのかと驚いた。僕の知っていた仏教とはかけ離れていた。しかし、チベットを長く旅する内に、次第に仏教に魅了されていった。キリスト教やイスラム教はあくまでも傍観者というスタンスで接していたが、チベットをくぐった後では仏教を傍観者として見ることが出来なくなっていた。僕はチベット仏教に深く魅了されていたのだ。
 そのようにしてチベットを旅したときに発芽したものが、ここブッダガヤで成長した。仏教についての理論的なこと、哲学的なことはほとんど何も知らなかったが、皮膚感覚として好ましいと感じたのだ。宗教に関してこのように感じたことは初めてだった。

 仏教について、とりわけ煩悩についてよく考えていた。
 ロウソクの炎に息を吹きかけて消すように、煩悩の炎を消せたらどれだけ楽だろうか。百八個あるという煩悩をひとつずつ消していきたい。そう願ってすぐ出来るなら世話ない。しかし煩悩ほど愛おしく、煩悩ほど捨てがたいものも無い。僕は率直に言って、日々煩悩に焼き焦がされていた。
 ブッダガヤでコウヘイさんとまた再会し、部屋をシェアして滞在していた。ある日コウヘイさんの友人チョメキチさんが日本から来た。チョメキチさんはコウヘイさんに頼まれて日本のエロ本を持ってきていた。見せてもらってもうびっくりしてしまった。印刷技術の高さ、ツボをつく編集、なんでもありの日本の性風俗。何から何まで衝撃的だった。奇跡の本だった。どのページを見ても光り輝いていた。
 さっそくコウヘイさんと交渉した。「何ページか欲しい」と。「僕にはこれが必要だ」と。
 コウヘイさんは頑固だった。「これは貴重な本なんだ」と。「オレだってこれから先長いんだ」と。
 仕方がないからカトマンドゥの古本屋で買った文庫本を二冊差し出した。500ルピーも出して買ったものだ。安宿なら10泊できる値段だ。僕の持っている最高のものだった。そして必死に頼んだ。「これと交換してくれ」と。
 真剣な交渉が続いた。そしてやっとのことで数ページだけ手に入れた。このページはだめだ、このページもだめだ、などと厳しい注文を付けられつつ手に入れた数ページ。泣く子も黙る数ページ。なんて嬉しいのだろう。
 それを見ながらつくづく思ったのだ。煩悩を昇華させるなど、どだい無理な話だ、と。マハボディー寺院をコルラし、菩提樹に向かって五体投地し、チベタンが祈る姿に感動し、世界平和を切実に願いながら、僕はどうしようもなく俗物だった。二言目には「かわいい女の子に会いたい」と言っている俗物だった。呆れるほど煩悩まみれの俗物だった。

 煩悩の底なし沼で窒息しそうだった。手っ取り早い手段で−例えば買うとかして−とりあえずの「底」を見つければもう少しうまく煩悩と付き合っていけるのかもしれなかったが、なぜだか拒否し続けていた。それはフェアじゃない、それでは負けだと拒否し続けていた。さらに言えばそんな事は喉が渇いたと言って海水を飲むようなものだと思っていた。一時の渇きは癒されるかもしれないが、反動が大きい。だから僕は常に煩悩が先か意地が先かのゴールの見えないデッドヒートを繰り広げていた。必死になればなるほど滑稽なデッドヒートだった。
 内面で煩悩と意地が拮抗し、祈りと性欲が乱反射していた。僕はその時真剣に思ったのだ。平和を願うのも自分だし、かわいい女の子を求めるのも自分だ、と。そしてそれは同居可能だと。聖と俗を自分の中に同居させるしかあるまい、と。平和を祈る。不幸な出来事に涙する。暴力の連鎖について真剣に考える。そしてそれと同じぐらい切実に素敵な女性を求める。考えるまでもない。自然すぎる流れだ。しかし、それにしても悩ましい。

 ブッダガヤには結局14日間滞在した。
 ダライラマ法王がカーラチャクラの中止を発表するスピーチで「今回は中止にするけれど、こうやって多くの人が集まったことが意味のあることなのだからがっかりしないで欲しい。」と言っていたが、それは本当だった。多くの人と出会い、話し、影響され、この地は旅全体においても大きな意味を帯びてくるという確信があった。今までの三年近くになる旅で蓄積されてきたものが、少し花開いたと思っていた。傍観者であるというスタンスが端から徐々に崩れてきたのかもしれない。しかし花を開かせた時に旅そのものがどうなるのか、その時の僕に知る術はなかった。
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